悪臭は洗い落とせるか?

 下水路から解放された翌日、ユウは宿の個室で三の刻の鐘がなる頃まで寝台で横になっていた。夜勤明け以外では珍しい。


 前日までと違って急いでやることはない。残務処理はあるが急用の件はもうないのだ。後は旅に出るための準備をゆっくりとするだけである。


 そうなると何をやるかだが、これについては実のところユウはもう決めていた。衣服の洗濯と道具の洗浄だ。他にも体の拭き取りもある。


「さぁ、悪臭を拭き取るぞ、完全に!」


 決意も新たにユウは宿主と交渉した。洗濯桶を借り、桶一杯の水を買うのである。近日ミネルゴ市を出るので臭いを消し去りたいと説明すると納得してくれた。その際、王都を離れる人の中にはユウのように洗濯と洗浄をする者も珍しくないことを教えてもらう。ただし、完全にきれいにしたいなら店に頼むべきだとも忠告された。


 ユウは少し迷ったが灰汁あく入りの水も売っていると聞いて迷わず買う。丸1日の作業が決まった瞬間である。


 水を買ったユウが最初に洗ったのは自分の体だ。手拭いを水にひたし、軽く絞ってから体を拭く。たくさんの垢が取れて肌がきれいになっていった。引き替えに水はかなり濁る。体の隅々まで拭き終わると自分の体に鼻を付けて嗅いでみた。しかし、臭いが取れているのかわからない。水の濁りを見るときれいになっているのは確かだが、臭いに関しては最後まで確信が持てなかった。その後、ミネルゴ市にやって来るまで着ていた服を着る。随分と新鮮だった。


 次に洗ったのは城外神殿から借りた服だ。桶の水を新たに替えて洗濯する。洗濯桶に服を入れ灰汁あく入り水を流し込んで後はひたすら手洗いだ。重労働ではあるが、前の町で散々やったことなので慣れたものである。


 服の次は下水路に持ち込んだ武具と道具だ。これについては、布を灰汁あく入りの水にひたして絞り、1つずつひたすらきれいに磨く。汚れが落ちるのは見た目でも水の濁りからでも判別できるが、臭いについてはやはりよくわからなかった。


 こうして、旅の準備1日目は洗濯と洗浄で終わる。最終的に臭いが落ちたかどうかは人に尋ねることにした。




 翌日も三の刻頃に起きたユウは旅の準備を続ける。今朝は最初に荷物の整理に手を付けた。下水路に入っていたときは荷物を最小限にするため選り分けていたが、再び荷物を1つにまとめるためである。


 とはいっても、これ自体は大した作業ではない。下水路に持ち込んでいた道具を背嚢はいのうに戻すだけだ。目的はむしろ不足している消耗品の確認である。


「水に干し肉、松明たいまつの油、それに虫除けの水薬か。薬もまだ傷んでなさそうだし、これくらいかな」


 荷物の点検が終わると、ユウは城外の工房街へと向かった。冒険者ギルド南西派出所側の宿に泊まっているので本部側の街は遠いが、手に入れる品物の品質を考えると妥協できない。特に薬関係は近場の貧民の市場では納得できないのだ。


 幸い、もうすぐ冬という時期なので体を動かしても暖かいだけである。充分な休息で体力の回復した体にはちょうど良い運動だとユウは思うことにした。実際、ミネルゴ市の外周はなかなか広いのだ。


 城外の工房街で買った品物を麻袋に詰め込んだユウは次いで城外支所本部へと立ち寄った。列に並んで順番待ちをした後、受付カウンターで何度か話をしたことがある受付係に声をかける。


「次の方どうぞ。おや、あんたは確か、前に捜索の依頼を引き受けたよな」


「ええ、今日はその依頼書を返しにきました」


「殺人の容疑者の捜索、あー、あったな。もういいのか?」


「はい、解決したので」


「なるほどな、わかった。受け取ろう」


「それと、こちらにアディの町から来ているウィンストンさんという職員がいると思うんですが、伝言をお願いできますか」


「どんな伝言だ?」


「今日の五の刻頃に会いに行くと」


「わかった。伝えておこう」


 用件を済ませるとユウは踵を返して受付カウンターから離れた。建物から出ると貧民の道で立ち止まる。わずかな間、そのまま考え込んだ。


 再び歩き始めたとき、ユウはミネルゴ市の東側へと足を向ける。相変わらず拡張工事現場では盛んに工事をしていた。往来する職人や人足の数も増えたように見える。ただ、外から見た様子では先月とあまり変わりないように思えた。




 五の刻の鐘がミネルゴ市一帯に鳴り響いた。城内にあまねく鐘の音を行き渡らせようとすると、必然的に城外にも鐘が聞こえるようになる。


 冒険者ギルド城外支所本部の前でユウはその鐘の音を聞いていた。貧民の道を往来する人々の邪魔にならないよう壁際で立っている。


 そのユウにくすんだ金髪のそばかすが目立つ顔をした青年が近づいて来た。気付いたユウが声を上げる。


「トリスタン! 大体時間通りだね」


「今日はうまくいったな。それで、これからウィンストンさんに会いに行くんだろう」


「そうだよ。ところで、昨日体と道具を洗ったんだけど、下水路の臭いはまだするかな?」


「ええ? いやどうかな。この辺ってあの悪臭が結構するからわからないな」


「あー、そうだったね。かなりしっかり洗ったんだけど自信なくて」


「この辺りじゃわからないだろうな。それより、早く中に入ろうぜ」


「うん」


 回答をもらえなかったユウは少し肩を落とした。しかし、気を取り直してトリスタンと共に城外支所本部の中に入る。すると、壁際で立っている老職員の姿をすぐに見つけた。


 近づいてユウが声をかける。


「ウィンストンさん、こんにちは」


「おう、来たか。こっちからも連絡しようと思ってたところだったからちょうどいい。どうせだ、あっちの打合せ室ってのを使おうか」


「なんだか普通に話をするって感じですね」


「もう秘密にしなきゃいけねぇこともあんまりねぇしな」


 挨拶を交わした3人はウィンストンを先頭に打合せ室へと入った。城外支所本部の南西部分一角にあり、床と天井の半ば辺りまで木の板で仕切られた打合せ室がいくつもある。


 その中で使われていない小さい部屋に3人は入った。木製のテーブル1台に木製の丸椅子が6つあるのみだ。


 全員が丸椅子に座るとウィンストンが口を開く。


「さて、今回の捕り物に協力してくれて儂から礼を言わせてもらおう。密輸で使われている下水路内の経路は調べるのにかなり時間がかかると思っていたから、お前さんらがその情報を教えてくれたのはかなり助かった」


「城外神殿の依頼を引き受けたときは、こんなことになるなんて思ってもいませんでした。別に無理して探さなくても良いって言われていましたから、年内いっぱい下水路の中をうろついて終わりかなって思っていたんですよ」


「俺なんて、害獣駆除に失敗したところをユウに助けてもらって、そのまま一緒に仕事をしただけだしな」


 意図せず関わることになったユウとトリスタンはお互いに顔を見合わせて苦笑いした。


 そんな2人の様子を見ていたウィンストンが懐から小さな革袋2つを取り出してテーブルに置く。


「これが今回お前さんらに対する報酬だ。役に立った分は礼をしないとな」


「うぉ、これはもしかして金貨!?」


 革袋の中を覗いたトリスタンが金色に輝く貨幣に瞠目した。中に入っているのは2枚だけだがその存在感は圧倒的だ。


 同じように金貨を確認したユウはウィンストンに顔を向ける。


「もしかして、サイモンの捕縛だけじゃなく、秘密の出入口の情報なんかも評価されたんですか?」


「そんなところだ。押収した不正蓄財から出してるから気前がいいだけさ」


「元の財布の持ち主なんて気にしませんよ!」


 とても貴族とは思えないにやけ顔でトリスタンがうなずいた。大切そうに金貨が入った革袋を懐に入れる。とても幸せそうな雰囲気だ。


 苦笑しながらトリスタンを眺めていたウィンストンがユウに顔を向ける。


「そうだ、お前さんの都合が付けばなんだが、日を改めて最後にメシでも一緒に食わんか? 送別会みたいなもんを開いてやろうと思ってるんだが」


「本当ですか! ありがとうございます!」


「トリスタン、お前さんも来るか?」


「もちろん行きますよ! 絶対に予定を空けます!」


 革袋から手を離したトリスタンが勢い良くうなずいた。今なら見えない尻尾を振っているところを幻視できるくらいの勢いである。


「よし、だったら後でまた知らせる。宿はまだ変えてねぇんだよな?」


「僕は前と同じですよ」


「俺も一緒です! いつでもどうぞ!」


「わかったわかった。それじゃ後は、ああそうだ、まだ確定してない部分もあるが、あの件のその後どうなったか少し話してやろうか。自分が関わった件の顛末は気になるだろう?」


 ウィンストンから新しい話題を向けられたユウとトリスタンはどちらもうなずいた。そこからまた別の話題が始まる。


 2人は事件のその後の話に耳を傾けた。

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