第32話 地獄の扉
ヒメニスに肩を貸して歩いていたスフラの足が不意に止まる。
「どうしました?」
ヒメニスはそんなスフラの纏う気配が変わったのを感じた。
「なあ――あれはおかしくねえか?」
そう言って振り向いたスフラの視線の先には、燃え続けている黒狼の亡骸。
すでにその大部分が燃え尽きている。
「まさか――あれでもまだ生きているとでも?」
ヒメニスは最悪の想像をした。
常識的にはあり得ない。しかし、あの化物ならばあり得るのか――と。
「いや、そうじゃねえよ。何であの魔物は、死んだ後も死体が残ってんだ?」
魔素で構成されている魔物は死ねば魔素に返る。
死体が残るのは、魔素の影響で魔物化した魔獣だけだ。
「魔獣だったということでしょうか?」
それしか考えられないといった感じでヒメニスは答える。
「そんなはずは――ねえな。あいつは確かにあの馬鹿げた魔力の渦の中から出てきたんだ。それに、あいつの魔力と気配は魔獣程度が持っているようなもんじゃなかった」
ヒメニスはスフラの口調から、彼が段々と緊張が増してきているのは分かったが、それほどまでに何を危惧しているのかは分からない。
しかし、先ほどは何とか黒狼を倒すことが出来たことに安堵していて、そこまで考えが及ばなかったことには反省した。
言われてみればおかしい――と。
自分は魔物と戦っていたつもりでいたのだから、この不自然さにも気づかなければいけなかったのだと。
では、今どうするべきかと問われるならば、それは分からないと答えるしかない。
今のボロボロの体で出来ることなど、それこそ
その不自然さに気付いたスフラにしてみても、感じている奇妙な違和感には何の確証も無かった。それは、長い人生において、幾度となく命のやり取りの現場を経験してきたことで得てきた危険への直感とでも言えようか。
黒狼の体を焼いていた炎が徐々に小さくなっていく。
そして、その全てを焼き尽くしたのち、役目を終えた炎は静かに消えた。
跡には黒く焼け焦げた地面と、立ち上る白煙が風に揺れていた。
――ヤベェ!!
「ヒメニス!!全力で砦まで走れ!!」
スフラの叫びと同時に、ヒメニスの体は強い力で前に引っ張られる。
スフラの突然の行動に、疲弊しきった身体では咄嗟に反応出来ずに足が絡みそうになったが、肩を貸していたスフラがほぼ抱える形で走っていたので転ぶようなことは無かった。
「何ですか?!あばらの半分折れてるんでしょ?!無茶したら死にますよ!!」
「それどころじゃねえ!!ここにいたら確実に死ぬ!!」
そこで初めてヒメニスも感じ取ることが出来た。
背後から感じる――絶対的な死の気配。
それは今までに感じたことの無い、それこそ黒狼の存在すら可愛く思えるほどの圧倒的な恐怖。
今逃げなければ間違いなく命は無い。立ち向かうことなど微塵も浮かばないほどの恐怖。
全身から汗が吹き出し、振り向いて確認することすら
ヒメニス一人だったなら、とてもじゃないが身体を動かすことは出来なかっただろう。
隣にスフラがいることで何とかギリギリ意識を保って、震える身体を動かすことが出来ていた。
自分の呼吸音と心臓の鼓動だけが煩く聞こえる中、ヒメニスは必死に走った。
「あれは……何ですか……」
エルザは疲れて悪い夢を見ているのかと疑った。
そして全身を畏怖の感情が駆け巡る。
遠く離れた乱魔流の渦の中から巨大な獣の顔のようなものが唐突に現れたのだ。
十メートルを超えるオルトロスと同じくらいはありそうな巨大な黒い毛に覆われた狼のような顔――それが並んで三つ。
その瞳は緋色に光り、閉ざされている口の端からは鋭い牙が覗いている。
次に渦の中から獣の脚が突き出される。
その突き出された前脚が地面を踏みしめると、強烈な音と大地の振動が戦場となっている砦周辺にまで伝わってくる。
戦っていた兵士ばかりか、オルトロスさえも恐怖から動きを止めている。
やがて現れた禍々しいまでの漆黒のその姿は、巨大な獣の体に三つの犬のような首を持つ魔物――ケルベロス。
地獄へと繋がる門を守護すると言われているその魔物は、この世界において想像上の生き物として物語の中でのみ伝えられてきた。存在しない空想のものだと。
だから、オルトロス出現の時点で、次にケルベロスのことを想定出来なかったエルザに落ち度は無いだろう。
だが、それは何の慰めにもなりはしなかった。
離れた距離からも認識できる、砦の石壁よりも遥かに高い位置にある三つの頭。
如何なる方法をもってすれば傷つけることが出来るのかさえ見当がつかないほどの巨躯。
その巨体の前には、この砦どころかファーディナント王都の城壁さえも意味を成さないだろうとエルザは思った。そして――
人類にとっての地獄の扉がたった今――開いたのだと。
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