第50話 新しい生活
「ええと……ここで合ってますよね?」
フェルトはシンから受け取っていた屋敷の契約書に書かれた住所を確認する。
そして、再び目の前の建物――を取り囲む外壁の巨大な鉄の門へと視線を戻す。
それはどう見ても貴族の住まうような屋敷。
しかも、かなり上位の貴族が所有しているような立派なものだった。
「はい、確かにこちらでございます」
フェルトの呟きが聞こえたのか、ここまでシンたちを乗せてきた馬車の御者が返事をする。
「……とりあえず入ってみようか」
中に人の気配を感じはするが、一先ず害を成すような者ではないと判断したシンは、門扉を開けて中へと入っていく。
門を抜けるとテニスコートが何面も取れそうなほどの庭が広がっていた。
地面には青々とした芝、塀に沿って規律よく並ぶ木々。
奥に見える花壇には色とりどりの花が綺麗に咲いていた。
屋敷の入り口まで続く石畳の上を通って、これまた立派な造りの玄関へと歩く。
時折ちびっこたちの「うわぁ」とか「ひろーい」といった声が聞こえていたが、それはその場にいたシンを含む全員の感想でもあった。
一同が玄関前に到着すると、その分厚い木でできた扉がゆっくりと手前に開いてきた。
「おかえりなさいませ」
そして、その扉を開けた一人の老人がシンたちにそう言った。
白髪の髪をオールバックに整え、フェルトと同じような執事の恰好をした老人。
銀縁の丸眼鏡の奥から、利発そうな瞳がシンを見ていた。
「……ただいま?」
「どうぞ中へお入りください」
老人に促されるように一同が中へと入っていくと、中央の赤い絨毯を挟むように両脇に並ぶメイド服の女性。
そして普段着のような恰好の男性が数人と、コック姿の男性が数名。
「おかえりなさいませご主人様!!」
そして一斉にそんな声が聞こえた。
――メイド喫茶か?
シンはそんな遠い記憶を思い出させられるような光景に唖然とした。
「ご主人様…ですか……」
「はい。キナミ=シン様、そしてそのご家族の方が我々の主でございますので」
「――なるほど」
アデスを出た後、シンは一度もキナミ性を名乗っていはいなかった。
もちろん、渡された契約書にも名前しか記入はしていない。
しかし、今この老人が自分の名を呼んだということは、アデス以前の情報もユリウスはすでに把握しており、その事を隠すつもりが無いということなのだろう。
だが、それは当然と言えば当然の事でもあった。
皇帝との謁見を行う以上は、その素性を出来る限り調べておくだろう。
――流石は皇帝だね。優秀な情報網を持ってるな。
シンのキナミ性を知っているのは、ロバリーハートの上層部とアデスの師範クラスのみ。
――ああ、あとはギルドの二人か。
そこまで辿り着いたことがシンを驚かせた。
「キナミ=シン?――え?シン様、貴族だったんですか?」
それはそう聞いてきたジャンヌを含めて、子供たちも知らなかった事。
「いやいや、貴族じゃないよ」
シンへと視線を集中させていた子供たちにそう言ったのだが――
「これは失礼をいたしました。お嬢様方にも貴族であることを内緒にしておられたとは存じ上げず、私の失言でございました」
老人はそう言うと、深々と頭を下げた。
「あ、ちがっ、頭を上げてください!」
シンはその姿に慌てて老人にそう言ったのだが――
「ちがうの?」
今度はその言葉をローラに拾われてしまう。
「いや!この違うはその違うじゃなくて――」
「キナミ様、もう諦めましょう」
その様子をおかしそうに見ていたフェルトがそう言った。
「キナミ様、シンさんはロバリーハートで栄誉貴族の爵位をいただいているのですよ」
フェルトの言葉に子供たちの目が大きく開かれる。
「……了承した覚えは無いけどね」
「シン様がロバリーハートの栄誉貴族……」
シンを見つめるようにジャンヌが呟く。
「いや、貴族っていっても、別に領地があるとか正式に貴族だーって言ってるとかじゃないから!勝手にそうなってるだけだからね!」
シンは子供たちとの距離が離れたような気がして慌てて弁解する。
しかし――
「しんさま、えいよきぞくってなに?」
ミアがそう言うと、子供たちは一様にうんうんと首を振ったのだった。
「では、自己紹介が遅れましたが、私が執事のフルークと申します。陛下よりこの屋敷の管理全般を仰せつかっております」
広い応接室へと移動した一同に老人がそう名乗った。
「屋敷の管理全般……」
フェルトがぼそりと呟くと、フルークは軽く笑みを浮かべた。
「そして、こちらの女性がメイド長のラカザル。隣がコック長のアレンカーでございます」
「よろしくお願いいたします」
ラカザルとアレンカーは声を揃えて挨拶をした。
その綺麗な所作からは、さすがに皇帝から派遣された使用人であると感じさせるものがあった。
「何か御用の際は、私かラカザルにお声かけいただければと思います」
「分かりました」
すでにシンはこの状況を受け入れることを観念していた。
広い屋敷に目を輝かせているちびっこたちを見てしまったからというのが、一番の理由ではあったが…。
「じゃあ、他の人たちは追々に挨拶していくということにします」
「結構な人数がいましたよね」
ロイドが玄関ホールで見たメイドたちを思い出しながらそう言った。
「だねえ。名前覚えていくのが大変そうだ」
「ですね。出来るだけ早く覚えるように頑張ります」
子供たちの中では、ロイドが一番この状況に慣れ始めているようだった。
「他の者たちの名前も――ですか?」
フルークは不思議にそう言う。
「え?そりゃそうですよね?皆さんこの屋敷で生活していくんでしょ?だったら名前覚えとかないと、何かと不便でしょ?」
「はい…それはそうなのですが…。普通の貴族の方は使用人たちの名前を覚える事どころか、名前を聞くこともほとんどありません。例外的にあるならば、自分専属で付く者くらいでございますので…。全員の名前を覚えようとおっしゃる方は初めてお目にかかりました」
「まあ……貴族もどきですから、その辺の感覚は一般市民と変わらないんじゃないかと……」
かつては魔王と呼ばれていたシンだったが、別に使用人をはべらせるような生活をしていたわけではない。
その感性は未だ日本人だった頃のものとそう変わりはなかった。
「ああ、それと一つ大事な事がございます」
フルークはそう言うと、先ほどから塞ぎこむように俯いているフェルトへと視線を向ける。
「フェルト様。貴方様はキナミ家の筆頭執事だとお伺いいたしました」
――フェルトの自称だけどね。
「……はい」
フェルトは僅かに顔を上げてか細い声でそう言う。
「私はユリウス陛下より、貴方様に執事としての教育を仰せつかっております。一人前の執事にしてやってくれと。ですので――貴方様がそうなるまでは、私が代理としてこの屋敷を管理させていただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「え?それは……」
フルークの言葉に、シンとライアスはユリウスが言っていたことを思い出す。
『彼の報酬だが、それはこの屋敷に用意してある』
――なるほど、こういうことね。
パルブライト帝国の執事。
それも皇帝推薦の一流執事からの教えを受けるという事は、ロバリーハートで見習いをようやく卒業したようなフェルトにとっては願っても無い話であった。
フェルトは執事である。
周りがどう思っていようと、どれだけ戦えるように鍛えられていようと、いつの間にか弟子のような存在が傍にいたとしても、彼自身は常に執事であることに誇りを持って生きている。
「はい!是非よろしくお願いします!!」
そう答えたフェルトの目は、これまでにないほどに輝いて見えた。
「すっかり皇帝に取り込まれたような形になってしまいましたね」
ライアスが自分で淹れた紅茶を口にしながらそう言った。
ここはシンが寝室として案内された部屋。
昨日まで泊まっていた高級宿の部屋を二つ繋げたような広い部屋なので、シンからすれば一人部屋というにはあまりにも広すぎるのだが。
そこにいるのはシン、ライアス、フェルトの三人。
フルークにはしばらくは誰も部屋に入れないように申し付けていた。
「その気になればいつでも逃げ出せるから、取り込まれたって気はしてないけどね」
「しかし、周りの者はそう思わないでしょう。皇帝との謁見を許された冒険者が、帝都に屋敷まで与えられて暮らしている。このことはあっという間に近隣諸国に広まる――いえ、広めるでしょう。先生の名前を付けて」
「……嘘を広められてるわけじゃないから、文句も言えないか」
「ええ、それに一度市民レベルに広められてしまっては、一般市民に口封じをすることも出来ませんし」
「まあ、それによってメリットもあるだろうから、今はその件は放っておこう」
「デメリットも大きそうですけどね……」
フェルトがぼそりと呟く。
「でも、帝都にしっかりとした拠点を置けたのは助かった。あの皇帝がちょっかいを出してこないのであれば、ここほど情報が集まるところはないだろうからね」
「ええ、多少の予定外の事はありましたが、何とか当初の目的は達成出来たとみて良いでしょう。皇帝もその辺りは理解しての行動だと思いますし」
ギャバンを出て帝都エクセルを目指した本当の目的。
「ああ、油断は出来ないまでも、一応は皇帝とも繋がることが出来たしね。これでゴブリンキングの情報がどこよりも早く入ってくるはず」
それは大陸に今後現れるであろう厄災への対処の為。
ゴブリンの上位種と対峙したシンは、未だ姿を見せていないゴブリンキングの存在を確信していた。
そしてソレは今もどこかで力を貯めつつあるのだということを。
「先生は彼らも戦力とお考えでおられるのですか?それであのように鍛えているので?」
ライアルの言う彼らとは、ロイドやジャンヌだけでなく、ちびっこたちも含んでいた。
「いや、あの子たちは鍛えだしたところだから流石に考えていないよ。てか、元から子供を巻き込むつもりは無いからね。ロイドとジャンヌは自分たちが強くなることを希望したから、ちびっこたちは俺たちがいない時でも自分の身を最低限守れるようになってもらいたいからだよ」
「最低限――ですか」
フェルトとライアスはシンのその言葉にクスリと笑った。
「私はてっきり、将来的にアッピアデスを超える戦闘集団を作る為だとばかり思っていました」
もちろんこれはライアスの冗談である。
「やめて!あの子たちには普通の幸せな人生を送ってもらいたいんだからさ!」
「シンさん、それはもう父親の感情ですよ」
そうして笑い合う三人。
それは今後巻き起こるであろう混乱の前のほんの僅かな穏やかな一時だった。
一部の人間を除いて、大陸中の誰もが知らないところで、その混乱は一歩ずつ一歩ずつ――その時は確実に近づいてきていた。
―― 第二章 パルブライト帝国編 完 ――
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