風のない日

 6日間の休暇が終わった。『自由の貴婦人』号の左舷は一応修復される。修理した場所だけ木材が新しいので直したことが誰の目にも明らかだ。次いで船員の募集だが、これは希望人数の半分が集まる。今後は各港町で随時募集をかけると船長のアニバルが漏らしていた。


 航海ができるまでに復帰した『自由の貴婦人』号にユウ、トリスタン、エリセオの3人が出港前日に戻る。充分に休んだので全員元気いっぱいだ。傷が治ったユウもこれから仕事に復帰である。


 そうして出発当日の朝、港を離れるために船員共々ユウたち3人も船の中を駆け回った。波の揺れもほとんどないので穏やかな出発を想像する。


 いよいよ準備が整うと、ユウたち3人はディエゴと共に車地キャプスタンへと取り付いた。アニバルの号令で後は回すだけだ。


 突き出た長い棒に体を預けたトリスタンが口を開く。


「ついに出港かぁ。また2週間くらい船の上なんだよな」


「しかも大角の山脈の東端ときたもんだ」


「ディエゴ、何かあるのか?」


「あそこは魔物がよく出るんだよ。特に歌人鳥セイレーンには気を付けないとな」


「あの歌って人間を惑わせる鳥もどきだっけ?」


「そうだ。耳栓があれば平気なんだが、ないと抵抗できない厄介なヤツなんだよ」


「しかも飛んでいるから弓矢でないと攻撃できないんだったか。来てほしくないなぁ」


 号令を待っている者同士でこれから先の危険について話し合っていた。


 一方、ユウはエリセオと柑橘類について話をしている。


「そういえば、昨日トリスタンから柑橘類のゼッカとダーシュを食ってるって聞いたっすけど、マジっすか?」


「本当だよ。昨日市場で買ってきたものが背嚢はいのうの中に入っているし」


「あれってめっちゃ酸っぱいやつじゃないっすか。よく口の中に入れられるっすね」


「一口目は本当に耐えがたい酸っぱさだけど、何回か食べていると慣れてくるよ」


「慣れるまで食べたいとは思わないっすよ。あれで本当に船乗り病に罹らないんっすか?」


「そう聞いたんだけど」


「誰っすか?」


「酒場で会った水夫のおじいさんだよ」


「怪しいっすねぇ。与太話じゃないっすか?」


「でも、僕は今何ともないし、効いているんじゃないかな」


「オレは柑橘類を食べないっすけど、船乗り病になったことはないっすよ」


 詳しい原理までは知らないユウは口ごもった。確かにあの老水夫は酔っ払っていたが、たくさんしてくれた助言の中には正しかったものもある。なので、この柑橘類の話も信じられると考えていた。しかし、懐疑的なエリセオを翻意させるだけの言葉を持たないので今は黙るしかない。


 船長からの号令がかかるまでのんびりと続けた。しかし、いつまで経っても号令がかからない。最初に気付いたのはディエゴである。


「船長、遅いな。ああそうか、風がないからか」


「風? あ、確か帆船ってそうでしたね」


「ガレー船みたいに漕ぎ手がいたら進めるんだけどな。ただ、あれは漕ぎ手になると無茶苦茶つらいが」


「これ、風が吹かないままだとどうなるんです?」


「出発できないな」


「ということは、海の真ん中でも風が吹かなかったら動けなくなるんですよね?」


「そうだぞ。だから、何としても風は吹いてもらわないといけないんだ」


 ディエゴに教えてもらったユウは半ば呆然とした。帆船は風を受けて動くものだと知っていたが、風がないと動かないというのは盲点だったのだ。そうして改めて港に泊まる船に目を向けても確かに動いている帆船はない。


 その後もしばらく待ち続けたユウたちだったが、結局出港延期という連絡が届いた。一部の船員を除いて各自風が吹くまで他の作業をすることになる。


 冒険者であるユウたちも別の作業をすることになった。とりあえずは甲板の掃除である。先の戦いの汚れが落ちきっていないので3人でひたすら磨き続けた。どのみち出港してからやる作業だったので当人たちも淡々としたものだ。


 昼が近づいてくるとカミロが近寄ってきた。そうしてユウに声をかける。


「ユウ、フィデルの所へ行け。あいつが呼んでるぞ」


「わかりました」


 甲板掃除を途中で抜けたユウは調理場へと向かった。そこでフィデルの指示に従って炊事の作業を進める。倉庫から樽と木箱を持ちだして、今回は塩漬けの肉を均等に切った。


 昼食が終わっても風はほとんど吹かないままだ。正確には無風ではないという程度にはそよいでいるのだが、船を動かすほどではないようで現状維持である。


 結局、五の刻の鐘が鳴る頃にアニバルから本日の出港は中止という指示が下された。


 器具を磨いていた途中でその命令を聞いたユウはため息をつく。


「今日はもう出港しないんですね。これだったらまた町に行きたがる人もいるんじゃないかな?」


「そうだな。俺はもう面倒だから、下船してもいいって言われてもこのまま船にいるが」


「オレはまた酒場に行きたいっすねぇ!」


 手にしている大きめの器具を磨きながらエリセオが明るく答えた。


 5月の半ばになるとこの辺りの日没は七の刻に近くなる。つまり、五の刻辺りからだとまだまだ日中の時間は長い。そこでこういう港から出港できない場合、『自由の貴婦人』号では六の刻から下船が許可される慣わしがあった。


 これに喜んだ約半数の船員とエリセオが勇んで町の酒場へと向かう。一方、船に残った者たちは仕事を終えて自由時間となっていた。


 炊事の作業を終えたユウもこの日は仕事から解放され、何をしようかと考えながら甲板に出る。すると、トリスタンに声をかけられた。近づいてくる相棒に顔を向ける。


「どうしたの?」


戦斧バトルアックスの使い方について教えてくれないか? 前に一応教えてもらったが、海賊と戦ったときに気になったことがあってな」


「良いよ。それなら休暇中に聞いてくれても良かったのに」


「休みだからな。それに、今回はお前の怪我のこともあって模擬試合もしなかったから」


「なるほど」


 相棒なりに気を遣ってくれていたことをユウは知った。それを内心で喜ぶ。


 お互いに倉庫から戦斧バトルアックスを持ち出すと、2人は閑散とした甲板に出た。さすがに六の刻を過ぎると空は朱くなり始めているが、それでもまだ明るい。


 船員が1人も見当たらない中で、ユウはトリスタンと向き合う。


「それで、気になることってどんなことなの?」


「ちょっと言葉にしづらいことだから動いてみるぞ。敵がこうやって斬りかかってきたときに、俺は右側に避けたんだが」


 動きを交えながら説明するトリスタンの姿をユウは真剣に見つめた。最初の頃に比べて揺れる甲板の上でも安定感が増してきている。四六時中揺れる船の中で生活してきて慣れたのだ。それはユウにも同じことが言える。


 一通り見た後、次にユウがトリスタンの疑問に対して答えた。まず、自分だったらどうするかを伝えて、その上でトリスタンにできることとできないことを聞きながら対処法を一緒に組み立てていく。その過程で更に疑問が出てきたら、その都度答えた。たまにユウ自身が模範を示してトリスタンにそれをなぞらせることもする。


 この教え方はいずれも先輩や師匠から教わったときのやり方だ。そして、何度も繰り返してもらい、自分も繰り返した方法論である。だから教え方に迷いはない。


 相棒からの質問をすべて聞き終えたとき、日は大きく傾いていた。周囲は朱色から黒色へと染まりつつある。


「次は何が知りたいの?」


「いや、これで全部だ。助かったよ、ユウ」


「それは良かった。あ~、汗かいているなぁ。結構動いたから」


「傷は平気なのか?」


「もう大丈夫だよ。手拭いでこすっても痛くないし」


「よし、それじゃそろそろ中に戻るか」


 背伸びをしたトリスタンがユウに提案した。明日も早いので早めに寝るのは悪くない。


 甲板の上を2人並んで歩き始めたとき、桟橋から船に乗り込んできた人影があった。ディエゴである。


「ユウにトリスタンじゃねぇか。何してるんだ?」


「トリスタンに戦斧バトルアックスの使い方を教えていたんです。前の海賊との戦いでわからないことがあったそうなんで」


「マジメだねぇ! で、解決はしたのか?」


「おう、もうわからないところはないぜ!」


「そりゃ結構なこった! 今度オレにも教えてくれよ、ユウ」


「いいですよ。いつでも言ってください」


「よし、約束だぞ、ははは!」


 酒の臭いを漂わせたディエゴが片手を上げて先を歩いた。そのまま扉の奥へと消える。


 それに続いてユウとトリスタンも船内に入った。あのきつい悪臭も今はあまり気にならない。


 この後も『自由の貴婦人』号には町の酒場からぱらぱらと船員が戻ってくる。ディエゴのように1人静かに帰って来る者もいれば、仲間と大声で歌いながら戻って来る者たちもいた。幸い、誤って板を踏み外して海に落ちた船員はいない。


 こうして、風の吹かない1日が終わった。

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