航海中の嵐
早朝、ティッパの町から『自由の貴婦人』号が出発した。適度な風を受けての滑るように海を進む。
これが初航海であるユウとトリスタンも航路の半ばまで進んだ今だとかなり船に馴染んでいた。仕事は単なる雑用から船員の補助にまで作業は広がっている。このおかげで船員との仲は更に良くなったが、やることが増えたので休み時間は減ってしまった。なかなかうまくいかないものである。
港を出発した最初の数日は航海はまったく問題がなかった。進路を最初は東に向け、そこから真北に変えていく。大陸の沿岸に沿って進むのだ。そうして東モーテリア海に入ると今度は北西に進路を向ける。以後、進路が大きく変わることはない。
しかし、4日め辺りから雲行きが怪しくなってきた。青空は見えなくなり、風は強くなる。風が強くなれば帆船の速度は上がるが同時に操船は難しくなる。特に海が荒れてくると強い風は歓迎できなかった。
天候と海模様を見ていた船長のアニバルが主立った船員を集める。そうして解散した数名の船員が各地に散ったのだが、そのうちの1人であるカミロがユウの隣にいる船員に駆け寄ってきた。そして、風の音と波の音に負けないよう大きな声で告げる。
「本格的な嵐になる前に帆を畳むぞ!」
「了解!」
「ユウ! こいつの手伝いが終わったら船内に入れ!」
「わかりました!」
帆に関わる縄の操作を補助していたユウはカミロからの指示に大声で返答した。それからは船員の声に従って体に力を込める。吹き飛ばされるのではないかと思えるほど強い風がたまに吹くと、本当に体が浮いてしまいそうで恐怖心が強くなった。
いつ終わるのかわからない風との綱引きはその後も続く。腕が痺れてくるが手放すわけにはいかない。ひたすら歯を食いしばった。
全身が雨濡れになる中、ユウは近くにいた船員に声をかけられる。
「もうちょいだ! あと少し踏ん張れ!」
怒鳴り声のはずのそれはしかし強い風雨でユウにはささやき程度にしか聞こえなかった。尚も踏ん張る。
それからどのくらい経過したのかユウにはわからないが、気付けば船員に肩を叩かれていた。船内に続く扉を指差しながら自分の顔を見ているのに気付く。うなずいたユウは縄を手放した。
大きく揺れる甲板の上は既に海水があちこちに向かって流れている。扉までの距離はそう遠くないが、このような荒れ模様の中を進むとなると簡単ではない。滑る甲板と思った以上に勢いよく流れてくる海水に足を取られないように進まないといけない。
足が滑りそうになる度にユウは立ち止まり、場合によっては片膝を付いて船外へと投げ出されないように気を付ける。
全然前に進めないことにユウは苛立った。前を見ると船内に続く扉が数レテム先にある。ちょうど船員の1人が出てきた。顔をしかめながら船尾へと進んでゆく。
扉に目を向けたユウは次の歩きやすくなる機会に一気にたどり着こうと決心する。
何度か上下左右前後に揺れたあと、流れてくる海水の量が減った。甲板の傾きもそれほど厳しくない。
行けると判断したユウは立ち上がって駆ける。あと少しというところで甲板に大量の海水が流れ込んできた。足下が滑りそうになる。手を伸ばして扉にしがみついた。そして大きく息を吐く。
ここまで来て流されてたまるかとユウは慎重に扉を開けた。すると、驚いた表情を浮かべるディエゴに出くわす。
「よくたどり着けたな!」
「海に落ちるかと思ったよ!」
声をかけてきたディエゴにユウは叫び返した。息も絶え絶えといった様子で船内に入る。ようやく一息付けた。しかし、尚も船体が大きく揺れ続けるので体から力は抜けない。
すっかりずぶ濡れになったユウに対してディエゴが声をかける。
「ユウ、倉庫に行って道具と器具を縄で固定しろ。既にトリスタンとエリセオが作業してるから手伝ってやれ」
指示を受けたユウは大きく揺れる船内を慎重に歩きながら倉庫へと向かった。すれ違う他の船員とぶつかりそうになるも何とか避ける。
いつもの場所にたどり着くと、そこは狂乱状態になっていた。さすがに樽や木箱は普段からしっかりと固定されているので今のところは何ともないが、それ以外の細かい道具や器具などは床を行ったり来たりしている。
「おい、そっちの器具を取ってくれ!」
「むりっす! そっちに行くまでにってうわぁ!」
片膝を付いて頼み事を叫んだトリスタンに答えようとしたエリセオが揺れに耐えきれずに転げた。壁にぶつかって悲鳴を上げる。
とりあえずエリセオに近づいたユウは顔をしかめている仲間を助け起こした。自分も転げない様に気を付けながら声をかける。
「エリセオ、怪我はない?」
「ユウっすか。ずぶ濡れじゃないっすか」
「外で作業していたからね。思い切り雨と海水を浴びたよ。それで、どうして倉庫内の道具とかがこんなに散らかっているの?」
「固定が甘かったやつがいくつかあったみたいなんすよ。それでこの嵐が来て揺れに揺れたらとっちらかったらしいっす」
「2人とも、話をしていないで手伝ってくれ!」
事情を聞いたユウはトリスタンからの切羽詰まった声を耳にした。急ぐ必要があるのですぐに手伝う。
とりあえず、倉庫中に散らかった道具や器具を1箇所に集めることにした。具体的には、トリスタンのいる場所に床の上を動き回っている道具や器具を持っていくのである。複数の器具を1つにまとめて固定する場合もあるので、まずは探しやすいようにするのだ。
エリセオに提案を説明して理解してもらうと手分けして倉庫内を巡る。揺れがひどくて思うように進めないが、作業そのものは着実に進んだ。
やがて散らかっている道具や器具のほとんどを集めると、今度は3人一緒に集めた物を固定していった。たまに数が足りない物があったがそれは後回しだ。
そうしてついに、ユウたち3人は作業を終えた。最後の道具をトリスタンが固定すると全員が床に座り込む。かなり時間はかかったが、それでもやり遂げたのだ。
かなりつらそうな表情を浮かべるエリセオが苦しそうにつぶやく。
「やっと終わったっす」
「最初来たときは、こんなの絶対に無理だろうって思ったものだったけどな。やればできるもんだ」
疲れ切った様子のトリスタンが呆然と独りごちた。
甲板に続いて船内でも体力を消耗したユウはぼんやりと倉庫内を見つめる。縄で縛られた樽や木箱が揺れる度に縄を引きちぎろうとしているように思えた。
そのとき、上に上がるように船体が傾いたかと思うと、急にふんわりと中に浮くかのような感覚が3人を襲いかかった。次の瞬間、倉庫内の荷物と同様に床に叩きつけられるような衝撃を受ける。座っていたユウたちは転げることはなかったが、身を強ばらせていた。
元から作業で忙しくて口数は少なかったが、今の衝撃で3人は改めて周囲に目を配らせる。沈没すると思えるほど船が揺さぶられるのを感じ、船がへし折れるかのような軋みが聞こえ、再び倉庫内を飛び回ろうとしようとする荷物たちの動きが見える。
本来、担当の作業が終われば船員に報告して次の作業を求めるものだが、そんな気力が今の3人にはない。特にユウは1度甲板での作業をさせれていたので、また外に出るのは正直嫌だった。
そこへトリスタンがぽつりと漏らす。
「貨物倉の荷物が崩れたら、大変だろうなぁ」
「それ言っちゃうっすか。それは考えないようにしていたんすけどね」
「どうして?」
「あれがダメになったら、オレらの報酬を払ってもらえなくなるっすから」
「なるほど」
ぼんやりとしながらトリスタンがエリセオの言葉にうなずいた。
他の2人と同じように呆然としていたユウだったが、樽と木箱を見ていてフィデルのことを思い出す。調理場はあまり道具を固定していない場所の1つだ。対応が遅れていれば大惨事になっている可能性がある。
「みんな、僕、調理場に行ってくるね。あそこって普段からあんまり物を固定していない場所だから」
「おいおい、本当かよ」
「やばいっすねぇ」
立ち上がったユウはゆっくりと扉へと向かった。わずかな間その様子を見ていたトリスタンとエリセオも立ち上がって続く。
結果的に仲間を連れて調理場へとやって来たユウは、予想以上に大惨事になっていることを知って呆然とした。それでも調理場をなんとかしようとしているフィデルを見つけて、4人で協力して荷物や道具を固定していく。刃物が飛んでくる分だけ倉庫での作業より危なかった。
嵐は一晩中続いた。『自由の貴婦人』号の船員たちは結局ほとんど眠れないまま翌日の朝を迎える。散々苦労してやり過ごした嵐は跡形もなく消えていた。晴天の空を見上げた船員は大きくため息をつく。
すべてが収まったとき、ユウたち3人は力尽きていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます