第35話 悪夢の国の魔王様

「レイモンド……私はもう死んでいて、今見ているのは地獄の世界の光景なのでしょうか?」


 エルザは覚悟を決めて死を受け入れることが出来たというのに、 今――目の前で起きていることは受け入れられずにいた。


「私にも……分かりません。これは……悪夢なのでしょうか?それとも……神の奇跡を見ているのでしょうか……」


 それはエルザやレイモンドに限らず、他の兵士たちも似たような心境であった。


 エルザの周囲の兵士たちも、砦を護る兵士たちも、オルトロスとの戦闘で混乱の最中にあった兵士たちも皆同様に――その意識は空中に浮かぶシンに向けられていた。


 巨大なオルトロスを放り投げ、更に巨大なケルベロスにぶつけていく奇妙な姿の人間。


 いや、人間かどうかすら怪しいとエルザは思う。


 少なくともエルザの知る人間とは、あのようにしてオルトロスを投げつけるなど出来ないし、空を魔法か何かを使ったとしても、飛ぶことが出来る者など聞いたことが無い。


 そんなことが出来るなど、都合よく書かれたおとぎ話の中ですら聞いたことがない。


 そして頭に浮かぶ非常識な考え。


 ――あれは……神なのですか?


 残念、魔王でした。



「人って飛ぶこと出来ました?」


「聞いたことねえな」


「それに、オルトロスって投げれます?」


「俺には無理だな」


「では、あれは何なんでしょうか……」


「少なくとも――アレに比べたら、俺は立派に人類だわな」


「閣下のアイデンティティが一つ減りましたね」


「そんなとこに価値見出してねえよ!!てかよぉ――アレは味方なのか?」


「一応、助けてくれた形にはなってますけど……オルトロスも全滅したみたいですし」


 それまで暴れていた二十一頭のオルトロスの姿は戦場のどこにも見えなかった。


「だとしたら、アレはどこから来た?あんなのがうちの国にいるなんて聞いたことねえぞ。そんなのが元から居たなら、とっくにこの戦争どころか――ファーディナントが大陸統一してるだろって話だ」


「隣国からの応援――てわけでもないですよね」


「アレがもしあの化物に勝ったとしても、手放しで喜べる状況じゃないのは間違いないな」


 ――


 スフラにはそこに何の確証も無かったが、間違い無いという確信があった。



 ケルベロスは全身の痛みに耐えながら何とか身体を起こし、そして自分の身に起こったことを把握しようと、残った二つの頭で周囲を見回す。


 そこで目に入ってきたのは空に浮かぶ男。

 そして瞬時に理解する。こいつこそが自分を攻撃してきた敵だと。


「ウオオォォォォォーーーン!!」


 それは黒狼とは比べ物にならない声量の遠吠え。


 遥か山向こうまでも響き渡ったその声に応えるかのように、乱魔流から魔力がケルベロスへと流れ込み、全身の傷と折れていた首が元通りになる。


 そしてシンに向かって展開される魔法陣。


 先ほどは不意を突かれたが、今は見たところ武器も持っていない鎧も身に着けていない状態。人間とはどのように戦うものなのか、倒されたウルフやオルトロス、そして黒狼たちの経験した記憶がケルベロスには蓄積されていた。

 その記憶から、敵が無防備且つ、攻撃手段を持たない状態だと判断した。

 もしあるとすれば魔法による攻撃だったが、それも単発ではオルトロスに致命傷を与えることが出来ない程度のものという認識だった。


 それでも――先ほどの攻撃を考えれば、早々に排除しなければいけない存在であるのは間違いなかった。


 考えてから判断するまでは一瞬。


 相手が動く前に勝負を決める。


 外さない、逃がさない、必ず殺す!!そんな強い殺意の籠った光撃こうげきがシンへと放たれた。


 その瞬間、ケルベロスは男の手に見たことの無い片刃の剣が握られているのに気付く。


 何だその剣は?いつどこから出した?いや、そんなものでは何も出来るはずがない。


 ケルベロスはその刹那の逡巡しゅんじゅんの中――全力の一撃を放った。



 シンが収納空間から取り出したのは《魔力喰いマナイーター》と呼ばれる魔剣。


 その能力は、使用者と同程度の魔力量まで喰らい尽くすというもの。


 ケルベロスの放つ魔法は、古龍の時のような火球ではないため、下手な躱し方をすれば周囲に被害が出ると考えての選択。


 シンがその剣を前へとかざす。

 光の速さで放たれたケルベロスの光撃はシンの持つ剣へと一瞬で吸い込まれて消えた。



 ケルベロスはその六つの目を疑った。


 全力をもって放った魔法は、次の瞬間には全て消えていたのだ。


 自身でも視覚出来ない速度の光撃が、何が起こったのかすら分からないまま消滅した――いや、させられたのだ。


 想定外の出来事に思考が停止するケルベロス。


 そして、いつの間にか目の前まで接近していたシン。


 本能的に危険を感じ、瞬時にその巨大な口で噛み砕こうと襲い掛かったケルベロスだったが、鋭く尖った牙が届くより先にその首は胴体から斬り離され、次の瞬間――その身体は幾万の肉片と化していた。



 ケルベロスは魔素となって再び乱魔流の中へと吸収されていく。

 シンはその様子を眺めると、乱魔流へと近づいていく。

 

 ケルベロスの魔素を回収したことで勢いを取り戻し、更に禍々しさをもってうねりを増す乱魔流。

 シンは無造作に剣を構えると、乱魔流目掛けて一閃。


 乱魔流はシンの振り下ろした《魔力喰い》に何の抵抗をすることも無く、そこには元から無かったかのように、ただただ静かに姿を消した。


 こうして、一連の乱魔流騒動は数万の観衆が見守る中で、あっけなくその幕を閉じたのだった。

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