船足は遅く、しかし海は穏やか

 ワレナの町での休暇は最終的に4日間だった。船長によると船大工がやって来るのが1日遅れたからだという。休暇が増える分には文句はなかったので、ユウたち3人は抗議しなかった。


 ただし、船大工が言うには、可能なら一度海から引き上げて海側も見た方が良いらしい。今回はここだけだが、別の場所にも問題があるかもしれないからだ。そのため、次の港までは通常の半分、最大でも3分の2の速度までしか出すべきではないと助言されたという。これには船長も頭を抱えた。


 徐々に船体の問題が増えて来た『自由の貴婦人』号だったが、それでも目的地であるナルバの町に向かって出港する。


 早朝、ユウたちが車地キャプスタンを回して碇を上げると、マストに帆が張られて船が動き出した。


 港を出てしばらくするとユウたち3人はカミロに呼ばれる。今日は貨物倉の床掃除だ。以前よりもきれいになっているが、まだ掃除が必要な程度には汚れているのである。


 仕事を受けたユウは道具を用意しようとしたがすぐに立ち止まった。そして、振り向いてカミロに尋ねる。


「そうだ。結局、ナルバの町までどのくらいかかりそうなんですか? かなり遅れるんですよね」


「計算だと12日かかる予定だ。本来よりも4日遅れだな。何かあるのか?」


「別にないですよ。買った柑橘類が余るかどうかが気になっただけですから」


「柑橘類? あんなものわざわざ買ったのか。物好きだな」


「慣れるとおいしいですよ?」


「なん、だと? あれがか?」


 信じられないといった表情を浮かべたカミロが首を横に振った。あれを単体で食べるのは正気ではないとまで言われる始末だ。それでもユウは笑って肩をすくめるだけである。




 これから最終目的地であるナルバの町までの航海であるが、新しい仕事が追加された。それは船底の見回りである。今回見つかった損傷は大事に至ることなく終わったが、放っておくと次はどうなるかわからない。そこで、定期的に2人一組で船底を見て回るのだ。少しでも損傷を早く発見して傷が浅いうちに対処し、これ以上航海に影響が出ないようにするためである。


 これは冒険者の3人も例外ではなかった。船が沈んでしまえば困るのは同じなので一蓮托生である。ただし、船員の誰かと組むのが条件だ。


 炊事の作業があるユウも時間帯を考慮してもらえるが原則参加である。大抵は炊事の作業の直前か直後に船底の見回りをすることになった。


 ユウが最初に見回りをすることになったとき、組む相手はディエゴだった。夕食の配給が終わった後である。


 甲板の上、大檣メインマストの下で待っているディエゴにユウが近寄った。気付いたディエゴから声をかけられる。


「お、来たな! メシは食ってきたか?」


「まだですよ。配り終えた後って約束ですから。片付けをしていたら食べる時間がなくなっちゃって」


「そりゃ悪いことしたな。そこまで急がしていたわけじゃねぇんだが」


「いいですよ。見回りが終わってから食べますから」


「だったらいいか。それじゃ行こう。まずは貨物倉からだな」


 船員であるディエゴが先に歩いた。倉口の手前で角灯ランタンに火を点けて階段を下りる。中は船の軋む音と波の音がするだけだ。


 見回り漏れがないよう割と密に経路を設定されているため、貨物倉の中を2人で練り歩くことになる。角灯ランタンの明かりの範囲に湿った部分がないか目を凝らした。


 途中でユウが最初に湿った部分を発見した場所を通過する。確かに奥の方に手が加えられていた。湿った部分は少し薄くなっているように見える。


 他の場所も見て回ったが、貨物倉の床に湿った部分はなかった。これにはユウも一安心である。


 次いで向かったのは倉庫だ。ユウが炊事の作業で毎日出入りしている場所である。ここに関しては問題ないことを知っていた。何しろ1日3回は訪れるからだ。しかし、だからといって見回らなくても良いことにはならない。黙ってディエゴに続いて中に入った。


 床を見ながらユウはユウがつぶやく。


「今のところ漏れている所はないですね」


「いいことだ。ユウが炊事の用でここに来るときも床は見ているのか?」


「あんなことがあったばかりですから、やっぱり見ちゃいますよね」


「そうだよなぁ。オレもたまに床を見ちまうし」


「船の速度を落としているから大丈夫なのかなぁ」


「そうかもしれん。早くナルバの町に着きたいから、できるだけ船足を速くしてほしいが」


「矛盾していますね」


「まったくだ」


 自分の指摘で苦笑いするディエゴを見たユウもつられて笑った。願望と現実が合わないことはよくあることである。


 その他の部分も2人で見回ったユウとディエゴだが床に異常は見受けられなかった。巡回が終わると大檣メインマストの下で解散である。船長への報告はディエゴがやってくれることになっていた。




 港町を出てから1週間が過ぎた。船足が普段よりも遅いということ以外は今のところ順調だ。港から港へと向かうとき、今までだと必ず何かに襲われていた。今回も何かあるのならそろそろだろうというのが船員一同の予想である。それを知った船長のアニバルは渋い顔をしていたが何も言わなかった。


 不安に思っているのはユウたち3人も同じである。今まで最低1回は必ずひどい目に遭っているので、むしろここで何もないというのはあり得ないとまで考えていた。


 しかし、何かあるまではいつもの作業が続くのが船の上である。この日の朝は甲板の清掃だ。もはやおなじみであるユウたち3人がデッキブラシを持ってこすっていた。


 新しい海水を桶に入れたトリスタンが背伸びをする。


「はぁ、俺たち、床掃除がすっかり板に付いたなぁ」


「木の床を磨いているだけにっすね!」


「誰もそんなことは聞いていないぞ。まぁこの程度の汚れなら、昼飯までには終わるだろうけどな」


「楽勝っすね。早く終わらせて休憩するっす」


 右舷から汚れた海水を捨てたトリスタンが紐の付いた桶を海上に投げ落とした。すぐにたぐり寄せて紐の付いていない桶に中身を移す。


 そこへユウもやって来た。やはり汚水を海に投げ捨てて紐の付いた桶を外に投げる。


「あと数日でこの航海も終わりかぁ」


「そうっすね。やっと終わりっすよ。なんだかんだで2ヵ月以上乗ってたっすねぇ」


「最近暑いと思っていたらもう夏だもんね。乗ったのは春なのに」


「色々とあったっすから、もっと長く乗ってたような気がするっすよ」


「あはは、僕も。あれ? あれは、島?」


 ふと右舷から北東の方角へとユウが目を向けると水平線の近くに小島のようなものがあった。ブレラ諸島のような島々もあるのだから東モーテリア海にあってもおかしくはない。しかし、じっと見ていると何かがおかしかった。盛り上がった陸地の南側にアーチ状の何かを半分にしたようなものがくっついているように見える。陸地と比べると端にしてはやけに大きすぎた。しかも若干動いているような気がしないでもない。


 最初に発見したユウにつられてトリスタンとエリセオもその小島のようなものに目を向けた。しばらく無言で眺め続ける。


 そこへカミロがやって来た。3人が揃って海の向こうを眺めているので同じように顔を向ける。


「お前ら、何を見ているんだ?」


「あの水平線近くに小島みたいなのがあるじゃないですか。あれを見ているんですよ」


「島の南から何か突き出てるっすよね?」


「ああ! あれは島海亀ザラタンだ! でっかい亀の魔物だよ」


「亀!? あれが!?」


 嬉しそうに説明したカミロにトリスタンが驚きの声を返した。水平線近くであれだけの大きさに見えるとなると、近づけば文字通りちょっとした島の規模だ。


 島海亀ザラタンは非常に大きな海の魔物で、長い年月を経た個体の甲羅の上は土石や草木などのために小島のように見える。遠くからなら尚更だ。別の生き物を攻撃することはめったにないが、周囲には無頓着なので進路上にいようものならそのまま突き飛ばしてしまうはた迷惑な魔物だ。


 その海の魔物が遠くを南に向かって進んでいた。


 小島の正体を知ったユウたち3人は呆然とそれを眺める。


「大きいなぁ」


「あれが魔物なんて信じられない」


「すごいっすねぇ」


 あまりにも桁違いの存在に3人とも単純な感想しか出てこなかった。


 しかし、いつまでもぼんやりと見ているわけにもいかない。カミロに促されて甲板の掃除に戻った。


 現実に引き戻されたユウたち3人は普段通りデッキブラシで甲板を磨いていたが、そこは遮る物がほとんどない船上である。ふと右舷の先を見ると例の大きな魔物が相変わらず悠然と進んでいた。それをたまに見ながら作業に戻る。


 はるか先にいる魔物にまさか心を癒やされるとはユウも予想外だった。そして今、かつて会った老水夫の言葉を思い出す。確かに苦労は多かったが、その先に感動はあった。


 今のユウはそう思えた。

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