雨の日

 新人のパットが加わって1ヵ月が過ぎた。暦は7月になり、もはや春ではなく夏である。一年を通して曇り空の多いこの地方だが、夏場は比較的晴れる日が多い。


 当初パットはチャドとエラの2人の指導で留守番組の仕事をこなした。最初は不慣れだったパットは2週間もすると先輩2人とあまり変わらない働きぶりを示す。


 留守番組の仕事を一通りできるようになったパットは、次いで獣の森での仕事を与えられた。毎週3日、ユウと1日交代でテリーたちと獣の森に向かい、薬草採取の作業をビリーの指導で少しずつ覚えている。


 一方、ユウはパットによってもたらされた時間を使って訓練の予定を大きく組み直した。獣の森へ出向く日は帰宅後から夕飯までの間に素振りをし、留守番組の外での仕事を手伝う日は朝の間に走り込みと素振りをする。


 肉体的にはあまり楽になっていないが、これで精神的にはかなり楽になった。尚、休息日は訓練しないで体を休めている。


 ちなみに、ビリーへの文字の教授は獣の森に行っていないときの夕方に移した。そして、休息日の勉強会も完全復活している。


 新しい体制がようやく馴染んできたところでユウのグループも成果が安定してきた。




 ユウたちが住むアドヴェントの町の周辺は雨がそれほど多くない。降っても小雨のことが多かった。そんな雨天時に獣の森へと向かうグループの対策はというと、ほぼ何もしないのが一般的だ。もちろん理由がある。


 一番の問題は、獣の森で薬草採取をするグループは大半が貧しいという点だ。貧民に雨をしのぐ道具や外套などおいそれと手に入れられない。贅沢品に近いのである。もちろん古着を元に外套もどきを作ったりぼろ布をまとったりすることはあるが。


 次いで、獣の森に入ると小雨の影響をほとんど受けなくなるという理由もある。木々の葉が重なり合って地面にまで雨がほとんど降ってこないのだ。その代わり、息苦しいほどに湿度は上がる。


 以上のような理由で獣の森に向かうグループは雨の日でもいつも通りに働きに出た。休むと稼ぎがないので働かざるを得ないという切実な理由もあるので、雨の日に休めるグループは少ない。


 この日は当初、霧雨のせいで辺りがうっすらとけぶっていた。この日はユウがグループに参加する番だったので、仲間と一緒に濡れ鼠となって森にたどり着く。


 雨の日で何が困ると言えば、虫除けの水薬がうまく塗れないと最初に挙げる者が多い。このときのユウたちもせっかく塗った水薬がすぐに流れ落ちていくのに顔をしかめた。こんな日はこまめに水薬を塗るしかない。


「この辺はどうかな。ビリー、ユウ、見てきてくれ」


 先頭を歩いていたテリーの言葉に2人はうなずいた。前に出て二手に分かれる。


 息苦しいほどむせかえる森の中、ユウは湿った草木をかき分けて進んだ。つい最近までビリーと一緒に採取場所の検分をしていたが、ここ何度かは1人でするようになった。


 薬草の生えそうな場所を見て回って生えているか確認していく。余程貴重なものでない限りはざっくりと見て回るような感じだ。ある程度まとまって群生していないと稼げないからである。


 たまに頭上の葉からしたたり落ちてくる雨水に顔をしかめながらもユウはテリーの元に戻った。ビリーは既に待っている。


「こっちはあんまりありませんでした。ないってわけじゃないけど」


「ということは、左手に広がっているということか。わかった。なら、あっちで作業をしよう。ビリー、案内してくれ」


「わかったよ」


 うなずいたビリーの後に他の5人が続いた。そこから薬草の採取が始まる。


 服は既にどこも湿気っていた。湿度と気温のせいで不快さが増すばかりだ。それだけではなく、薬草を掘り出したときに付いている土が湿っていて取り除きにくい。更に言えば、手にこびりついて嫌だった。


 こういった汚れは水浴びで落とすのが一番だが、境界の川が増水していると危険だ。更に付け加えると、水浴び後にずぶ濡れのまま帰宅することになるので仲間に嫌がられる。雨の日はろくでもないことが多い。


 色々と言いたいことが多い日だが、それでも作業に滞りはなかった。必要なだけ薬草を採ると麻袋に入れて立ち上がる。視界にテリーの背中が入った。


 背伸びするユウに振り返ったテリーが声をかける。


「次の場所に行くのかい?」


「はい。このまま降り続けたら、そのうち土が泥みたいになりそうで嫌ですね」


「森に入る直前に雨脚が少し強くなってたから、もしかするとこれから更に強くなるかも知れないね。そうなると、雨水が降ってくることも多くなるか」


 2人して同時に見上げた。木々の葉に覆われて空はほぼ見えない。だからこそ今は雨をほぼしのげている。しかし、雨がこれから強くなるのであればその限りではない。2人は同時に下を向いてため息をついた。


 足を動かそうとしたユウはふと気になったことをテリーに尋ねてみる。


「そういえば、ダニーの様子はどうなんですか? 剣の練習をしているんですよね」


「ああ。以前と比べたら素直なものだよ。ちゃんと戦闘講習に通って、素振りをしてってね。あの失敗を活かしてくれて嬉しいよ」


「一緒に素振りをすることがあるんですけど、一心不乱にしてますしね。あれを見ると僕も手を抜けないです」


「はは、思わぬ効果があったわけだ。叱った甲斐があったね」


「でもそうなると、いつまでも木の棒じゃ駄目なんじゃないですか?」


「本人は剣を買うまでの我慢だって思ってるようだよ」


「剣かぁ」


 冒険者を目指しているダニーにとって1つの目標だとはユウも知っていた。いつ買えるのかわからないが、当人が納得しているのなら口を挟むことではない。


 ひるがえってユウは自分について思う。冒険者を目指しているわけではないので武器を買うことは考えていない。その割に戦う訓練を熱心にしているが、これは獣の森で生き残るための対策だ。貯金は少しずつ増えているので、来年の春までに目標を達成するだろう。


 次の採取場所にたどり着いた。ユウはまたしゃがんで薬草を採り始める。途端に汗が噴き出た。目に入って沁みる。手の甲で拭った。


 小さく悪態をつきながら作業しているユウの背中にテリーの声がかる。


「獣だ、木に登れ!」


 叫んだテリーは剣を抜いて草木と対峙した。その表情は真剣そのものだ。


 警告を受けたユウは作業を中断して体を跳ね上げた。目星をつけていた木に飛び移ってよじ登る。その直後、獣の叫び声が耳に入った。ちらりと振り返るとテリーが焦げ茶色の毛をした猪の突進を避けているのが見える。背の高さはテリーの膝辺りくらいか。


 獣の正体がわかったユウはあまり高く登らず、中途半端な位置で木の幹に掴まったまま戦いを観戦した。


 猪の最初の突進を避けたテリーはその尻を見ながら再び叫ぶ。


「猪だ! こっちに1匹!」


「ダニー、木に登れ! テリー、今行く!」


 離れた場所からニックの声が聞こえてきた。


 その間に猪は一旦立ち止まって反転し、テリーへと頭を向ける。その間も獰猛な鳴き声は止まない。猛り狂っていた。そして、あまり間を置かずに再び前へ突き進む。


 正面から突っ込んでくる猪の様子をじっと見つめていたテリーはぎりぎりまで引きつけて躱した。あまり早く動くと進路を修正されてしまうのだ。


 2度攻撃を避けたテリーは猪から離れようとする。そこへ反転した猪が向かってきた。木の根元まで下がったテリーは引きつけてまたもやぎりぎりで横に飛ぶ。その直後、猪が木の幹に激突した。あまり大きくない木の枝がわずかに揺れ、雨水が大量に降ってくる。


「プギャアァァァ!」


 遠慮なく木にぶつかってふらついた猪の左目に1本の矢が突き刺さった。その瞬間に猪は周囲に響くような悲鳴を上げる。


 剣を抜いたケントがやって来た。しかし、入れ替わるように猪は草木の奥へと逃げていく。遠ざかる鳴き声はやがて聞こえなくなった。


 雨の音がわずかに聞こえる中、ユウは木から下りる。


「テリー、大丈夫ですか?」


「ああ無傷だよ。泥だらけになっただけさ」


「こっちは矢を1本持っていかれた。最近多いな」


 大きく息を吐いて剣を鞘にしまうテリーの元に、ユウの他、愚痴を漏らすニックと無言のケントが集まった。みんなの服はすっかり水気で湿気っている。その4人の頭上から大きな水滴がいくつも降ってきた。


 顔を上に向けたニックが毒づく。


「くそ、雨がきつくなってきやがったな」


「このまま帰りたいなぁ」


「そういうわけにもいかないよ。ユウは作業に戻って。ニックとケントも他の2人のところに戻ってくれ」


 恨めしそうに上を見るユウにテリーが一言告げると、他の2人にも命じた。どちらもうなずくと踵を返す。


 大粒の水滴を頭に受けたユウは、やはり雨の日は嫌だなと思った。

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