2023年5月29日の日記 甥っ子よ、さすがです

 お買い物に来ていた。家から十分のショッピングモールだ。甥っ子はあちらこちらにギラギラした目を向け、


「おもちゃを買うの?」「なんのおもちゃを買うの?」「○○ちゃんバスのおっきいおもちゃがほしいの」


 と私に聞いてくる。私は本当にお金がなかったので、


「○○ちゃん、おばちゃんはお金がないからバスのおもちゃは買えないの」


 と正直に言う。甥っ子は変わらず瞳孔の開いた目で私を問い詰める。


「どうしてバスのおもちゃ買わないの?」


 買わないのではなく買えないのだと説明してもわからないらしい。おばちゃんの財布のお金は無限ではないし、百円ショップのおもちゃしか買い与える気はないのに。甥っ子はさらに問い詰める。


「どうしておもちゃ買わないの?」

「おばちゃんお金ないから……」

「どうしておばちゃんお金ないの?」

「おばちゃんはお金持ちじゃないから……」

「どうしておばちゃんはお金持ちじゃないの?」


 周囲の視線が痛い。仕方ない。ええいと子供グッズ専門店に入り、ギラギラ目を光らせる甥っ子に選ばせ、心を無にして財布を開き、千五百円の音が鳴るバスのおもちゃを買った。


「おばちゃん、バスどこで遊ぶ?」


 甥っ子はバスのおもちゃを興奮気味に持って見つめ、私に聞く。お礼も言われないのだ……。そう思い、財布の中身を惜しみながら歩いていると、甥っ子が不意に楽しそうな声で歌い出した。アンパン男のテーマ曲だ。よほど嬉しかったらしい。


 甥っ子よ、ここは衆人環視のショッピングモールですよ……と思っていたが、甥っ子が「おばちゃんは?」と聞いてくるので、渋々一緒に小さな声を出して歌った。


 甥っ子の声は可憐だ。優しく透き通って、発音は少したどたどしい。ら行が言えず、や行やだ行に移行しがちなのがさらにかわいさを引き立てる。かわいいなあ、と大音量の甥っ子のアンパン男のテーマ曲を聞いていると、目の前に名刺を差し出した八の字ひげの男が立っていた。


 変な人だ。そう思って甥っ子をかばいながら避けようとすると、その人は私を止め、懇願した。


「お子さまの歌声は素晴らしい。その声は小鳥のよう。そよ風のよう。小さな花が咲き誇る野原の情景のよう。ぜひ私のプロデュースで世界に、いや宇宙に打って出ませんか」


 見ると目が潤んでいる。甥っ子はその八の字ひげの片言の男に「おじちゃんどこに行くの? なに買うの?」と質問攻めにしている。私は困り果て、


「いや、私の子供じゃなく妹夫婦の子で……。家に帰ってから……。それにこの子の意思も大事ですし」


 などとごにょごにょ言いながら去ろうとすると、八の字ひげの外国人は、私に名刺を握らせた。見ると読めない字だった。アラビア文字やキリル文字のような見たことのある文字ですらない。どこから来たんだこいつ……? と思いながら去る。甥っ子は振り返り振り返り男を見ながら帰った。


 次の日、家族会議の結果、甥っ子は決断した。


「○○ちゃん、みんなの前で歌う」


 私たちはびっくり仰天した。私たちは不審者には気をつけようねという話をしていたのである。甥っ子を歌手デビューさせるというあの男の話はどうでもよく、胡散臭い男に話しかけられた、怖いねー、も言っていただけなのだ。でも、甥っ子は聞かない。


「歌うぅーー!」

「何言ってるの、歌わないよ!」


 私が止める。すると甥っ子はイヤイヤ期がまた燃え上がったらしく、


「いや! 歌う! 歌う歌う歌う歌う!」


 と足をジタバタし始めた。もうだめだ、と思っていたら、玄関のチャイムが鳴った。出るとあの男だった。ニコニコ笑っている。


「デビューおめでとうございます」


 デビューなんてとんでもない、甥っ子は勝手に言っているだけなのだから、と言っても、男は首を傾げて、


「甥っ子さんの意思が大事なんですよね」


 と不思議そうに言う。甥っ子は「おじちゃんどこから来たの? どこに行くの?」とまた質問攻めにした。男は甥っ子を連れ、「さあデビューしましょうね」と歩き出した。追いかけると、パッと消えた。


 次の日から甥っ子はあらゆるテレビやネット動画に出始めた。歌を歌い、質問に答え、人気者になった。歌声は相変わらず可憐である。爆発的な人気を誇る甥っ子の歌声は、多くの人に涙を流さしめた。


 ある人は甥っ子を天使だという。幸せをくれたと。ある人はすずらんの花だという。優しい歌声が安心を与えてくれるから。ある人は木漏れ日だと、ある人は空に天使の梯子が差した瞬間のようだと言った。とにかく大絶賛だ。


 私たちはありとあらゆる手を使って甥っ子を探した。しかし甥っ子の居場所は杳として知れず、私たちは歌声と画面越しの姿しか見ることができなかった。


 しかしひと月が経ったある日のことだ。甥っ子が居間にいた。


「おばちゃんただいま!」


 甥っ子は変わらずにこにことごきげんな顔だ。私は喜んでいる家族に混ざって甥っ子を抱きしめて、どこにいたのかを問い詰めた。


「うーんとね、宇宙にいたの。おじちゃんとか、おじちゃんみたいな宇宙人と一緒に遠くの星で歌を歌うんだけど、やめたの」

「どうして?」

「マックのポテト食べたいよー、ってたくさん叫んだの。そしたら宇宙にはマックのポテトないって。だから○○ちゃん歌わないって言ったの。そしたらここにいるの」


 家族の話によれば、突然ここにいたらしい。あの不審者は本当に宇宙人だったのだ。


 甥っ子の歌声は変わらず地球で人気だ。地球人たちは映像の歌声を繰り返し流し、伝説の幼児歌手として甥っ子を讃え続けている。





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