9 露涯の子


         *


 「白楼はくろう」並びに「銀楼ぎんろう」は、その建物の外観を、他とは大きく異にする。


 城牆じょうしょうの内外、つまり帝壼ていこんきゅう内外の建築は、貴賤を問わず、その屋根は白銀で、壁は紅葉もみじ色だ。対して「白楼」は屋根も壁も白銀を纏う。ただし楼門を支える二本の柱だけは赤い。これは真に優れたる雄性ゆうせい二人であらば妓女も身請けを辞さぬことを含意していると俗説は語るが、真なるところは南方ナンファンの知るものではない。興味もない。


 そして、今正に南方ナンファンリョンとが表を通りすぎた「銀楼」は、一転してその全体を鈍い灰色に染めている。日が当たれば銀にも見えようが、多くの「銀楼」は人目を忍ぶよう、常に影に隠れた場所に建つ。その役を思えば当然であろう。楼門の二柱は濃紺に金銀粉を散らした異風。材として砕いた瑠璃るりを用いているかどうかは楼の収益の多少によると聞く。多くは紛いものの塗料だ。


 その二色は月の民にとって、どうしても淫靡な心象を残す。また睦言における支配被支配関係を滲ませるため、人によっては蛇蝎の如く嫌い、また人によっては閨房の演出として用いることもあった。それらの全てに南方は嫌悪を覚える質であった。


 幾人いくたりかの二人連れの雄性とすれ違ったのち、ふいに、リョンがすいと、楼と楼の間に挟まれた、道とも呼べぬ細い隙間にその身を潜らせた。南方がそれに続く。高い壁と壁の間隙かんげきを、半ば身をよじらせて歩を進める。やがてその先に薄く光が差した。道を抜けたのである。


 

 思いの外、明るい。

 そして、広い。

 二人の通り抜けた先は、奥庭だった。



 ばさばさと風を受けて、紐に渡された洗濯物が舞っている。妓女達のものであろう煌びやかで、しかし実のない衣装と、大判の白い布が多数。その合間をリョンは躊躇なく行く。南方は眉をしかめつつ、纏わりついてくる布を手で払いのけながら、自身の交の背中に続いた。


 足元を見おろせば、敷石もない。踏み固められた剥き出しの土の左右に、頑迷なたたずまいの雑草が生えている。布と布のゆらめく間に、ささやかな畑と、茶樹数本が見えた。自給自足の足しとするためであろう。そこばかりが、繁茂に浸食されぬままにあった。


 茶樹の葉は健康そのものに見えた。日陰の多さが湿度を守りつつ、また風の通りの良さが洗い物をよく乾かすのかも知れぬ。


 そんなことを思った矢先、南方の耳朶をうったのは、耳慣れたやわらかい雌性おんなの声が紡ぐ子守歌だった。


 洗濯物の滝を抜ける。その先に待っていたのは、白銀の髪をゆったりと無造作に結い上げた、繻裙じゅくんをまとう南方のもう一人の交――春蕾ちゅんれいだった。


 清らかで朗らかで、未だ乙女のようにいとけないやわらかな頬をもつ雌性は、ゆらゆらと揺れながら、微笑み、その上半身に白い布の塊を抱えていた。


 無事を確認した安堵半分、怒り半分に、南方は「おい春蕾ちゅんれい」と胴間声どうまごえを発した。どすどすと彼女に詰めよろうとしたところ、ふり返ったリョンと、あっと目を開けた春蕾ちゅんれいの両者に「しーっ」と口元に人差し指をあてて見せられた。


「ああ?」


 訳が分からぬまま、思わず足を止める。すると、春蕾ちゅんれいは困ったように微笑みながら、自らの身体を斜めに傾げて見せた。そして気付く。彼女のかいなに抱えられていたのは単なる布の塊ではなかったことに。


 さあっと通り抜けていった風が、その布の上部をめくる。その先に待っていたのは、黒い――髪だった。


 思わず南方の喉を、ひゅっと空気が抜けた。


「ごめんねぇ、さっきやっと眠ったところなのよ」


 愛し気に、その黒髪に頬を触れさせる春蕾ちゅんれいの姿に、南方は更に言葉を失う。そこにいたのは間違いなく五邑ごゆうの幼子だった。


「お前、これは」


 かすれ声で問う南方ナンファンの内心に去来していたのは、困惑と喜びであった。


 五邑ごゆう月人つきびとにとって忌むべき存在である。例え幼子であろうとそれは変わりない。そんな存在を、春蕾ちゅんれいは迷いも見せず愛し気に扱っている。元からが母性の強い彼女のことだ。その慈愛を向ける先は種族を問わなかったのであろう。そもそもそれは、妣國ははのくにの血の混じる南方を拒絶しなかった幼少期から知れていたこと。況してや、彼女は三交求婚の雨に降られて内なる絶叫に耐えていた南方の意を汲み、共にしゃがみ込んでくれた。南方の髪をなでながら「あたしが阿南アーナンの傘になってあげる」と、己の交に据えると申し出てくれた。あの日の夕景を、南方は今でも忘れていない。余程の度量がなければできぬことである。幼馴染のその資質が今も変わらず顕在であることに、南方は胸が締めつけられる思いだった。


 何より、この状況が示す事実は一つしかない。リョンの視線から、二人の間でもすでに了解ができていることなのだと南方も察した。


 春蕾ちゅんれいの隣に立ち、静かに子供の寝顔を見おろす。すこすこと、少しだけ鼻のつまった寝息が健やかそのものであった。思わず微笑んでしまいそうなくらい愛らしいいとけなさであるが、南方の表情は、その険しさを解くに至らなかった。


「――銀鈴楼ぎんりょうろうで、生まれた子か」


 春蕾ちゅんれいは、ゆっくりと首肯する。


「五年前にね」


 そのいらえに、苦い嘆息がもれる。

 五年でこの外見ならば、成長速度は五邑そのものなのだろう。


「お前、五年も黙ってたのか」

「ごめんねぇ。あたしも、この子がどうなるものか、わからなかったから」

「相談くらいしてくれよ」

「あなた、思い出したくないかなって」


 南方ナンファンから何も言わずとも、全て察していたか。そこでようやく南方は苦笑を浮かべた。


「賢い雌性おんなってのは、ほんと皆こうだな」

「こうって?」

「黙ってひとりで進めやがる」

「それは、あなたも、一緒」


 つん、と人差し指で南方の肘をつつく春蕾ちゅんれいに、リョンも頷きながら笑った。



 がんぺきの乱がおきてより百年。そのであるのか福であるのか、この時には未だ言明し得ぬものである。しかしこうして時を経てより結実するのであれば、生き延びた雌性おんな達の身に刻まれたものは消えることなく生き続ける呪いとしか呼びようがない。

 しかし、と南方は複雑な面持ちでほぞを噛んだ。


 生まれくる命に、貴賤や正否などあって堪るかと、そう思う南方がいる。自分達で選んだ事とはいえ、この交間には、どうしても得られない、得られていない、その奇跡を思えばこそ。


 露涯ろがいの子。

 決して、醜穢涯しゅうわいがいの子とは、言いたくはなかった。

 それを南方が実際に目にするのは、これが初めてになる。





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