はじめてのネット通販

うたた寝

第1話


 手を出した。彼女はついに手を出してしまった。

 お父様、お母様、ごめんなさい。一人娘にして愛娘。大事に大事に育てて頂いたにも関わらず、このような人として大変恥ずかしい真似をしてしまい、本当に申し訳ない。道を踏み外してしまった不出来な娘をどうか許してほしい。

 言い訳をするつもりは無い。いけないことだという自覚はあった。それでも誘惑を振り払うことができなかったのはひとえに自分の未熟さゆえ。自分の弱い心が招いてしまった出来事だ。

 道を踏み外す人と、踏み外さない人。その差は線一本を超えるかどうかの些細な差なのだろう。しかし、その些細な差こそが致命的な差となる。

 一度踏み外してしまえば、元に戻ることは難しい。一度だけのつもりだった。あと一回で辞めるつもりだった。そんな風にズルズルと続けてしまい、結果的に抜け出せなくなってしまうのだ。

 だからこそ、最初の一歩をいかに踏み出さないかが肝心なのだ。心を強く持ち、道を踏み外さないようにする。味をしめないようにする。沼にハマれば抜け出せなくなる。沼に浸からないためには沼に入らないことが大事だ。

 みんな沼に入って遊んでいて楽しそうだったから。そんなものは何の言い訳にもならない。人がやっているから自分も。そんな理屈は通らない。まして、沼に入って遊んでいた人間は沼の住人かもしれない。沼の人口を増やそうと沼に引き込もうとしている悪い奴かもしれない。

 三人がかりで無理やり沼に引きずり込まれたのであればまだ言い訳もできよう。自分の意志ではなく、強制的に引きずり込まれたのであれば言い訳もできよう。

 しかし、彼女は自分から沼に飛び込んでしまった。言い訳はしない。自分の意志で飛び込んだのだ。沼に入ってしまった友人を助けるためとか、そういう美しい話が背景にあるわけでもない。私利私欲のために、自分のために飛び込んだのだ。

 足元だけ沼に入っている状態ならすぐ抜け出せるかもしれない。だが沼側も甘くはないだろう。もう抜けなくなるまで浸かるまで、沼は甘い誘惑を繰り返すだろう。それが人が沼から抜け出せずに繰り返してしまう心理。気付いた時には頭まで浸かり、沼の住人と化している。

 抜け出せない。引き返せない。来る者拒まず去る者逃がさず。取り返しのつかない一歩を彼女は踏み出してしまったのだ。


 そう。彼女は遂に、ネット通販のアカウントを作ってしまったのだった。



 ネット通販。それは悪の温床である。ネット通販など全て詐欺だ。トラブルの話など絶えず聞く。便利という甘言にそそのかされ、何人もが被害にあってきた。今日もどこかで誰かが被害にあっているのだろう。

 何故そんなものに彼女が手を染めてしまったのか。それは景品で当たった1万円分のギフトカードがきっかけであった。ネット通販でしか利用できないこのギフトカードを使うためには、ネット通販のアカウントを作ることを余儀なくされた。

 ネット通販のアカウントを作るか、貰った1万円をドブに捨てるか。今考えれば目先の利益に惑わされず、将来への実害を考えて判断すべきだったのだろう。しかし、社会人一年目。親元を離れて一人暮らしを始め貯金も無い彼女からするとその一万円の誘惑は計り知れないものだった。

 その誘惑に勝てず、彼女はネット通販のアカウントを作ってしまった。たった一万円のために彼女は人生を棒に振ってしまったのかもしれない。後悔もしている。反省もしている。だがもうアカウントは作ってしまい、引き返せない所まで来てしまっている。

 しかし、彼女もただアカウントを作ったわけではない。最低限の抵抗は試みた。

 アカウント登録時に使用したメールアドレスはいざとなったらアドレスのアカウントごと消してもいいように、普段使っているアドレスではなく、このネット通販のアカウント用に新規で作成したフリーメールを登録した。気休めかもしれないが、しないよりはマシだろう。

 登録に必要な住所も偽の住所を登録しようかと思ったが、住所が正しくないと届けられないとか訳の分からないことを言い出した。何が何でも住所という個人情報を登録させようという何とも卑劣な行為である。

 そこでブラウザバックをして登録を中断しようかとも思った。賢明な判断だったのかもしれない。本能に従って止めるべきだったのかもしれない。

 ブラウザバック一歩手前、でもこの部屋賃貸か、ということに気付いてしまったのだ。つまり、最悪この住所の情報を悪用されようと引っ越すという選択肢を取ることもできる。登録した住所を横流しされ、セールスマンや宗教の勧誘などがわんさか来るようになったとしても、引っ越せば解決できる問題ではある。次にこの部屋に入る人には気の毒かもしれないが。

 小賢しいことに気付いてしまった彼女はそのまま登録を続けてしまった。そして届くのが悪の組織に加入したことの烙印。組織の一員であることを示す入れ墨とでも言おうか。カタギではないことの証明としてアカウント作成完了のメールが彼女の元へと届いた。

 ここに来て後悔がどっと押し寄せた。もうカタギに戻ることはできないのだろう。


 目先の利益に釣られて、彼女は取り返しのつかないことをしてしまったのだ。



 どうせもうアカウントを作ってしまい日常には戻れないのだ、と自棄になった彼女は貰ったギフト券を登録。金額を計算し、予算ピッタリ使い切るように商品を選定。途中、送料の計算を忘れていたことに気付き、再度商品を選び直すという手間は発生したが、残額100円以下、という綺麗に金額を使い果たすことに成功した。

 こんな時でも貧乏性を発揮させる自分が恥ずかしくもあるが、しかしせっかくアカウントを作ったのであれば使い切らなければ損だろうと開き直っていたのである。

 そして注文から数日後。何と商品がちゃんと届いた。ピンポーン、とインターホンが鳴った時には鍋を頭に被って箒を持ちドアのチェーンを掛けたままドアを開き、いつ何時部屋に押し入ってきても大丈夫な状態にしてドアを開けたが、彼女の武装姿を見て若干怪訝な顔こそされたが、特に押し入っても来ないし抵抗も見せず、商品が入っていると思われる段ボールだけ渡して去っていった。

 さては爆弾が入っているな? と段ボールに耳を当ててみるが、時計音はしない。最新の時限爆弾はもうデジタルなのだろうか?

 盗聴器が付けられている可能性も考慮し、家電量販店で購入しておいた盗聴器発見機を使用して検査してみるが、こちらも反応が無い。

 開けた瞬間毒ガスでも出るんじゃないかと、ゴーグルとマスク着用の上慎重に段ボールを開封してみたが、ガスが噴出される様子も無い。

 開けたところから中を覗き込んでみると、どうやら頼んだ商品だけがちゃんと入っていそうである。

 よく届いた段階で破損してた、なんて話も聞いたが、見た限りでは平気そうである。そういうトラブルがあったから気を付けているのか、緩衝材なども入っていて、商品が傷付かないように梱包されている。強いて言えば段ボールが多少傷付いてはいるが、運送時に商品を守るための箱と考えると妥当なところだろう。

 アカウント作成時に登録したメールアドレスにも、スパムメールなどが大量に送り付けられているということもない。こちらも強いて言えば、購入した商品に関連するメールなどは着たりしたが、あれは商品情報を得るのに役立ちそうなので、問題は無い。

 まだ一回目。分母が少ないせいもあるだろうが、トラブルには見舞われなかった。いや、詐欺などと一緒で、最初の何回かは信用を得るためにちゃんと商品を届けるのかもしれない。

 まだ警戒は必要だ。信用するにはまだ早い。まだ安心できない。だが、家から一歩も出ずに商品が購入できて、それが家に届く。衝撃である。

 ひょっとしてこれ……、すっごい便利じゃね?


 こうして彼女はまた一個、文明の利器に触れたのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はじめてのネット通販 うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ