船の上での作業
停泊していた港から動き始めた『自由の貴婦人』号がゆっくりと海の上を進んでゆく。船は波に合わせて上下に揺れた。とはいっても、その揺れは大きくない。船乗りからすればいつも通りの海だ。
最初は真東だった進路はしばらくすると北東へと向けられた。それに合わせて青空に浮かぶ朝日の位置が少しずつずれていく。海鳥の鳴く声が近くから聞こえてきた。
実に気持ちの良い朝と言えるだろう。風が少し強く感じられるかもしれないが、季節は春なので寒くはない。
そんな航海日和の下、ユウ、トリスタン、エリセオの3人はデッキブラシを動かして甲板をこすっていた。海水をぶちまけて水に濡れた部分を端から順番にきれいにしてゆく。
「しっかり磨くんだぞ」
3人の背後にはカミロが立っていた。揺れる甲板上で微動だにしない。作業をしているユウたちの方がやや不安定なくらいだ。
他の船員はそれぞれ持ち場について仕事をしている。操舵輪を操る者、船尾楼甲板で周囲を見張る者、帆を操る者など、出港直前のような騒がしさはないが、その態度は真剣だ。
動き回るにはあまり広くない『自由の貴婦人』号だが、掃除をするとなると途端に広く感じるのだから不思議かもしれない。しかし、のんきにそんなことを考えている者はユウたち3人の中にはいなかった。
甲板の半分ほどをデッキブラシで磨き終わった頃、カミロがユウに声をかける。
「ユウ、さっき磨いた所がまた汚れているぞ」
「え? あれ?」
指摘されたユウは以前磨いた甲板に足跡型の汚れが点在しているのを目にした。そういえば、磨いた後に船員の誰かが通って行ったことを思い出す。ため息をついてからそこまで赴き、デッキブラシで磨いた。簡単に汚れが落ちてくれたのが幸いだ。
他の船員が通りかかる度に磨き直しをしつつ、ユウたち3人は何とか甲板をきれいに磨き上げた。ようやく終わったと一息ついたところでカミロから声をかけられる。
「よし、それじゃ水で洗い流せ。落ちるんじゃないぞ」
新たな指示を受けたユウたち3人は紐の付いた桶を手に
どうにか海水の入った桶をたぐり寄せた3人は慎重にそれを持ちながら揺れる船上を歩く。そして、思った場所で甲板にぶちまけた。文字通り汚れが洗い流されてゆく。これを何度か繰り返してようやく甲板の掃除を終えた。
航海の初日、まだ昼にもなっていないがトリスタンとエリセオの顔には早くも疲労の色が表れてきている。ユウは平気だったが、去年冒険者ギルドの老職員に鍛えてもらったときのことを思い出した。
一旦休憩となり、3人はカミロの元で休む。甲板は濡れていて座れず、舷は海に転落しそうで落ち着けないのが困ったところだ。
そんな3人の様子を見ながらカミロが口を開く。
「よくやった。このくらいでいいぞ。ユウ、トリスタン、これからもこの調子で掃除をするんだ。エリセオ、お前は前に別の船に乗ったことがあるんだよな? その割にはへばってるようだが」
「前の船だと甲板に倒れていたっすよ。これでもましになってるんす」
「そうか。まぁ、何度も繰り返してやってれば、そのうち体も鍛えられるだろう」
「航海が始まったんすから、もうそんなに汚れないっすよね。泥が入ってくることもないんすから」
「はは、何を言ってるんだ。磨く場所なんていくらでもあるに決まってるだろう」
「うへぇ」
嫌そうな顔をしたエリセオが肩を落とした。
そんな冒険者の様子を気にすることもなく、カミロが話を続ける。
「しばらく休憩したら今度は道具を磨いてもらう予定だが、この中で料理ができるヤツはいるか? そんな手の込んだものじゃなくてもいい」
「ユウは確かできたよな?」
「貧民の家で作るような料理だけど。酒場とか食堂とかで出せるような代物じゃないよ」
「おお、ユウはできるんだな? 安心しろ、ここは船の上だ。とりあえず食えればいい」
トリスタンが推薦する形になってユウがカミロの目にとまった。一応予防線を張った上で先輩船員の次の言葉を待つ。
「実はな、飯担当のフィデルから力仕事ができて料理もできるヤツを寄越してほしいと頼まれているんだ。それで、3人の中から1人にそっちへ行ってもらおうと思ってるんだよ」
「あれ? この船ってかまどってありましたっけ?」
「いやないぞ。ああそうか、この船の上での料理っていうのは、日持ちする食い物を切り分けて船員に均等に配ることを言うんだ。本当に料理をするわけじゃない」
「なるほど、それで、力仕事っていうのは何ですか?」
「毎食船員全員に飯を配るんだ。飯の量も結構な量になるからな。倉庫から必要な物を取り出すのも楽じゃないんだよ」
事情を知ったユウはそれなら別に料理ができなくても良いような気がした。しかし、反論するほどのことではないので黙っておく。
休憩が終わると、トリスタンとエリセオはカミロに率いられて貨物倉へと入っていった。一方、ユウは指示された通り船尾楼甲板室に入る。その中の比較的狭い調理場に向かった。船内に入ると船特有の悪臭がするが、その部屋の近辺はまた別の独特な臭いが立ちこめている。
調理場の扉は開いていたのでユウが中を覗くと、ぎょろ目の体が小さい男が板の上で塩の塊を切り分けていた。相手は気付いていない様子なのでユウから声をかける。
「カミロからここへ来るように言われたんですけど、フィデルは何をしているんですか?」
「見ればわかるだろ、料理をしてるんだ」
手にしていた塩の塊を切り終えたフィデルがユウへと振り向いた。不満そうなあるいは怯えているような表情を見せる。
塩の塊の断面を見たユウはそれが塩漬けの肉であることに気付いた。そこまで塩をすり込んでいるとは思わなかっただけに目を見開く。
「料理はしたことあるの?」
「船の料理っていうのはしたことないです。でも、貧民の家で作るような料理をしたことはありますから、食べ物を切ったり煮炊きすることならできますよ」
「ここじゃ火はないから煮炊きはしないよ。それより、肉や魚を均等に切れる?」
「大体は」
「それじゃ困るんだ。船乗りは気性が荒いからね。少しでも不満があったら遠慮なく言ってくるし、殴りかかってくるヤツもいるから」
「あ、はい」
「その辺はこれから教えるからいいよ。それより、倉庫から肉の塩漬けの樽を運びたいから手伝ってよ。足りると思ったんだけどちょっと足りなかったんだよね」
「わかりました」
揺れる船内で話に区切りが付くと、ユウはフィデルに続いた。
倉庫には船員のための食料が積み込まれており、そこのは塩漬け肉の樽の他にもビスケットの入った木箱やワインの入った樽などがある。倉庫の片隅にはユウたち3人の荷物もまとめてあるのがわずかに見えた。
その中の樽の1つの前に立ったフィデルがユウに振り向く。
「これだよ。1人で担げるならぼくは楽なんだけど」
「担げてもあの通路は狭いんで通れないですよ。2人で持ちましょう」
「仕方ないか」
小さくため息をついたフィデルが樽の上の部分を手にかけてある程度斜めに傾けた。船内の揺れを利用したようで簡単に傾けたように見えた。
樽の底に手をかけられるようになったユウは両手で抱えて持ち上げる。転がせれば楽なのだが、調理場までの道のりは平坦ではないのでそうもいかない。
なかなかの重さの樽を2人がかりで調理場まで運ぶと床に降ろした。手を払って痺れを紛らわせているユウの横で、フィデルがナイフを持ちだして樽の上面を器用に開けてゆく。すると、真っ白い塩が見えた。
何とも言えない表情のユウが若干戸惑いながら感想を漏らす。
「塩しかないように見えますね」
「まぁね。この中から肉を取り出して均等に切り分けるんだ。それが終わったらあっちの樽に入れ直すから。昼になったらみんなに切り分けた肉を一塊ずつ渡していくよ」
「はい」
「昼時までに作業を終わらせないといけないから、今回はぼくがやる。夕方は一緒に肉を切ってもらうよ。だから今からビスケットの木箱を持ってきて」
「わかりました」
食事は塩漬け肉だけではないことをユウは思いだした。塩の詰まった樽の中から肉を取りだしたフィデルが再び均等に切り分け始めたのを見て、倉庫へと向かう。
何となくとっつきにくい印象がするフィデルだったが、ユウは故郷でスープの料理人になった友人のことを思い出した。出会った頃と似ている印象がある。
一緒に作業をしているうちに仲良くなれるかもしれないと期待しながら、ユウは倉庫の木箱を1つ持ち上げた。
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