最初の仕事(中)

 旅人の宿屋街の北部から西側へと進めば貧民の歓楽街へと入ることができる。ここは酒精と吐瀉物の臭いが強い。基本的には貧民街の者たちが通う場所だ。そこへよそからやって来た旅人たちが加わり、冒険者の歓楽街とは異なる雰囲気を醸し出していた。


 そんな貧民の歓楽街は大きく3つの地区に分かれている。


 1つ目は安酒場が集まる場所で、貧民の道に面した一帯に店舗だ。ここには貧民の中でも駆け出しの冒険者、1階を活動の場所にしている冒険者、町の中で働く労働者が集まり、そこに旅人も混じる。


 2つ目は安食堂が集まる場所で、安酒場の南側かつ貧民の市場の東側に店舗が集中していた。ここもやはり貧民が中心で、貧民の市場の関係者、旅人の宿屋街の使用人、その他貧民街の人々もやって来ている。


 3つ目は安娼館が集まる場所で、安酒場の南側かつ旅人の宿屋街の西側に店舗が集中していた。ここは貧民と旅人の男たちが欲望を吐き出すために訪れる場所だ。


 このように貧民の歓楽街は貧民と旅人の憩いの場として、朝の仕事前、昼の休み時、夕の仕事後、そして夜の遊び時と1日の大半は何かしら誰かしらで賑わっていた。


 その場へとユウは足を踏み込んだ。最初に入ったのは安娼館が集まる場所である。かつてアディの町に来たばかりの頃に迷い込んでいたたまれない気持ちになった曰くのある所だ。


 そうはいっても避けるわけにはいかない。両脇には所狭しと平屋の安娼館が並んでいる路地をユウは歩く。夜ならば多数の客引きや娼婦たちが行き交う人々を誘うのだろうが、昼間の今は閑散としていた。たまに店の前の掃除をしている男女を視界に収めながら進む。


「ここは何もないよね」


 半ば決めつけるようにユウはつぶやいた。仕事関係で何かあればここへ足を向けなければならないのだが、どうにも苦手意識が拭えない。


 途中の路地を北に向かって曲がり進むと、すぐに路地の両脇の店が安娼館から安酒場へと変わる。吐瀉物などの臭いが鼻をつくが今のユウにとっては安心できる香りだ。


 この辺りにはあまり来たことがないユウだったが雰囲気は見知ったものである。なので初めての場所でも物怖じせずに済んだ。


 四の刻の鐘が鳴った。しばらくすると路地に人が増えてくる。先日までたまに来ていた安酒場『ふらつく熊亭』の前を通り過ぎたときに人々が次々に入っていくのを見た。


 人の流れに沿って歩くユウがぽつりとつぶやく。


「お腹は空いてきたけど、うーん」


 お腹をさすりながらもユウは小首を傾げた。あまりどこかに入って食べたいという気になれなかった。急ぐ理由もないので昼食は後回しにする。


 安酒場の集まる場所をある程度西側に進んでから南側に延びる路地へと曲がった。すると、安娼館のときと同じく両脇の店がすぐに安食堂へと変わる。同時に、人の数が一気に増えて路地が混雑した。


 緩やかな人の流れに乗りながらユウが目を白黒とさせる。


「昼間もこんなに人が多いんだ」


 さすが飯時だとユウは妙な感心をした。酒場以上に活気があることに目を見張る。


 この混雑ではあまり長居できないと考えたユウは何とかして貧民の市場へと足を向けた。人の流れに逆らうことが多かったので割と苦労する。一旦貧民の道に出るべきだったと後悔した。


 やや顔をしかめながらもユウは何とか貧民の歓楽街を抜ける。人通りがややましになってから周囲に頭を巡らせた。貧民の市場の東側特有の小さくぼろい店が乱立している。貧民の生活を支え、冒険者の道具を提供する市場に入ってきたのだ。


 不思議なもので、自分の居場所を知ると急にすえた臭いが変化していることに気付いた。場の活気も生活臭の強いものにすり替わっている。


 貧民の工房街と同じく、この貧民の市場も知っている所は知っているが知らない所は知らなかった。とりあえず、今日は知らない場所を優先するため、知っている場所は通り過ぎようとする。


 しかし、雑貨屋、防具屋、武器屋と見知った店がひしめく場所を歩いていると違和感に気付いた。ときおり様子のおかしい武具を身につけた者がいる。頬はこけ、顔に生気はなく、それでいて目は血走っているのだ。そんな者たちが亡霊のようにさまよっている。


「あんな人、先月まで見かけなかったのにな」


 周囲の人々はそんな様子のおかしい人物を避けるようにして往来していた。誰もが当たり前のように避けているということはその人物たちがどんな状態なのか知っているのだ。


 歩きながらどうしようかと考えていたユウは目を見開いた。やや急いで路地を歩く。


 周囲の様子を見るのもそこそこにユウは貧民の市場の西側へと移った。ここには荷車を利用した出店や露天商がひしめいている。店主と客の声で非常に騒々しい。貧民のための市場なので出回っている物品は怪しいものが多いものの、それでも活気があった。


 青果売り場や古道具屋の集まる場所を通り抜けたユウは屋台の集まる場所に入る。途端に空腹を思い出して腹が鳴り始めた。


 しばらく歩いたユウはやがて城外神殿に近い市場の西側にある油の臭いのする荷馬車を利用した屋台にたどり着いた。そして、串屋『肉汁のたれ串』の店主に声をかける。


「串を一本ください」


「お、兄ちゃんじゃないか! はいよ!」


 いきなり声をかけても動じることなく応じた店主に代金を支払うと串を受け取った。相変わらずとりあえず肉という味がする。これが旨いのだから不思議なものだ。


 空腹なこともあって勢いで1本を食べ終わると空の串を串入れに入れる。


「もう1本ください」


「いい食いっぷりだねぇ!」


「お腹に入るだけ食べますよ。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


「お、なんだい? 肉の作り方ってのは秘伝だからダメだぜ」


「そういうのじゃないです。最近のこの辺りについてなんですよ」


「最近のこの辺り?」


「ちょっと前までとは違って、様子のおかしい人がたまにいますよね。こう、頬はこけ、顔に生気はなく、それでいて目は血走っている人が」


 話を聞いていた店主の顔が曇った。目だけで左右を確認してユウを手招きする。


 串肉にかぶりつきながらユウは顔を近づけた。焼ける肉から湧き上がる煙のせいで良い匂いがするが煙たい。


「とうとう兄ちゃんも見たのかい」


「あ、やっぱり何か知っているんですか」


「そりゃこの辺りの連中ならみんな知ってるよ。あいつらは幸福薬をやり過ぎた奴らだ」


「あんな風になっちゃうんですか?」


「みたいだな。ワシも初めて見たときは病人かと思ったんだが、知り合いに教えてもらって知ったんだよ」


「あの人たちって大丈夫なんですか?」


「全然ダメだよ。ああなるまで続けたらおしまいらしい。自分の持ってる物を片っ端から換金して幸福薬に突っ込んで、最後は人を襲うこともあるって聞いたな」


「そんな人たちが昼間からああやって徘徊しているんですか」


「迷惑な話さ。もっとも、今のところ暴れる奴や人を襲う奴は見たことないがね」


「怖いですね」


「ああ怖いよ。こういうときこそ代行役人がさっさと取り締まってくれりゃいいのに、肝心なときはなんにもしやがらないんだから腹が立つよな」


 今はその手先となっているユウは顔を引きつらせた。いい加減煙が目にしみてきたので焼いている途中の串肉の上から顔を離す。


 一旦話を中断したユウは串肉を食べることに専念した。ある程度空腹が落ち着いたからだろうが、1本目よりも味が落ちているような気がしてくる。


 2本目の空になった串を串入れに入れたユウは串屋の店主へと向き直った。そうして少し迷ってから声をかける。


「もう1本ください」


「あいよ!」


「それと、この辺りで砂糖菓子を売ってる店って知っていますか?」


「菓子屋ならこの路地を北に進んで東に曲がった所にあるよ。ガキにでも配るのかい?」


「ええ。城外神殿の人にも余裕があったら施すように言われていたんで」


「マジメだねぇ」


 串屋の店主が感嘆の声を上げながら首を横に振った。


 すべて食べ終わったユウは串屋から離れて店主の言った通りに歩いた。確かに菓子の屋台が並んでいる。その中から適当な店を選んで鉄貨20枚分の豆のような形をした砂糖菓子を手に入れた。


 それからふと思い立ち、ユウは質屋と買取屋を遠目に眺める。この界隈は相変わらず静かだが、それだけに挙動不審な者が出入りしているのが目立った。イアンの質屋やランドンの買取屋も同様である。


 特にランドンの方は様子のおかしいエディーと何かをやり取りしているのを見かけて驚いた。しかし、エディーが金銭を渡したのは見えたが、ランドンから何を受け取ったのかはよくわからないままだ。


 怪しむユウであったが今は近づくことを禁じられている。なので、眉をひそめながらもその場を離れた。

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