8 銀鈴楼


         *


 南方ナンファンリョンの二人は、公邸を出て裏路地を進んでいた。


 自公邸の裏門を出れば、すぐ目の前には帝壼ていこんきゅうをぐるりと取り囲む城牆じょうしょう(城壁)が立ちはだかる。上に乗る屋根は白銀色だが、壁自体は紅葉もみじ色の煉瓦れんが製だ。裏門周りの日当たりが多少悪いのは致し方ない。与えられている公邸が城牆じょうしょう沿いという時点で、廂軍しょうぐんの格の低さが露呈するというものだが、当人達に不満はない。民間出身者が宮城内に住まいを与えられているという時点で本来は破格なのだ。


 するすると、石畳を滑るが如く歩みを進めるリョンの背中では、翡翠色の玉飾りでまとめた三つ編みが揺れている。対して、それを追う南方ナンファンの足取りは、極めてどすどすとかしましい。かつては荒くれ者がその大半を占める廂軍を副将軍として取りまとめた南方である。威圧をかもさねばめられるという廂軍しょうぐんならではの理由で身についた所作である点は否めないが、それ以前に、雌性しせい二種の身は交不在時期に、ことさら自らの性自認を喧伝けんでんせねばならぬ。肌身についたという意味では、こちらのほうがより影響も根深い。


 つまり、雌性二種が顕現し次第、自らは雌性おんならしく生きるか、雄性おとこらしく生きるか、厳密には子を産む気があるのかないのかを早々に決めて周囲に示さねばならぬのだ。そうでなくば延々『産む者』として数多の雄性おとこに追い回される事になるのである。


 端的に言って、地獄だ。


 そういうわけで、自認が雄性であると態度で示していれば多少なりとも緩和されるのである。無論多少は多少、聞く耳持たぬ者に狙いを定められれば焼け石に水だ。よって、本当に子を産む気がないならば物理的に筋力を鍛え上げるしかない。その結果が南方ナンファンの日頃の所作というわけだ。


「で? 春蕾ちゅんれいは何処にいるって? 今度は一体何やらかしたんだ?」


 己の周知を目的とした姦しい動作とは対極ともいうべき、静の動きで歩むリョンの背に問うと、その髪をまとめる翡翠色の玉飾りが、ちゃり、と揺れた。やおら見返り、困ったように眉根をよせた。


銀鈴楼ぎんりょうろう――ていって、わかる、よね?」

「はあああ⁉」


 路地一杯に響き渡る声で叫んだ南方ナンファンの口元を慌ててリョンが抑えにかかる。


「ちょっと! しーっしーっ!」

「あっの馬鹿! よりにもよって銀楼てなんちゅーとこに!」


 銀楼――言わずと知れた妓楼である。

 姮娥における妓楼は二種に大別される。

 「白楼」それから「銀楼」だ。

 「白」の名を冠するは、所謂「春をひさがぬ」妓楼である。著名なものにはく善楼ぜんろう白水楼はくすいろうなどがある。前者は歌舞音曲に秀でた妓女を多く有し、後者は文筆に著名な者が多い。


 対して「銀」を冠するは、そのにびいろ耀かがやきをまとう分純白ではないとして――「春をひさぐ」楼であることを意味する。

 つまり、南方らの三交の一人である春蕾ちゅんれいは、春を売る者らの起居する楼にのこのこと出向いているというわけだ。

 さすがの南方も激高する。


「間違いでもあったらどうする気だあの莫迦ばかは!」


 叫ぶ南方はリョンを追い越した。


「ちょっと南方ナンファン

「なんだよ⁉ 早く行くぞ」

「行くは行くけど、なんで僕を追い越せるの?」

「へ」

銀鈴楼ぎんりょうろうの場所、なんで知ってるの?」


 ぐふっと無様な吐息が南方の口から漏れ出る。振り返れば、薄眼で微笑むリョンが、じっとりとした視線を南方に送っていた。


「行ったこと、あるんだ」

「ちょ、待て誤解すんな! さすがに銀鈴楼ぎんりょうろうの場所ぐらい知っとるわ!」

「あなた、自分で気付いてないかも知れないけど、文才と剛腕以上に異常潔癖で名を知られてるって、知ってた?」

「――知ってる」

「で、どうして知ってるの?」

「……。」

「通ったことあるの?」

「通わねえよ!」

 路地裏にとどろく南方の声に、驚いた小鳥共が一斉に飛び去って行った。



 それは、南方にとって苦い記憶だ。


 百年前、五邑のたい輿邑長の嫡嗣であったりょしんがんが引き起こしたがんぺきの乱は、筆舌に尽くし難い犠牲をともなって、月の民を二度とその地に在住できぬようにした。故に、露涯の名よりも醜穢涯しゅうわいがいの方が月人つきびとの間では通りが早い。


 その時に大きく被害を被ったものは――雌性おんなである。


 雌性たちは岱輿の兵によって凌辱の限りを尽くされ、数多はその『種』の喪失に激高した当人達の三交によって惨殺された。この副次的な人災を朝も看過するわけにゆかず、軍が動いた。無論実働したのは廂軍である。つまり、南方である。


 自身も雌性二種である南方が、その任の渦中で目にし、肌で感じた地獄は筆舌に尽くしがたい。心身共に害された雌性たちを、とにかく安全な場所へと移送してゆくその道中で、一体何百人が自らの命を絶ったか知れない。


 また、多くの兵の視線や立ち居振る舞いから、当然の自決だろうという本音を嗅ぎ取ったこともまた、南方の心身を疲弊させた。雄性が雌性に一方的に負わせる責の、なんと傲慢なことだろうか。自らの交の、その身を守れなかった、守らなかった悲劇を、多くの雄性は、雌性一人に転嫁した。絶望と罪悪感で悲嘆にくれた雄性達は、雌性を責め、その罪を雌性の一身になすりつけることで、自らの無力と喪失を慰めたのである。


 お前が悪い。お前のせいで。俺の種は喪われた。死んで償って当然だ――と。


 兵の多くは雄性である。

 故に、その搬送業務にも熱が入らない。


 寧ろ種を喪失させた、責を果たせなかった汚らわしい雌性共を、なぜ救わねばならぬと、はじめから本音を露呈させていた者が多かった。実際に悪口を浴びせかけ、彼女等に対し侮蔑の態度を隠さなかった。廂軍の兵の多くが、雄性に対して同情的だった。そんな本音が彼女達の扱いにも明白に現れていた。自決した雌性達の遺体を煩わし気に谷底に投げ捨てた連中の顔を、南方は忘れていない。


 それで、廂軍を辞した。


 南方は、この事を春蕾ちゅんれいにもリョンにも話していない。口にするだけで反吐が出そうだというのも本当だが、何より、この不快極まりない記憶が、南方に負わせた諦観と嫌悪を、二人に共有させたくなかった。


 そして――、

 そんな地獄のような光景を目の当たりにしつつ、なんとか生き延びたうちの数人が預けられた先が、他でもない「銀楼」の数件だったのである。

 銀鈴楼ぎんりょうろうは、南方自らが、雌性達を運び入れた楼の一つであった。



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