6 贄の花嫁



 次の瞬間、欄干らんかんから飛びあがったぎょくらんはふわりとその身を中空に浮かべた。流れるようにびゃくらいかたわらへ降り立つと、慌ただしく手を伸ばし、華奢な彼女の手をぎゅっと握る。逼迫ひっぱくした玉蘭の視線を、白梨は、ただ静かに受け止める。

 二人の間には丸窓がある。それが、自分達をへだてる目には見えない壁のようで、玉蘭の心臓はけだものの爪に掴まれたような心地を味わった。まるで、決して超える事のできない隠喩いんゆのようだ。

 白梨は、生粋きっすい五邑ごゆうである。

 彼女もまた五十年程度の寿命しか持たない、ほろほろとこぼれ落ちる儚い命なのだ。



「それ、まさかにえの花嫁の事か」



 切羽詰まった声で問う玉蘭に、白梨は困ったように笑った。

「そうよ。先代様が五邑のどこにもあまてらす様を見付けられないまま、方丈ほうじょうにお戻りになられて早十年。お亡くなりになられてからもう五年。そろそろお生まれになられているかもという事で、わたしに白羽の矢が立ったってこと」

「いつ――そんな話に」

「昨年末よ。長から打診されたの。猊下げいかの御命令でね」


 玉蘭のまなうらじょえんの顔が浮かぶ。ぎりっと無意識の内に歯噛みした。


「なんで、――なんで白梨が」

「条件にあって、あと年頃で丁度良かったからじゃない?」


 直観的に嘘だと思った。そんな事だけでこんな話と役目を受けるはずがない。玉蘭が納得していない事を読み取ったか、白梨は微笑みながら溜息を吐いた。


「玉蘭、あなた、贄の花嫁については詳しく知っていた?」

「――いや。生涯かけて五邑を回るってことだけしか」


 白梨はかすかにうなずくと、そっと玉蘭の手を離すと丸窓の縁に手を掛けた。



四方津よもつの完全に『色変わり』なき娘はね、五邑のどこかにいるはずの、天照様のにえの花嫁にならなくてはならないの。そういう運命さだめだと言われてきたわ。――ただ、天照様ってね、中々お生まれにならないのよ」

「そう、なのか」

 「うん」と、白梨は伏し目がちに微笑む。

「どういう仕組みかまでは分からないけれど、四方津の娘にだけは、直感でその方がそうだって分かるんですって。基本的に天照の姓をお持ちの方を探すけれど、他家に嫁がれた血筋の内から該当する男性が出ていてもお会いすればわかるらしいの。……そうしたら、その方のめいに従い、命と体を捧げて、わたし達五邑の故郷である異地いちの地へ導くための道になるんですって」

「道って……何だよ」


 白梨は首をゆっくりと横に振った。


「わたしにも、それが比喩ひゆなのか文字通りの事なのかまでは知れないわ。でもね、それが、同胞であるたい輿を打ち滅ぼしてしまった方丈ほうじょうが為さなくてはならない罪滅ぼしなんですって。長がそうおっしゃっていたわ」


 長というのは白梨の父である。彼と白梨の祖は、元を正せば堂索どうさくの姉だ。


「つまりね、わたしは国中を旅して天照様がお生まれでないかお探ししないといけないの。生涯を掛けてお探ししても、生きてお会いできるかどうかはわからないけれどね」

「そんな掴み処のない……」

「ほんとね。でもねぇ、猊下もきっと憐れなわたし達五邑を異地へお返し下さろうとお考えなのよ。同胞の役に立てるなら、わたしはわたしの責任を果たさなくちゃって考えるわ」

「俺は厭だよ」


 吐き捨てるように玉蘭は言った。本心だった。


「白梨は、ずっとここでにこにこ笑って菓子でもつまんで、俺とつまんないおしゃべりしてなきゃ駄目だ」

「もう、困ったわがままな子ね」

 白梨の手がそっと玉蘭の左頬に伸びる。そして、そっとその反対の頬に口付けを落とした。



「――でもね、もう決まった事なのよ」



「白梨……」

 にっこりと微笑みながら、白梨は「あらやだ」と唇を落とした箇所を拇指ぼしぬぐった。見れば紅が微かについている。

「ごめんなさいね。ちょっと色残っちゃってるわ」

「――そのままにしておいてくれて良かったのに」

「いくらあなたの素行が悪くても、誤解まで勘定かんじょうに入れさせてしまったら、あんまりかわいそうすぎるでしょ。――玉蘭。わたしね、本当は、ずっとあなたがうらやましかったの」

「俺が?」

「うん。美しくて、強くて、誰よりも自由に向かって羽ばたこうとする。何にその手足を縛られていても決して屈しない。諦めない。己の魂に従って、己の道を突き進んでゆく。そんなあなたが大好きで、心から憧れたわ」

「びゃく」



「だからね、だから――いつか、本当の自由になれたら、わたし、あなたに会いに行くから。だから、それまでいい子で待ってて」



 するりと白梨が離れる。いつの間にか、その手には裁縫箱が抱えられていた。

「白梨!」

 玉蘭には背中が向けられている。すっと、その歩みが止まった。


「最後に一つ――わたしがここを発つまでには、ある程度の人数の下女を入れて頂けるよう猊下にお願いして頂戴。そして、できる事ならこれ以上減らさないでいただけるとありがたいわ。――じゃなきゃ」

 肩越しに視線をくれる白梨の目は、真剣だった。


「……弟の世話を安心して任せられる人が次々いなくなるのは、本当に困るのよ」


「――ごめん。それは俺が軽率だった」

 さすがに玉蘭もその重みは分かる。僅かに俯いて下唇を噛んだ。


 白梨の弟、李騎りきには肢体したい麻痺まひがある。背の曲がりもあるため寝たきりであり、常時世話をする人間が必要だ。だというのに、玉蘭の火遊びのせいで彼に割くべき下女が不足しているのである。恐らくは、その憂慮を排するという確約を条件として、彼女は今回の話を吞んだのだ。


「お願いね。玉蘭」


 扉の向こうに姿を消した白梨の影が、くも硝子がらすの更に向こう側に消え去るまで、玉蘭はその場から動けなかった。眉間を険しくしてうつむくと――その窓辺に、刺繍の済んだ布が残されていた。

 取り上げると、玉蘭は苦しい思いを隠す事もなく強く口付けた。

 微かに、白梨の髪の香りがした。

 隔てるものが与えられた命の差異であるからこそ、目の当たりにする未来に臆して、どうしてもこの窓を超える事ができなかった。それは恐らく、玉蘭一人がそうだったわけではない。



 ――共に歩めるつもりで関わるのは、辛く苦しいものだから。





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