3 厭だ。厭過ぎる



(お前は息子ではありません。わたくしに息子なぞはおりませぬ。お前は――わたくしの大切な大切な娘です)



 さらり、とぎょくらんの肩口から一筋の黒髪がこぼれ落ちる。

 それにわずか視線を向けるも、手で払う事はよした。貴人らしからぬ余分な動作はぼくらん不興ふきょうを買う。彼女を怒らせるような事は幾らでも平気でしてきているし、機嫌を損ねたくないなどという殊勝しゅしょうな思考は基本、ない。ただ、今は全身のほてりとだるさがひどく、面倒臭い反応を誘発しそうな要因は極力排除したいのだ。


 わたくしに息子なぞはおりませぬ。


 ――一体、何度その呪詛ことばを聞きながら、ぼくらんにこの髪をくしけずられただろうか。それはつまり、それ以外は認めない、そうであってくれねば困る、と言う言葉を内包している。

 玉蘭から雄性ゆうせいが強く顕現けんげんしてくれば、璞蘭は恐らく玉蘭に嫌悪程度では済まない拒絶を見せるだろう。場合によっては殺意まで育みかねない。それ程までに璞蘭の雄性嫌悪は深かった。それを考えればこの結果も決してまずくはないのだろうが、玉蘭は別に璞蘭の機嫌を取る為に生きている訳ではない。そして自身の性指向から考えれば、これは非常に望ましからぬ結果だった。

 渦中かちゅうの当人を差し置いて歓談する御典医と璞蘭を見つめながら、玉蘭は密かに歯噛みした。

 本当に面倒な事になった。

 今後玉蘭を見舞う展開など、考えずとも知れるというもの。

 これからこの宮中では、玉蘭を三交にと望む苛烈かれつな争いが巻き起こるに違いないのだ。



 雌性しせい二種と露見すれば――三交求婚の雨が降る。

 姮娥こうがとは、そういうものなのだ。



 今後母は、この三交の求婚選定にも数千年単位の時間をかけてらしに焦らす事だろう。それは取りも直さず、ぼくらん自身の保身に繋がる事だからである。げついぬあなどられて久しい彼女だが、それが雌性しせい二種の母となれば、話は全く変わってくる。


 その背景が分かるが故に、玉蘭は不快と溜息を内心にとどめる。

 

 自身が恵まれている事は十二分に理解していた。方丈ほうじょうの長の血筋に生まれ、五邑ごゆうの民としては最上級の環境で育てられたと言っても過言ではない。今この身を飾る錦繍きんしゅうがどれほどのたくみによるものか、肌身にまとわされる練り香水の品質はどうか、髪をまとめる香油の産地はどこなのか――ぜいの限りを尽くしたこれらの品々を惜しげもなく与えられる身の上とは、一体どういったものなのか。

 この眼前に迫る物質的事実と共に、その含意がんいを完全に無視できるほど、玉蘭は浅い教養に留まる事を赦されはしなかった。例えそれらを一切欲していなかったとしても。

 生まれとは、そういうものなのだ。

 与えられた数だけ、背負わされるものの重みはいや増す。

 それが、玉蘭の手足を、命を、しばる。

 そういったものへの反発が、己をことさら奔放ほんぽうにさせているという自覚はあった。


 ちらり、と丸窓の外へ視線を投げる。

 すると、折よくねりいろの天を、つるりと一羽の鳥が横に切り割いた。

 黒い。それで単純にからすかと判じた。

 次の瞬間、鳥がいた。――烏乎ああ、と。


 やはり、烏か。


 それで、どうという事もない。

 ただ、わずかばかり玉蘭の憂鬱ゆううつが増した。それだけだった。


 身体がほてる。だるい。しんどい。頭がぼうと、


 視線を璞蘭の方へとゆるく向け直す。焦点は合わせずともいいだろう。形だけ注心している振りをすればよい。

 そうすれば璞蘭の機嫌は――



 ああ、厭だ。

 どうしてこんなにあんな勝手な女を気にしなければならないのか。

 ぎゅうと、硬く眼をつむった。



 玉蘭を姮娥こうがとして扱うか、それとも五邑として扱うかの判断は、二次性徴の顕現次第として長らく保留されてきた。結果として玉蘭に与えられた自由かつあやふやな期間は長く続いた。

 雌性しせいが強く出れば姮娥こうがとして、雄性ゆうせいが強く出れば五邑ごゆうとして扱うというのが暗黙の了解だった。それはつまり、子を産めそうなら同胞として受け入れてやるという意味だ。



 その為に、玉蘭は白玉はくぎょくに参拝した事がない。



 参拝によって多少でも体内に死屍しし散華さんげが取り込まれてしまえば、如何いかに雌性二種であろうと好んで三交に選ぶ者などまあいない。体内に死屍散華を持った雌性なんぞ、どれだけの程度で雄性側を害するか分かったものではないからだ。こうを結んだところで流石に死にはしないが、命を懸けてまで選ぶようなものでもない。そもそもが五邑の混血だ。そんな玉蘭をわざわざ三交に選ぶというならば、それは玉蘭がどうこうではなく、ひとえに月皇に立場が近いからという一点を求めていると判断して然るべきだろう。

 長の血を引くのだから、程度はかく玉蘭は間違いなく『色変わり』しないだろう。こんな事ならば人目を盗んででも白玉に接触しておけばよかった。死屍散華を己の肉体に吸着し、自分が『色変わり』しない事を証明しておけば、これを理由に拒絶してしまえたやも知れぬ。

 まあ実際は、そう簡単にはいかないものだろうが。それに、



 ――そんな事をすれば、女達にも触れられなくなるではないか。

 


 死屍散華を体内に持った雄性が姮娥の民を抱いて殺した話は枚挙にいとまがない。それは玉蘭の望むところではない。結局は、自分の欲得尽くめの打算だ。そしてそれは結果的に璞蘭にとって最も都合良く働く。下賤げせんあなどられて久しい璞蘭の子だろうが、五邑の混血だろうが、経血のある雌性二種というのはそれ程までに貴重なのだ。

 恐らく今頃は、其処そこ彼処かしこに隠れ、御典医の文句を聞いていた間諜かんちょう共が、自らのあるじの元へ駈け込んでいるに違いない。そうして間もなく、誰が誰と三交を組むのかという重大事によって水面下での争いが勃発してくる。三交次第で朝廷内での覇権はけん争いが大きく動くのは周知の事実だ。

 

 厭だ。厭過ぎる。


「ねぇ、玉蘭?」

 ふいに掛けられた璞蘭からの呼びかけに、玉蘭は「はい」と曖昧あいまいに微笑んで小首をかしげた。何を言っていたのかは聞いていなかったが、もうどうせ彼女は自分が望んだようにしか事を動かさないだろう。それが璞蘭という女だ。玉蘭は、微笑みに反吐へどの吐息をひっそりとにじませて「ふふふ」と笑った。


 ついでに言うならば、この御典医は「千歳」ではなく「万歳」と言った。

 それだけで、これが月如げつじょえんの意をむものであったと喧伝けんでんするようなものである。



 嗚呼ああくそ忌々いまいましい。

 この毒の吐息にも、死屍散華程の威力があれば良かったのに。




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