危険な海洋の魔物

 無風だった翌日は朝から風が吹いていた。それは誰にでもはっきりとわかるくらいの風だ。これならば出港できるとユウたち冒険者でもわかる。


 事実その通り、準備がすべて整うと船長のアニバルは出港の号令をかけた。車地キャプスタンで待機をしていたユウたち4人はゆっくりとそれを回す。碇が少しずつ持ち上がり、ついに目一杯まで上がりきった。


 2本のマストに帆が張られるとゆっくりと船が動き始める。ようやく出港だ。


 朝一番から全力を出したユウたちは早速体に疲労を感じたが、1日の仕事はこれからが本番である。ユウたち3人の場合、昨日では終わりきらなかった甲板の清掃を再開した。


 ここからの生活は以前と同じである。船員たちは船の操船や帆の操作などに勤しみ、冒険者たちはその周りで雑用を片付けていく。全体的に重労働だが、やることがわかっていると精神的に少しはましになった。


 港を出るときに蹴躓いた『自由の貴婦人』号だったが、海に出てしまえば順風満帆だった。船の左舷の向こうにある陸地を視界に収めながら進路を北東に向けて進み続ける。


 数日もすると各作業に余裕も出てきた。ユウたち3人の作業も重労働よりも細かい作業が増えていく。


 現在、ユウはフィデルと共に昼食の用意をしていた。この作業も回を重ねるごとに慣れ、今ではユウもフィデルと大体同じように作業ができる。


「ユウ、塩漬け肉を切り終わったら、そっちの樽の中に入れておいて」


「わかりました。入れ終わったら他の船員を呼んできますね」


「今回は豆の樽があるから面倒。みんなに運んでもらわないと」


 豆の入った樽を軽く叩きながらフィデルが小さくため息をついた。


 レニッシュの町で当然食料も積み込んでいるのだが、今回はきちんと豆が届いたのだ。前回は手違いで『自由の貴婦人』号に積み込む豆の樽が届かなかったのである。


 昼時になると、手すきの船員と共に甲板にまで樽と木箱を運んだ。そうして昼食を皆に配る。豆の存在は皆に喜ばれた。ビスケットの方が手違いで届かなければ良かったのにと言われるくらいには。


 食事の配給が終わるとユウが樽と木箱を倉庫に運ぶ。日を経るごとに使った樽と木箱は増えていった。しかし、中身が詰まっているものと同じようにしっかりと固定しなければならない。船の揺れで樽が暴れて中に残った塩をぶちまけるわけにはいかないのだ。何しろ掃除をするのはユウたち冒険者だからである。


 そうして1週間が過ぎた。航海は順調そのものだ。船での生活は大体単純な繰り返しになりつつある。


 この日は朝の間は雨が降っていた。それ以外は少し風が強いくらいだが、言ってしまえばその程度なので航海に支障はない。その雨も昼食が終わる頃には上がった。


 半日雨に曝されて濡れた船上を見たカミロがユウたち3人に命じる。


「いい機会だ。今のうちに甲板を磨いておけ。海水をぶちまける手間が省けるぞ」


 確かにその通りではあるので、ユウたち3人はデッキブラシを手に甲板の掃除を始めた。


 甲板の掃除も繰り返しやっていると慣れてくる。なので、隣同士で作業をすればしゃべることも可能だ。


 船首側の甲板の端でユウがデッキブラシを動かしているとトリスタンが寄ってくる。


「前にきれいにしたばかりなのに、もう汚れてきているんだよな」


「甲板はみんな通るからね。波が高いときは海水が甲板をきれいにしてくれるけど」


「でも、デッキブラシでこすらなきゃ落ちない汚れって多いんだよな。特に足跡。たまにくっきり付いてるのがあるけど、あれって何を踏んだんだろう?」


「あんまり想像したくないな。船の中でそんなのが足の裏に付くって言えば」


 ユウが言い切る前に高めの波に船が乗り上げた。次の瞬間、落下するような感覚に襲われる。ユウもトリスタンもとっさに片膝を付いて体の均衡を保った。


 大きく息を吐き出したトリスタンがつぶやく。


「あっぶねぇ。これで横揺れがあったら転げ回っていたな」


「すぐそこが海だから投げ出されないようにしないと」


「船の上で誰かがいなくなったら、海に放り出された可能性が高いってカミロが言っていたぞ。そうはなりたくないな」


「早く終わらせて、道具磨きの方をしたいよ。あっちだと海に落ちる心配はないし」


「その代わり、崩れ落ちてきた物の下敷きになる可能性は考えないといけないけどな」


「嫌なことを言うなぁ」


 気持ちが落ち着いたユウとトリスタンは立ち上がって甲板の掃除を再開した。まだ始まったばかりだ。先は長い。


 少しずつ甲板をきれいにしていると、ユウは船尾側を磨いているエリセオに呼ばれる。


「ユウ、ちょっとこっちに来てくれっす!」


「わかった!」


 作業を中断したユウはデッキブラシを片手に持って船首側から離れようとした。その瞬間、目の前を巨大な何かが通り過ぎたので反射的に一歩下がる。


 それは魚らしきものだった。槍のように伸びた角らしきものを顔の前から突き出し、昆虫の羽のような胸鰭むなびれを広げている。そんな体長4レテム程度の魚みたいなものが、次々と船の右舷から左舷へと飛び越えていった。


飛翔嘴魚フライングビルフィッシュだ!」


 船員の誰かが叫んだのをユウは耳にした。


 後にユウとトリスタンが船員から聞いた話によると、この飛翔嘴魚フライングビルフィッシュ梶木カジキという魚に飛び魚の胸鰭を付けたような魔物だ。海中から跳びはねてその姿を見せるときはいつも船や船上の人間に向かって突っ込んでくる。なぜ船や人間を狙うのかはまったくわかっていない。


 ともかく、そんな角突きの大きな魚の魔物がいくつも突っ込んでくるのだ。しかし、船乗りがこの魔物を嫌っているのはその凶暴性ではない。名前にフライングと付くだけに飛び跳ねるわけだが、高さによっては帆を切り裂いたり突き破ったりしてしまうのだ。しかも、角度によっては帆を支えるロープを傷つけることもある。


 このような船乗り泣かせの魔物が『自由の貴婦人』号に襲いかかって来た。客観的に見れば単に船を飛び越えているだけに見えるが、そもそも船を飛び越える理由がわからない。実にはた迷惑な魚の魔物なのだ。


 船体中央は飛翔嘴魚フライングビルフィッシュの群れが次々と右舷から左舷へと飛び越えている。今のところ船に直接の被害はない。しかし、たまに甲板に滑り込んで大きな音を立て、また飛び跳ねてゆく個体がいた。


 船首側の甲板にいたユウとトリスタンは船首近くへと身を寄せる。


「トリスタン、生きてる? 怪我はない?」


「大丈夫だ! なんだこれ!? 魚が空を飛んでいるのか?」


「あんなのに突っ込まれたひとたまりもないよ」


「ユウ、武器は何を持っている?」


「ナイフとダガーだけ。でも、槌矛メイス戦斧バトルアックスも役に立つとは思えないな」


「同感だ! ちくしょう、なんて魚だ。うぉっ!?」


 悪態をついていたトリスタンの目の前を飛翔嘴魚フライングビルフィッシュが横切った。そして、頭をかすめようとした胸鰭をとっさに屈んで避ける。


 やがて飛翔嘴魚フライングビルフィッシュの最後の1匹が飛び去ると船上は静かになった。しばらくの間、耳に入るのは波の音と船が軋む音ばかりである。


 しかし、すぐに船員の怒鳴り声が船のあちこちから聞こえてきた。誰もが船の状態を確認しようとする。


 船首側にいたユウとトリスタンは甲板に座ってその様子を呆然と見ていたが、船尾側にエリセオの姿を見つけると立ち上がった。少しふらつきながらも近寄っていく。


「ユウ、トリスタン、無事だったっすか!?」


「何とか。僕は無傷だよ。かなり驚いたけど」


「俺も怪我はしていない。あのでっかい魚にぶつかりかけたが」


「いきなり突っ込んで来たから驚いたっすよ」


 冒険者3人がとりあえず無事だったことに全員が胸をなで下ろした。前触れもなく突っ込んで来たので、最初の方であの突撃が当たらなかったのは幸運だったと口々に言う。


 そこへディエゴがやって来る。


「生きていたか」


「どうにかですけど。それより、船員で怪我をした人はいますか?」


「いや、大半が船内にいたから全員無事だ。それより、今から帆とロープの点検をする。お前たちも手伝え」


「俺たち、船の専門知識はないぞ?」


「力仕事だ。一斉に点検するから人手が足りん。担当者に言われた通りに引っぱればいいから、お前たちも参加するんだ」


「わかったっす」


 作業の内容に納得したユウたち3人はディエゴの指示に従って各担当者の元に送られた。最初はぼんやりと立っていた3人だが、途中からはひたすら縄を引っぱる作業に従事することになる。たまに風のせいで引きずられたり波の揺れで横に振られたりしては必死に支える。


 各種器具の点検の結果、破損している箇所はなかった。それに船長一同心底安心する。


 点検作業を手伝ったユウたち3人も胸をなで下ろした。わけもわからずに襲ってきては去って行く魔物にやられるなどたまったものではない。


 こうして、海の魔物の来襲は終わった。

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