船の底

 嵐に続いて海の魔物に襲われた『自由の貴婦人』号はどうにか生き延びることができた。船員に若干の被害が出てしまったが、戦いに犠牲は付きものだ。船長も船員も許容範囲であると割り切っている。


 今度こそ襲われないようにと誰もが祈りながら船は次の港町へとの航海を再開した。そのおかげか、天気は良く、海も穏やかなままで船は順調に進んでゆく。


 ただ、立て続けに非常事態のせいで船は内外共に荒れていた。そのため、航行しながら船員全員で船のあちこちを点検することになる。一方、ユウたち3人は船上船内の掃除と道具や器具の整理などを担当することになった。もちろん簡単に終わらない量だ。


 魔物に襲われた翌日から本格的な掃除と整理を始めた3人は黙々と作業を続けた。ここ数日の疲労が今ひとつ抜けていないせいで話をする余裕があまりない。


 この日の昼下がりは貨物倉の床掃除である。朝の間に甲板清掃がついに終わったと喜んだ矢先に命じられたのだ。3人とも微妙な表情になった。


 海水を入れた桶、デッキブラシ、そして角灯ランタンを手にユウたち3人は貨物倉へと降りる。例の悪臭がしているのは今更だが、次の港まで近い今の時期に未だ床に泥まで付いているというのは珍しい。


 その泥をブーツの先で突きながらユウが微妙な表情を浮かべる。


「そういえば、僕たち貨物倉を掃除するの初めてだよね」


「なんで今まで言われなかったんだろうな?」


「だから今日命令されたんじゃないっすか? これ絶対今日中には終わらないっすよ」


 床を見ながらエリセオが嫌そうな顔をした。確かに結構な汚れなので一筋縄ではいかなさそうである。


 ともかく、始めないことにはいつまで経っても終わらない。ユウたち3人は手分けして床を掃除始めた。


 甲板の場合は海水がたまに海から流れ込むこともあって、掃除の前に桶から海水をぶちまけて掃除をするという方法が使える。しかし、貨物倉の場合はそうもいかない。商品が積み込まれているので床を水浸しにするわけにはいかないのだ。汚水が積み荷に染み込んだら賠償問題になってしまう。


 そのため、3人ともデッキブラシの先を桶の中に入れて海水にひたし、その濡れたブラシで床をこすった。まずは床の汚れを落とさないといけない。


 貨物倉の船首側の最奥で床掃除を始めたユウは何も考えずにデッキブラシを動かした。この辺り一帯はほとんど人がやって来ることもないので比較的ましなのだ。ある程度デッキブラシでこすっては隣に移る。


「あれ? あそこはまだ掃除していなかったはずだけど」


 角灯ランタンの明かりが届く際の辺りの床が湿っているのをユウは見つけた。明かりを手にしてその辺りを照らしてみると、そこから壁の端までの辺り一帯の床が湿っている。通常、船内に水気が浮かび上がってくることはない。


 不安になったユウは他の場所で掃除をしているトリスタンとエリセオを呼んだ。半信半疑といった様子の2人はユウに連れられるままに問題の場所へと案内される。


「ここなんだけど。これって何かな?」


「掃除もしてないのに湿っているってわけか? どこかから水が漏れてるのか、も」


「船でそんなことがあったらヤバいっすよ」


 トリスタンの言葉にユウもエリセオも顔を青くした。まだ確定ではないが、これは船員に知らせないといけない件である。


 3人は急いで甲板へと出た。周囲を見回してカミロがいたので小走りに近寄る。


「カミロ、貨物倉の船首側の奥の床で一部湿っている場所があるんですけど」


「なんだと? どこだ?」


 顔つきが真剣になったカミロがユウを問い詰めた。口で説明するよりもと実際の場所を案内する。


 問題の場所に着いたユウは手にしている角灯ランタンを掲げてその場所をカミロに見せた。すると、そのカミロの顔が歪む。


「ちくしょう、こりゃまずいぞ。船底のどこかに穴が空いちまったんだ!」


「どうするんですか?」


「まず船長に知らせる。対応はそれからだ」


 歯ぎしりをしたカミロは慌てて踵を返して走った。ユウたち3人もそれに続く。


 甲板で待機を命じられた3人は倉口の辺りで待った。一旦船内に姿を消したカミロは船長とディエゴを連れて戻って来る。


 船長に案内を命じられたユウは再び問題の場所へと皆を案内した。トリスタンとエリセオの持つ角灯ランタンと合わせて湿っている床を露わにする。


 湿った床を見た船長をはじめ、カミロとディエゴも全員が顔をしかめた。床の様子を見ながらアニバルが両隣の船員2人に問いかける。


「最後に貨物倉の点検をしたのはいつで誰だ?」


「昨日の昼で自分です、船長。そのときは湿っていませんでした」


「間違いないんだな?」


「はい、間違いありません」


「あの蛸の化け物の締め付けで傷んだか。昨日の昼の時点で問題なかったとなると、昨晩以降、問題はどのくらいの速さでにじみ出てるかだが」


 ディエゴと会話をしながらアニバルが顎に手をやった。修繕するのは当然だが、航海中では限りがある。そして、どのくらいの速さで浸水しているのかというのも問題だ。次の港までなんとしても船を維持しないといけない。


 振り向いたアニバルがカミロに顔を向ける。


「カミロ、船について詳しいヤツを連れて来てこれを調べさせろ。どのくらいの速さで滲みが広がってるのかを知りたい。ディエゴ、お前は人を集めてこれを修繕しろ。調査の結果完全に解決できないのなら、応急処置で構わん。最低次の港町、できればナルバの町まで保たせるんだ」


「了解しました!」


「すぐに人を集めます」


 指示を受けたカミロとディエゴがすぐにその場を走り去った。その場に残ったのは船長であるアニバルとユウたち3人だ。


 その3人に対してアニバルが指示を下す。


「お前たちはディエゴが戻って来るまでここで待機だ。あいつがやって来たらその下についてこの床の修繕をしろ」


「僕、もうしばらくしたらフィデルのところに行くつもりだったんですけど、こっちに残った方が良いですか?」


「あー、そういえばお前は飯の担当だったな。わかった。ユウはフィデルの所へ行け。残り2人はここで待機だ」


「わかりました」


「了解っす!」


 一瞬微妙な表情をした船長の再指示を受けた3人は返事をした。それから、ユウはアニバルと共に貨物倉から出る。


 これからの船の状態を不安に思ったまま、ユウは調理場へと向かった。




 夕食の作業を終えたユウはフィデルと共に自分たちの食事も済ませた。配給のときに船長から貨物倉の応急処置が終わったことを伝えられ、カミロから清掃を再開するよう命じられる。そのため、海水を入れた桶、デッキブラシ、そして角灯ランタンを手に貨物倉へと向かった。


 両手に道具を持って階段を下りたユウは既にトリスタンとエリセオが床を磨いているのを目にする。2人ともユウに顔を向けて声をかけてきたので答えた。そして、気になっていたことをトリスタン尋ねる。


「船長から床の応急処置は終わったって聞いたけど、どんな風に処置ってしたのか知っている?」


「やっぱりあの湿っていた床の辺りにひびがあったらしいんだ。それを見つけて、木の皮をほぐしたやつを貼り付けて、後はその上に板を乗せて上から押さえつけて修理したんだよ」


「木の皮をほぐしたやつ? そんなので海水が入ってくるのを止められるの?」


「できるらしい。ただ、本当に修理できたかどうかは時間をかけないとわからないそうだから、今後は定期的にあの場所を観察するそうだが」


「へぇ、そうなんだ」


 トリスタンの説明は大雑把なものだった。しかし、修理できたのならば一安心とユウもそれ以上は追求しない。


 そんな2人に対してエリセオが笑顔で近づいて来た。そして、楽しそうにユウへと話しかける。


「まぁ、修理できたんだからよかったじゃないっすか。結局、オレらは何も手伝わなくて済んだっすしね」


「それじゃ、作業を見てるだけだったんだ」


「そうっすよ。途中からはいらないからって床掃除の再開を命じられたっすけど」


「あー、何もしていないなら、それは仕方ないよね」


「最後に船長がやって来て修理した床を確認したそうっすけど、貨物倉から出るときに愚痴ってたっすね」


「え、どんな愚痴?」


「なんで今回の航海はこんなにひどいことばかり遭うんだって。海賊から始まって、魔物に何回も襲われて、挙げ句の果ては嵐にも遭ったっすからねぇ」


「普通はそんなに遭わないんだ」


「そりゃそうっすよ。普通はどれか1回、多くても2回っすよ。よっぽどツイてないんすね、あの船長」


 そう言うとエリセオは楽しそうに笑った。それで沈没してしまえば自分たちは死んでしまうのだが、その辺りは気にしていないらしい。トリスタンは肩をすくめて首を横に振っていた。


 話を聞いたユウは呆れる。そして、もう何も起きないように願った。

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