7 代筆



         *



 かたりと中細の筆が螺鈿らでん卓子たくしの上に置かれた。

 馬の毛を用いた、質素だが質のいい筆だ。



 筆を手放した指先は使い込まれて傷だらけ。相応の老いが節々の太さと、皺と、手の甲に浮き上がる血管の曲がりににじんでいる。


 穂先がその身を横たえたのは、阿閉あえいん山脈を模した翡翠の筆置きだ。自身の二交から随分と古くに贈られたものである。廂軍しょうぐんにいた頃にも常に携帯し愛用していたものだから当然ひびも入っている。金継ぎをして直したのが丁度位置的にこうがわを模したようになっていて気に入っていた。


 筆から自由になった手が次に向かったのは、自らのだった。白い先端は胸に届くか届かぬか程度。そんな髭鬚ごとあごを、そして頬を、手はこするように撫でさする。今しがた自身が書き上げたばかりの文を読み返す髭鬚と手の主――りょこうは、険しい顔を隠さなかった。


 その手にあるのはまごう方なき求婚の恋文である。


 美辞麗句と世辞で飾り立てたような頭の悪い文章など決して書かない。時節をわきまえ巷間の近況を加え、宛先の姫君がたくわえているであろう教養に見劣りせぬ含意をにじませる。「送り主達」の関係性が良好であり、両者共に人品いやしからざる事が行間から垣間見えるような文面に仕上げてある。大層うまく依頼主達の人柄を嘘にはならぬ程度に持ち上げてあった。


 ――つまり代筆だ。

 しかも今日だけで五通。要は十人分の恋文の代筆というわけである。

 「ううむ」とその眉間に深い皺が刻まれた。



 自画自賛だが、出来が悪いわけではない。寧ろ良い。

 だからこそ、いかん。



 「うん」と一つ咳払いをすると、すずりの先に置いてあった煙草盆を取り上げ立ち上がる。りょこうまと深衣しんいろくしょう色。これは廂軍しょうぐんにいた頃のよろいの名残だ。


 普段ならば書き物を終えると、そのまま卓子を前に片膝を立て、行儀も悪く一服と洒落込むところだが、生憎あいにく今の彼がこしらえている紙束の山は最近雌性しせい二種が判明した、とある気の毒な混血の姫君に送るための恋文である。まぶすならば煙草の匂いではなく洒落た香にせねばなるまい。


 面倒くさげな仕草と態度を隠す事もなく、りょこうは開け放ったままにしてあった窓辺の臥床がしょうに腰と煙草盆を下ろした。煙管きせるの火皿に丸くもみ込んだ煙草を詰めると、手慣れた仕草で羅宇らおを下から支え持つ。俯き加減に遠火で火を着け、ゆっくりと煙を口中で回した。


 ふぅと、紫煙を外へ吐き出す。


 天のねりいろは、相も変わらず胡散臭うさんくさい。

 流麗美麗奇跡の御業みわざと大概どいつも五月蠅うるさいが、所詮は月如げつじょえんの張り巡らせた紛い物である。そんな物の下に押し込められていると思うだけで胸糞が悪くなるが、廂軍しょうぐんづとめから胥吏しょりを経て官人かんじんにまで取り立てられた現在、積極的に宮仕えを辞してやろうと思う程の反骨は今のりょこうにはない。


 三交を結び、二交を養う身である。日和見ひよりみが顕著になった自覚はあるが、所帯を持つとはこういう事だと見切っている部分もあった。



 天に上る紫煙は、瞬く間に薄らいで消える。

 儚いものだ。まるで五邑ごゆうの命のように。



 呂公ことルゥー南方ナンファンは、元廂軍の副将軍だった。老いてなお筋骨隆々と雄々しくたくましいが、実は雌性しせい二種である。


 自身にもかつて三交求婚の雨が降った。あの鬱陶しさ腹立たしさ、おぞましさは身をもって経験しているので片棒など担ぎたくはないのだが、一部ぼう塾関係からの直々の依頼であったため断り切れなかった。


 南方ナンファンも老いたが、鋭く整った顔立ちであることは隠れない。白髪白肌、瞳だけが薄っすらと翡翠色を帯びて見えるのは、彼が妣國ははのくにの血を引くからだ。薜茘へいれい食法じきほう。つまり、坊主の説法を喰らう餓鬼がきである。食法は、人の血肉も精気も食わないが、優れた知能を持つものの発する「説法」――つまり理論理屈を食わねば死ぬ。自然、知能の優れた者のそばまつろう。これは自らが得た智では意味がない。周囲にある優れた知能を持つ者から発せられる言葉――「説法」でなくてはならないのだ。


 つまり、南方はぼう塾にて自ら教鞭をふるい、育てた門弟から「説法」を喰らってきたのである。これからも食わせてもらわねば困るので、わずかばかり都合した、という次第だ。


 送り付けられる恋文の山に辟易へきえきした記憶は未だ生々しい。

 自らが嫌悪した経験を未だ若いものに繰り返させるのは、愉快なことではなかった。



「柿の種でも間違えて噛みつぶしたような顔をしているね、南方ナンファン



 室の戸口側から投げかけられたやわらかな声に、南方は苦い笑みを送った。


「そうでもねぇさ」


 南方の視線の先に立つのはロェリョン――彼の一交である。嵐大らんだい州出身の雄性二種で、これもぼう塾の出身だ。全体の線は細く、顔立ちも素朴だが、植生に詳しく極めて穏やかな人柄が塾内でも人望を集めた。しばらく前までぼうで講師を勤めていたのだが、一体どこでもらってきてしまったのか、死屍しし散華さんげの気を受けて体調を崩した。現在は南方の与えられているこの公邸で療養させている。


「僕がもう少し賢ければ、僕の「説法」だけでも足りたろうに、すまないね」

「何言ってんだ。お前の頭脳は十分だ。ただ俺の――」



「「大喰らいが過ぎる」」



 二人声をそろえ、にやりと笑む。

 するり、自らの隣に座したリョンの肩を南方は抱き寄せた。そしてそのこめかみに唇を寄せる。リョンもまた自ら南方のためにその身を委ねる。


 すぅと、「説法」を吸い込む。

 極上の知能が南方の生命の糧となり取り込まれてゆく。


 南方が引き寄せる腕の力を緩めると、リョンはゆっくりと身を離し、悪戯いたずらに南方の鼻先を指でつまんで笑った。


 精気もそうだが、「説法」は脳に近い部分から取り込めば取り込むほど摂取するものの純度が高くなる。南方のような食法じきほうは余計に高純度であることを求めざるをえない。リョンの知能はずば抜けて高く、またその心身は健全で人徳も極めて高く良質だったため、自然その「説法」の質も桁外れに良かった。


 それでも南方には足りなかった。


 幼馴染と二交だけは定めたと断言してから求婚の雨は多少弱まったものの、空きのある一交の座を狙おうとする者は止まなかった。辟易していたところ、塾の講師である南方に「自分はどうか」と弟子の身でリョンは直接売り込んできたのだ。柔くしなやかであるだけでなく、肝の太いところもある。そこを見込んだ。

 煙管を煙草盆に置くと、南方ナンファンリョンの前髪を指先で掻き揚げながら「そういえば」と視線を重ねる。


リョン、お前がこんな時間に俺の書斎に来るなんてないだろう。何か用でもあったんじゃないか」


 南方の問いに「ああそうだ」とリョンは手を打ち合わせた。


春蕾ちゅんれいがね、ちょっと困った話を持ち込んできたんだよ」

「またか⁉」



 窓の外、練色の天を一羽のからすよぎって行った。





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