留め処なくピアノフォルテ、3
フルール・シュ・セーンの公演が始まった後の校舎は休日よりも静かで、空っぽと言っていいほど誰も残っていない。観に行かない生徒も寮に残って自由に時間を過ごすのではじめから登校してこない者が多いのだ。いつも気分によって公演に行くか行かないかが変わるマカは、この取り残されたような静けさに浸るのも悪くはないと敢えてこちらを取ることもある。機嫌さえ悪い時でなければ。
「ノックしてから開けるの早くない?」
個室のベッドにぷんぷんと文句を言うフィーが座っていて、隣の棚には当たり前のように丸っこいぬいぐるみが大事に置かれている。
「まだ直ってねえのかよ」
「だってお腹かじられたんだもん……」
ただの人間であれば致命傷だったであろう凄惨な大怪我だが、見た目には弱々しい印象を持たれるフィーも人形になりつつある六年生なだけありこの程度では斃れない。こうしていつものように会話できているのは間違いなく〈医務官〉の治療の賜物だが。
「どうしたの、マカ。何しに来たの」
せっかくベッド横に置かれた椅子も勧めず、信用のかけらもない目つきでじぃっとこちらを見てくる。用なら聞くが早く済ませてほしいと言わんばかりだ。
「見舞いにも来ちゃいけないのか?」
「それは嘘。ここ数日で来てくれたのなんてコレットとクラフとコンテだけだよ? みんなはすぐ来てくれたもの、心配で来てくれたのなら遅すぎると思う」
可愛くない、思わず頬が引き攣った。他の相手だと大人しいくせにマカに対して図太くなるのは何故なのか……。ぬいぐるみを隠したせいではない、そんなのの前から結構そういうきらいがあった。確かに以前はなかった軽蔑の視線が混じることはあるが。
「公演行かねえの? そのくらいには回復してるだろ」
意地の悪い問いかけに機嫌を損なうかと思えば、フィーは妙な反応をした。
「う、それは……」
彼女は口籠もって、どうやってこの話をはぐらかそうか考えている。マカは目を細める。怪しい。怪しいが何かを企んでいるにしては素直すぎやしないか。
「……演奏会形式のオペラ」
「うわーーん! やめて! 言わないでよ」
さっき小耳に挟んだ情報を口にするとフィーが悲鳴を上げる。耳を塞いで体を丸めた姿を観察するが、彼女に何か変わったところがあるようには感じなかった。
あの悲劇の中、ただ一人無傷だったアシュレイがフェーヴに捕まって、生存者はマカとコンテ、フィーとクラフティ、それに偶然その場にいなかったコレットだけだった。アシュレイが悍ましい犯人とされ、座敷部屋に送られた翌日の朝。変わらず授業が始まる日常に押し戻され、生き残った六年生たちはしかし勉強どころではなく。登校するとすでに机の半数が片付けられていて、どこかしらに手当てのあとを残した四人に何があったのかみんなが詰め寄って。
コンテが一通り説明し終えた時には、誰もが受け入れるしかない友人たちとの別れの事実だけが残った。
友を亡くしても泣く者はいない。誰のせいでと怒る者もいなかった。しかし悲しみを飲み込んで沈黙する教室に、誰かのかすかなつぶやきだけが反響した。
「ぬいぐるみなんか、探しに行かなければ……」
あの時からフィーは自分を責めている。
「ちょっとごめんね」
個室の戸がノックせずに無造作に開かれて、〈医務官〉が余裕のない表情で間を空けずに二人に話しかけた。
「メレンゲ食いが何匹か敷地内に出たみたい。ちょっと行ってくるね」
「な、」
「え……」
生徒二人の表情が驚きや不安に翳るのを見て、シュトロイゼルは腰に片手を当て、言い聞かせるように人差し指を立てた。
「……本当はあんまり教えるべきじゃないんだけど、君たちはここにいた方が絶対安全だから伝えとくよ。いい、おれが戻るまでこの部屋から出ちゃ駄目だからね」
「は、はい」
気圧されてフィーが返事をするとシュトロイゼルはにっこりと笑って力強く頷いた。そしてすぐにドアを閉めて走る足音が遠ざかっていく。
「……フェーヴってすごい」
今更ながらフェーヴの偉大さを実感して、感嘆の声を上げる。あの悍ましい姿を見るだけで生徒たちは体がすくんでしまうのに、彼らはあの恐怖をどうやって乗り越えているのだろう。
「すごいのは当たり前だろ。あのひとたちが何年戦ってると思ってるんだ」
「そうだけど」
もっともな返事に言い返せなくなる。そうだけど、そういうことを言いたいんじゃないのに。しかしマカはマカで別のことを考えていたようで、〈医務官〉が鍵までかけた扉をじっと見つめていた。
「それにしても変じゃないか? 〈医務官〉があんなに急いで戦いに行くなんて。いつもなら患者がいる時は他のフェーヴに任せるのに」
「マカはよく怪我してたから知ってるのかもしれないけど、わたしはそんなにしょっちゅう医務室に来たりしないからわかんない。そうなの?」
「こいつ……」
単純な身体能力の成績で言うとフィーは六年生の中でも上位に入る。努力しても体が追いつかないマカとは比べ物にならないのだが、それを意図せず本人に言うのだから。
〈医務官〉の帰りを待つにしてももう話すこともなく黙り込んだ二人は相対的に長い時間を過ごす羽目になった。
することもなくただ待機してからしばらく経って、ある時一斉にフィーとマカは扉を向く。
ガタンと物音が部屋の外から聞こえたのだ。
「……ここにいて大丈夫、なんだよな?」
「鍵だってかかってるし……」
メレンゲ食いであるという確証はないが、〈医務官〉が戻ってきたなら部屋をノックして顔を見せてくれるはずだ。
「誰かいるのか」
「何してるの、気付かれちゃう……!」
扉の向こうに聞こえるように声をかけてみるとフィーが慌てて抗議をした。
「生徒なら外にいたら食われるだろ……返事なし。メレンゲ食いかもな」
「うう……」フィーの喉から子犬の鳴き声のような嗚咽が微かに聞こえる。
マカは溜め息を吐いて、どうせここには来れねえよと慰めてやる。仮にメレンゲ食いだとして、壁越しであれば気付かれたとしても流石に壊してくることはない。わかってはいても壁一枚隔てた先にあれがいるかもしれないと考えると怖いものではあるが。
「それに多分、今日はここより講堂に行くだろ。公演中で生徒が集まってるしフェーヴもそれに合わせて警備してるはずだ」
しかしそれを聞いたフィーの様子がふっと変わって、目を見開いた。
「講堂……? コレットたちもいるのに。い、行かなきゃ」
「は? おい、立ち上がるなよ」
突然どうしたんだ、話を聞いてないのかよとマカはベッドから足を下ろそうとするフィーの肩を押し返して止めた。
「そう、だからそこにメレンゲ食いが向かってもフェーヴがいるんだからすぐに駆除されるだろうが。なんでお前が行く必要があるんだよ」
「マカが言ったんじゃん、いつもなら〈医務官〉は他の方たちに任せるって。それなのにどうしてあんなに急いで行っちゃったの? 何か想定外のことがあったのかもしれない!」
ばしっとフィーの手がマカの制止を拒絶して振り払うと、窓へと駆け寄る。開け放たれた曇りガラスの窓枠に足をかけた。
「待てって!」
どなり声に一瞬振り向いたが、衝動的になっているフィーにマカの声など届かない。ただの窓に階段などなく、腹に怪我を抱えているはずの同級生は二階から勢いよく飛び降りた。
「嘘だろ……ああもう……」
慌てて見下ろすと既に着地を済ませていたフィーもこちらを見上げていて、しかしすぐにくるっと回って駆けて行ってしまう。なんて元気な。寝ている必要ないぞ、あれ。
苛立ちと溜め息を同時に吐き出して、マカは彼女と同じ手段で医務室を飛び出した。
放っておけばいいのに。放っておけるわけがないだろ。
「おい! 無計画で飛び出すな、フェーヴに迷惑だろ!」
マカが追いついてきて、壁に張り付いて角の向こうの様子を見ていたフィーの横に滑り込んでガミガミと言った。
「う、ごめん」
「本当に無鉄砲なのかよ……」シュクルリィ一粒分の期待すら裏切られてマカは肩を落とす。ついてきてくれたのはいいが勝手に失望されるとこちらも凹むとフィーは少しむくれて言い返した。
「なんでマカまで来たの」
「怖がりのお前一人でどうすんだよ」
うう、言い返せない。実際すでに膝から震えが始まっているのだ。それもきっと彼にはばれている。
「もし今手が足りてないなら避難誘導くらい手伝えるかもな。でもただの足手まといになる可能性を考えたらあの部屋に残ってた方がよかったとオレは思う。出てきちゃったものはもう仕方ねえけど」
しかも入口で物音がしていたことを考えると今更戻るのも恐ろしい。
「どうするんだよ、あの事件と同じ規模だったら」
そこまで考えていなかった。みるみる青くなっていくフィーの顔を見て溜め息を吐くマカの目が、ふと遠くの何かを追うように平行に動いて。
「いるな」
わざわざ確認しなくてもメレンゲ食いのことだ。
「いる……?」
「くっつくなお前」
くっついているつもりはないのに心底鬱陶しそうに押しのけられる。気付かれない程度に距離があるのかもしれないけどどうしてマカはそんなに落ち着いているんだろう。
「こっちを回るしかないな」
メレンゲ食いは依然として昇降口をうろうろしている。マカがすいとその場を離れて中庭を通って窓から一階の廊下に入り込むのを見て、フィーも慌ててそれを追う。
今までで一番、講堂が遠く感じた。
「あれ、」
「な、なに?」
羽音に気を付けながら歩いているとマカが首を傾げるだけでたじろいでしまう。昇降口の以外でメレンゲ食いに出会うことはなく、運よく講堂まで辿り着けた。そこでフィーも違和感に気付いて首を傾げた。
「なんか静か、だね」
正面入口では逃げ惑う生徒はおろかフェーヴすらおらず、戸惑いながら静まり返ったエントランスへ入ってみるとどうやら会場内ではまだ公演が続いているようだった。扉の隙間から、微かに音楽が流れ出ている。
「どういうことだ……?」
緊急事態だというのにフェーヴは公演を止めて避難させたりしないのか? 大勢の生徒が集まっていることに気付いたメレンゲ食いがここになだれ込んだら殺戮が起こる。
未だ到着しないメレンゲ食いのことを考えると血の気が引いていく。今すぐに逃げたいという生き物としての本能が沸き立って、迫る危険をいち早く察知しようとしているのか極端に神経が研ぎ澄まされる。
「マカ、あれ、」
「あ?」
フィーの指差す方には展示スペースがあって、過去に使われた衣装や背景画などが記念として飾られている。その端っこに膝を抱えて座る人物にマカは初めて気が付いた。
「クラフ?」
「わ、え? フィーとマカだ。珍しい組み合わせ……」
フィーが名を呼ぶとクラフティは二人を見上げてびっくりしたように目を丸くしたが、こちらとしては公演中にもかかわらず彼がこんなところでちょこんと座っていることのほうが奇妙である。
「何やってんだお前こんなとこで……」
「えーと、いやね、今日はセットも動かないしすることがないのさ。でもなんかこう落ち着かなくて」
彼はえへ、と首に手をやる。もしかして出番のない日はこうやって講堂に潜んでいるのか? 不審にも程がある。しかしそんな話をしている場合ではない、聞こえてくる歌声にのんびりと耳を傾けるクラフティに、フィーが言う。
「クラフ、メレンゲ食いが発生中らしいの。こんなとこにいたら見つかっちゃうよ」
「ああ、だいじょうぶ。せっかくここまで来たんだし見てってやって? 歌の間なら入っても構わないからさ」
すれ違うような会話に当惑し、フィーがもう一度言おうとするより先に部員は話し続けて。
「歌の子、一人で歌うのは今日が初めてなんだ。きっと三年経ったら大人気になってるよね」
「見ないよ」
焦れたマカがクラフティの話を止める。
「今それどころじゃないんだ、外でメレンゲ食いが出てるんだよ。早く公演を中断して避難しないと——」
「それは駄目!」
ピィンとエントランスに残響が残る。打って変わって狼狽えた表情でクラフティはマカの出方をはらはらと窺っている。
フィーとマカは彼を見下ろしたままただならぬ空気に息をのんだ。
天井窓からの自然光が足首をするりと避けていく。
「……クラフティ?」
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