10.雪蘭




         *


ルゥーのかえ」


 後ろから投げかけられた声に、南方ナンファンはゆっくりと振りかえった。


雪蘭シュエラン


 南方の視線の先には涼やかな目許の雌性おんなが立つ。きっちりと着込んだ濃緑色の繻裙じゅくん姿に歳月の流れを思った。南方がかつてここに露涯ろがい雌性おんな達を連れてきたころには、肩と胸元の大きく開いた妓女の衣装をまとっていた。あの頃は、化粧も特有の濃いものだったが、今は薄く白粉おしろいをはたくばかりか。

 南方の視線に含まれた、彼女の身の変遷を思うものを解してか、雪蘭シュエランは、口元の右側だけを上げて笑った。


「今は媽媽マーマをつけてくれていいんだよ」


 低く落ち着いた声音に南方は苦笑した。こういう気の利かせ方が、昔から好ましい雌性だった。当時銀鈴楼ぎんりょうろうを取りまとめていたのは三雪サンシュエ媽媽だったが、五十年程前に代替わりしたと聞いている。その跡を継いだのが雪蘭シュエランというのは意外なような順当なような。雪蘭シュエラン所謂いわゆる人気妓女というやつで、技芸にも秀でていた。同時に姉御肌で面倒見もよかったから、管理の方を引き受けたのだろう。当時もほうほうの態で妓楼に入った雌性達の面倒をよく見てくれたのがこの雪蘭シュエランだった。


「久しぶりだな」


 春蕾チュンレイの腕に眠る子を起こさぬよう、南方は雪蘭シュエランの傍まで歩み寄ってから語り掛けた。そんな南方を見上げつつ、雪蘭シュエランは肩をすくめてから腕組みする。


「全くだよ。あの子等うちに預けて、一寸ちょっと生活が落ち付いてきたと思ったら、そのままツラも見せやしないんだから。情があるんだか薄情なんだかわかりゃしない」

「まあ、俺に情があるように見えてたんなら、そりゃ比較対象が悪ィってもんだぜ」

「まぁねぇ。あの時の他の廂軍しょうぐんさんと比べたら、そりゃあんたも真っ当な雄性おとこに見えるってなもんよ。まあ、世にまともな雄性なんざあったためしがないってね」

「いくらなんでも主語のくくりがでけぇよ。しばらく見ねぇうちに口は相当悪くなったみてぇだな」

「あんたにゃ言われたくないねぇ。自分で客もとらなくなりゃあこんなもんよ」

「引退したから今度こそは交にって通ってくるような奴はいねぇのか」

「あんたは、どう思うんだい?」


 ちらと流し目をくれる。そこにわずかばかりの婀娜あだの残滓がくゆるのは致し方ないか。雪蘭シュエランの問いは、南方自身の経験と感触で判断しろということだ。言い換えれば「それもわからぬではどうしようもない」という話である。


「確か七、八人くらい?」


 横から口をはさんだリョンに対し、「おだまりロェリョン」と雪蘭シュエランは右手の拳で自らの肘をぱんとはたきつつ一喝する。煙管きせるを煙草盆に打ち付けようにも、今は手持ちがなかったのであろう。南方は苦笑した。それならば大分追い払ったうちに違いない。


 交為して子を得るを二の次三の次として、雪蘭シュエラン自身に惚れ込む者も少なくなかろう。ただそれらの中に雪蘭シュエラン自身の意を汲む者がどれほどあるかということだ。結果は彼女の現在の身の振りに全て現れている。


 大商家の実家の借財のかた代わりに貴族の妾と囲われて、交が決まったからと捨てられた。くるわ通いは聞こえが悪いからとよく取られる手法ではあるが、雌性おんなとしてはたまったものではない。交為す時、それ以前に、種核しゅかくの明け渡しをしていなければ雄性側には申し開きが立つが、実際性交でも受け皿は埋まると考えられている。雌性おんなにばかり一方的な明々白々の責を求めるこの構造について、意義を申し立てるべきなのは生物の理に反しようとする人間文明の価値観に対してなのやも知れぬと南方は思う。なんにせよ、生半可なことでは雪蘭シュエランの信頼を勝ち取るのは難しかろう。


 とまあこの辺りのことは、大昔に雪蘭シュエラン本人から聞いた話だ。南方は襟足の辺りを掻きつつ、口の端を歪めて笑った。身の上話を聞かされるほどの付き合いだった、という事実はある。南方も自身の話をした。


「ところで――」


 過去の回想から頭を切りかえると、南方は声を潜めた。


「あの子供は」

「――ついてきな」


 踵を返した雪蘭シュエランに、南方が春蕾チュンレイリョンはとふりかえると、「あの子等はもう知ってる」と首だけこちらに向けた雪蘭シュエランが言う。春蕾チュンレイも頷き「ここで子守りしてるから、行ってきて」と頷いた。


 洗濯紐に干された大判白布が風に揺れる。その間を、雪蘭シュエランの背を追って南方は続く。雪蘭シュエランは、開け放たれたままの裏口に向かった。彼女が室内へ入ったあとに南方が続くと、硝子窓を嵌めこんだ、その戸を閉めた。戸の外側は白く塗られていたが、内側は剥き出しの木目そのままだ。


「――誰の子だ」


 単刀直入に南方が問うと、溜息を零してから雪蘭シュエランは肩を落とした。眉尻があからさまに下がる。ようやく――本来の彼女らしい表情を見せたと、南方も釣りあげていた眉を下げて、雪蘭シュエランの肩を軽く抱き寄せた。

 厳しい声と装いは、彼女自身を守る鎧だ。本来はこれも心根の柔い雌性おんなである。


「無沙汰してすまん」

「いいのよ。ちゃんとした交をもってるひとなんだもの、あなたは。おかしな誤解を受けかねない行動は控えてしかるべきだわ」


 小首を傾げて微笑む雪蘭シュエランに、南方は忸怩たる思いを抱く。本来ならば気心と価値観の合う雌性しせい二種同士として親交を結ぶのもやぶさかではなかったが、如何いかんせん南方の公表自認が雄性というのが邪魔をした。


「それで?」


 話の先を促すと、雪蘭シュエランは頷きながら「こっちよ」と歩きだした。


「あの子を産んだのは、ファ梓琳ズーリンよ」

「――ああ」


 言われて顔を思いだす。他の雌性達とは毛色が違っていたのでよく覚えている。身柄を確保した時のファ梓琳ズーリンは、幸いにも負傷などなく、山奥の一軒の小屋に一人隠れ潜んでいた。救助に来たとはいえ屋内に踏みこんだのは軍人。その姿に怯えたものか、最初は救助を渋っていた。一晩考える時間をくれと言い、翌朝潜んでいた山小屋を後にして出てきた。


 後々調べて分かったが、ファ梓琳ズーリンは市内に大きな邸宅を構える繊維商の交だった。雄性の二交は邸内にて惨殺されており、その後たい輿の兵に連れ去られたものとみられる。その状況から、よく逃げ切れたものだと当時はそう思った。


「妊娠中から体調を崩すようになってね……やっぱり、懐胎している間、身体のなかに五邑ごゆうの血がめぐるというのがよくなかったらしくて」

「それまでは、なんともなかったのか?」

「――ええ」


 廊下を進んだ雪蘭シュエランは、やがて左手に見えた扉を開いた。外に出ると、幅の狭い形ばかりの屋根付き回廊が先へと延びていた。その行き着くすぐ先に、古い離れが一つある。


「――こうなるのは、わかっていたし、先例もあったから、堕胎おろすことを勧めたんだけど、どうしても聞かなくて……」


 薬を使っての堕胎が可能だというのは南方も聞き知っている。当然月人の間では一般的な話ではないし、耳にして脅威と思わぬほうが少ないような狂気の沙汰である。廓周りでなくはない、という程度の話しだ。しかし、これは状況が状況だ。


「今は?」

「……もう、長くはないと、思う」


 それで、春蕾チュンレイも南方に明かした、ということか。

 南方は苦い溜息を吐いた。


「もっと早く俺にも言ってくれていれば」


 雪蘭シュエランは何も言わず、辿り着いた離れの戸を、ほとほとと叩いた。


「――あなたに報せたのは、ファ梓琳ズーリンが呼んでと言ったからなのよ」

「は?」

梓琳ズーリン、入るわよ?」


 ぎいいと外へ開かれた扉の内には、薄闇が沈んでいた。




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