第2章 迷走期間

安定した日々

 一の刻の鐘の音が鳴り終わってしばらくすると、貧民街の不潔な一角にある粗末な木造の掘っ立て小屋から松明たいまつを持った少年が出てきた。黒目黒髪が珍しい以外は、衣服は汚れたチュニックにズボン、それに古い革の靴とよくある貧民の姿である。


 月明かりもない真っ暗な夜の貧民街を少年は慣れた様子で西へと走った。市場との境界に出ると北へと曲がる。次いで貧者の道を北東に向かって走り、安酒場街に到達すると南東へと足を向けた。人影のない場所を軽快に走ってゆく。


 少年の日課だ。毎週6日早朝になると二の刻まで走る。速度は基本緩めで朝からの仕事に影響がないように、しかし体力が向上するように調整していた。


 日課なので、少年にはどのくらい走ればどのくらい時間がかかるか体感でわかっている。鐘の音が鳴る前後には自宅に帰ることも珍しくない。


「ただいま」


「ユウ、おかえりー!」


 肩で乱雑に髪を切りそろえた幼い少女エラが大きな薄い青色の目を向けてきた。台所で鍋の中身をかき混ぜているその隣で、赤っぽい茶髪の幼い少年チャドが火加減を見ている。


 室内は寝起き直後の騒乱に見舞われていた。床に敷き詰められていた寝台代わりの平たい麻袋とシーツ代わりのぼろ布を仲間が部屋の奥に積み上げ、長机2台を正方形になるようしつらえている。


 日の出前の暗い中、設えられた長机の周りに置いた丸椅子に座った面々は朝食前の雑談にふけった。長机の中央には、少し小柄な体つきの寡黙な少年ケントが用意した蝋燭ろうそくが嫌な臭いを広げながら明るく揺らめいている。


 汚れた手拭いで顔の汗を拭き取ったユウもその輪に入った。この家の家主であり仲間全体のまとめ役の中年アルフが禿げつつある頭部をユウに向ける。


「毎日精が出るね。去年から続けているんだろう? かなり体力が付いたんじゃないか?」


「付きましたよ。雨が降る日以外はずっと走ってますからね」


「松明が使えないんじゃ、暗くて何も見えないからねぇ」


 何度もうなずきながらアルフが言葉を返した。


 年間を通して曇り空の多いアドヴェントの町のある地方だが、実のところ雨はあまり降らない。しかし、雨天時は松明が使えないので休むしかなかった。


 横から生意気そうな顔をした少年ダニーが口を挟む。


「雨の日は素振りでもしてればいいだろ。俺なんて毎日やってるからな!」


「知ってる。僕が棍棒を振る目の前でいつも剣を振ってるじゃないか」


「へへ、やっぱり剣はいいよな! 棍棒と違って冒険者っぽいし!」


「棍棒だって悪くないよ。獣の森でちゃんと役に立ってるんだし」


「そうなんだけどよぉ、やっぱ冒険者っつったら剣だろ?」


 剣と冒険者の話になると頬が緩むダニーがにやにやとしながらユウに言い返した。冒険者に強く憧れており、友人と熱心に冒険者に関する活動をしている。


 そんなダニーに少し呆れた目を向けてから、浅黒い肌の細く背が高い青年ニックがユウに顔を向けた。白っぽい茶髪を手で掻きながらユウに声をかける。


「けど実際、ユウはかなり戦えるようになったよな。体力や筋力が付いたってだけじゃなくてさ」


「ニックに戦い方を教えてもらったからですよ。悪臭玉を使ったあれなんて凶悪ですけど」


「まぁ喧嘩の応用みたいなのもあるから過信されると困るけど、棍棒だけじゃなくてナイフの使い方も知っておいた方がいいだろうって思ってな。さすがに弓まで触りたいって言われたときは驚いたけど」


「いやだって、今後も使わなさそうですけど、1回くらいは撃ちたいじゃないですか」


「射るだ。棍棒を叩き込むみたいに言わないでくれ」


 肩をすくめて首を横に振るニックに長机を囲む仲間が笑った。


 笑いが収まるとダニーがニックへと話しかける。


「ニックってたまにテリーと会ってるんだろ? 何を話してんだよ?」


「お互いの近況だよ。俺とあいつはほぼ同時にここへ来たから仲が良かったんだ」


「だったら、冒険者の話なんかも聞いてんのか!?」


「そりゃもちろん、テリーは冒険者だからな。自然とそうなる」


「いいなぁ。あ、だったら何か聞かせてくれよ!」


「お前本当に好きだな。友達と散々調べ回ってるんじゃなかったのか?」


「だからこれも情報収集の一環なんだよ。後であいつらに教えてやるんだ」


 ため息をつくニックに対してダニーが嬉しそうに胸を張った。


 そこへ台所にいるエラから声がかかる。同時にニックとケントの2人が立ち上がって鍋を長机に移した。そうして朝食が始まる。


 何度目かのお代わりの後、空腹が満たされてくると雑談が増えてきた。


 それぞれが話を楽しむ中、やや戦の細いそばかすのある顔をしたマークがユウに声をかける。


「ちょっとお願いがあるんですけど、いいですか?」


「何かな?」


「ビリーに文字を教えているじゃないですか。あれ、僕にも教えてもらえません?」


「マークに? 急にどうしたの?」


「実は最近行商をしたいと思うようになったんですよ。ですから、文字と算術を覚えたいなって思いまして」


 照れるような、それでいて窺うような顔をマークはユウに向けていた。普段あまり自己主張するところを見ないだけに珍しい。


 その珍しさから少し幼い顔立ちの小柄な少年ビリーが反応を示す。


「おや、興味深い話をしてるじゃないの。マークも勉強会に参加するの?」


「あーまだユウの許可をもらってませんが」


「どうするのさ、ユウ?」


「いやどうするって言われても、別に断る理由はないし」


「本当!? ありがとう!」


「で、マークはユウに何をしてあげるのかな?」


「え? 何をって」


「僕の場合は薬草や薬のことをユウに教える形で授業料を支払ってるんだ。さすがに一方的に教えてもらうのは悪いし。マークはどうするの?」


 一度喜んだマークの顔から表情が抜けた。長らく宿の雑用をしていただけで提供できるものはない。唯一金銭で対価を支払う方法があるものの、行商の元手を貯めるためにもその手段は簡単に取れなかった。


 見ていてかわいそうなくらい意気消沈しているマークにユウが話しかける。


「いや別にそこまで厳密な対価はいらないよ。困ったときに助けてくれたら」


「そ、それでよければ」


「もっときちんとしたものにするべきだと思うな。文字と算術を教えるって本当は結構な授業料を取れるんだし。それに、だったら僕が真面目に対価を支払っているのがバカみたいじゃないか」


 意外にも強硬なビリーにユウとマークは目を白黒させた。言っていることは正しいが、仲間内でそこまで厳密にするものなのかとユウは内心で首をかしげる。


 3人の間に沈黙が降りたとき、チャドと同じ背丈の幼い少年パットが口を挟んできた。3人共その日焼けした顔に目を向ける。


「だったらユウの雑用をマークがしたらいい」


「僕の雑用?」


「そう。ユウは休んでいるときも色々とみんなを手伝うことが多い。でもそれだけ時間が取られてしまってる。マークがその肩代わりをしたらいい」


「ユウってそんなに色々とやってるの?」


 不思議そうに尋ねるビリーにパットがうなずいた。ケントほどではないにせよ、普段あまりしゃべらないパットに動揺している。


「僕はマークと1日交代で獣の森と街で働いてるけど、ユウはみんなに頼られてる。ほとんどはマークでもできるから代わりにやれば対価になる」


「自分ではあんまり意識したことがないなぁ」


「そ、それでいいんでしたら僕は構いませんよ。文字と算術を覚えないとどうにもならないですし」


「んー、いいんじゃないかな。ユウがみんなに頼られてるっていう話は事実だろうし、その雑用の時間を代わりに負担するんなら対価としても悪くないと思う」


 木の皿を前にユウ、マーク、ビリーの3人はうなずいた。それを見たパットはマークに顔を向ける。


「行商人になるなら対価はいつも気にしておかないといけない。ただ働きさせられるのは嫌だし、させられた方は必ず怒るから」


「う、うん」


 肩を落としたマークを見てからパットは食事を再開した。その後、わずかに気まずい雰囲気が3人の間に流れる。


 しかし、ユウの主導で勉強会について話し合われた。それで、文字についてはユウとビリーの2人でマークに教えることになり、算術についてはユウがビリーとマークに教えることに決まる。ビリーには教えることも勉強のうちとユウが納得させた。


 3人が話をしているうちに室内へ朝の日差しが差し込んでくる。ケントが蝋燭の火を消した。しばらくすると、ニックやダニーといった獣の森で仕事をするグループが立ち上がる。仕事の準備に取りかかるためだ。


 仲間の様子を見ていたユウもビリーと一緒に立ち上がる。腰の革のベルトへ仕事道具を取り付け始めた。今日が当番のマークも続く。


 準備が終わると、ニックのかけ声と共にユウたちは室内から出た。

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