船乗り病に罹った船員

 目的地の1つ手前の港、ワレナの町に『自由の貴婦人』号は入港した。船底に問題を抱えているが最寄りの港町には到着できる。


 非番の船員が下船できるのはこの船だと入港翌日だ。それは冒険者であるユウたち3人も同じだが、報酬をもらって下船するときに船長から休暇の期間について注意を受ける。


「今回の休暇は3日間だが、場合によっては少し延びるかもしれん。例の船底の部分を船大工に見てもらい、場合によっては本格的な修理をすることになるかもしれんからな」


「何日くらい延びそうなんですか?」


「それは船大工の意見次第だ。あまり延びても困るんだが」


 難しい顔をした船長のアニバルがやや歯切れ悪くユウに回答した。


 休暇が短縮するならばともかく、延長する分にはユウたち冒険者にとって悪い話ではない。苦悩する船長に対して3人は笑顔で承知する。


 前の港では三の刻になる前に下船してどう暇を潰すかで悩んだユウたちだったが、今回は三の刻の鐘が鳴ってから下船した。なので、すぐに店へと向かうことができる。


 トリスタンとエリセオは早々に賭場へと向かったのに対して、ユウは貧民街の市場に足を向けた。港が町の北側にあるのに対して南側に広がっているので少し遠い。


 ここの貧民街と市場もティッパの町と同じくこぢんまりとしていた。町の規模が同じくらいなのでユウもこんなものだと納得する。


 あまり期待しないで数の少ない店や露店を眺めて回った。薬屋の薬は相応のものだったので買わないでおく。次の港町までなら手持ちで何とかなりそうだからだ。また、雑貨屋に入って羊皮紙の質も確認した。やはり意に沿うようなものではない。


 肩を落としたユウが思わず雑貨屋の店主に尋ねる。


「羊皮紙ですけど、これよりもっと質の良いものってあります?」


「兄ちゃん、そいつの質がわかるのかい?」


「今使っている羊皮紙と比べたらすぐにわかりますよ」


「なるほど、そういうのがわかる人ってわけかい。少しならここにあるが」


 半信半疑ながらユウは試しに1枚だけ見せてもらうと、店の棚に置いてある羊皮紙とは明らかに質が違った。目を見開いて店主に話しかける。


「どうして棚に置かないんですか?」


「見分けのつかないバカが質の悪いのと同じ値段で買おうとするからだよ。これの良さがわかるってことは、兄ちゃんはこの値段も知ってるんだよな?」


 肩をすくめる店主にユウはうなずいた。相場通りの値段で5枚買う。これですべてだそうだ。


 思わぬ買い物に上機嫌となったユウは早速安宿に向かった。料金を支払って大部屋に入ると寝台の1つを占拠して自伝もどきを書き始める。


 これでこの町にいる間は暇でなくなりそうだった。




 休暇2日目、ユウは三の刻まで原っぱで鍛錬をしていた。トリスタンとエリセオも同じ安宿だったので荷物を見てもらえたからである。


 その仲間2人は昨日賭場で負けが込んだらしい。昨晩の夕食で両者揃って愚痴っていた。そして今朝、今日はその負けを取り戻すのだと勇んで三の刻の鐘が鳴ると安宿を飛び出していく。素寒貧にならないことを祈るばかりだ。


 仲間を送り出した後、ユウは安宿で羊皮紙を寝台の上に乗せた。今日も自分の覚えていることを書き出すのだ。現在は故郷の貧民街暮らしだったときのことを書いている。冒険者になるのはまだ少し先になる予定だった。


 楽しく過去を思い出しながらユウが自伝もどきを書いていると鐘の音が耳に入る。四の刻の鐘だ。思った以上に時間の経過が速い。


 空腹を感じたユウは書くのを中断した。道具を片付けて背嚢はいのうに片付ける。そうして安宿を出た。この町でこだわりはないので近くにある安酒場に入る。


 昼時とあって店内は盛況だった。席は大体埋まっていたので、空いているカウンター席の横に荷物を置く。先に給仕女に注文をしてから席に座った。


 ほどなくして届けられた料理と酒をユウは口にする。後で柑橘類を買う必要があることを思いだした。


 特に急ぐこともないので、ユウは食後に木製のジョッキを片手にちびちびとやる。周りを見ると昼時は過ぎたのか、入ったときの半分ほどに客の数が減っていた。ユウが座っている両隣もいつの間にか空いている。


 気にするほどのことはなかったのでユウはそのまま木製のジョッキを傾けた。これから羊皮紙に書く内容を何にするか考える。


 そうやってのんびりとしていると、ユウはやけに生臭い臭いがすることに気付いた。食べ物が傷んだときのものとは違う臭いだ。どちらかというと体臭に近い。


 隣の席に顔を向けると1人の男が座っていた。日焼けしたいかにも船乗りといった感じの男である。


 さすがに顔を向けて見ていると相手に気付かれた。ユウはその船乗りそうな男から話しかけられる。


「なんだ? オレが臭いってか?」


「え?」


「自分のことなんだからわかってるさ。くせぇんだろ?そりゃそうだよな」


「長い航海でずっと体を洗っていなかったからですか?」


「合ってるのは長い航海ってところだけだな。体を洗ってねぇのは確かだが、例え洗っても臭いままなんだよ」


 目の前の臭う男の言いたいことがユウにはわからなかった。どう返答したものかと戸惑う。


 自虐的に笑う男は給仕女から木製のジョッキを受け取ると大きく傾けた。それから気持ち良さそうに息を吐き出すと再びユウに顔を向ける。


「やっぱエールはたまんねぇや。こんな体になっちまってもうめぇときたもんだ」


「何かの病気に罹っているんですか?」


「おう、罹ってるとも。船乗り病にな」


「え? あの病気にですか!?」


「そうだ。船乗りだと誰でも罹るあれだ!」


 やけに楽しそうに笑う目の前の男を見たユウは更に困惑した。笑ったときに見えた口の中は歯が欠け、歯茎からは血が滲んでいるのが窺える。


 そんな男の自分語りによると、港町の貧民街で生まれた男は10年ほど前に船に乗り込んだ。最初は沿岸の港町を往来する商船に乗っていたのだが、魔物に襲われて船が半壊して解散となったという。新たな働き口を求めて仕事を探していたところ、男はつい先日まで乗っていた船に採用された。ところが、3ヵ月程前から体調がおかしくなり、ついには船を下りなければならないほど症状が悪化したそうだ。


 一通り話した男は自らをあざ笑うかのような表情を浮かべる。


「船乗り病になるとどうなるか知ってるか? 最初は体がだるくなったり関節が痛くなったりするだけなんだが、そのうち歯茎から血が出て歯も抜けるんだ。そして息が臭くなる」


「だから臭ったんですか」


「そうだ。でもそれだけじゃねぇ。ちょっとしたケガもなかなか治らねぇし、風邪もひきやすくなっちまった。昔は風邪なんてひいたこともなかったのによぉ」


 大きくため息をついた男は、そのとき初めて笑顔以外の表情をユウに見せた。明るい表情が抜け落ちた男の顔は人生に何の希望も抱いていない者の顔である。


 船乗り病を煩っている男の話を聞いたユウはかつて老水夫から聞いた話を思い出した。今も自分が実践している船乗り病対策である。もしかしたら、今からでも男が柑橘類を食べたら病気が治るのではと考えたのだ。


 希望を与えられる方法を思い出したユウは男に提案する。


「僕、引退したお爺さんの水夫から前に聞いたことがあるんですけど、柑橘類を食べたら船乗り病が治るそうですよ。しかも、罹る前に食べたらその病気にもならないって」


「柑橘類? あの酸っぱい食い物か?」


「そうです。最初は酸っぱくてきつかったですけど、あれで病気が治るんでしたら悪くないんじゃないですか?」


「とてもそうは思えねぇ。むしろあれって毒じゃないか」


「毒?」


「だって、食えないほど酸っぱいんだぞ? あんなの食い物とは思えねぇ」


「さすがにそれは」


「むしろ、船乗り病に効くのはこのエールだろ。オレはこれを毎日飲んでるからまだましなんだ」


 真剣な顔をした男が木製のジョッキを軽く持ち上げると口に付けた。空にすると給仕女に再び注文する。


 てっきり喜んでもらえると思ったユウは男の意外な反応に呆然とした。船乗り病になったことはないものの、さすがに男の主張は違うような気がする。


 そうはいっても、ユウが男に無理強いすることもない。助言を拒否したのは男であり、どう生きるかは男次第なのだ。その末にどうなろうとも、その結果は男が受け入れなければならないだけである。


 もはや何も言うことはなくなったユウは木製のジョッキを空にすると席から立ち上がった。足下に置いていた背嚢を背負うと、何も言わずに男へ背を向ける。


 実際のところ、ユウは老水夫と今の男のどちらが正しいのかわかっていない。しかし、何となくではあるが老水夫の方が正しいように思える。だからこそ、これからも柑橘類を食べようと改めて思った。

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