留め処なくピアノフォルテ
留め処なくピアノフォルテ、1
メレンゲ食いの大量発生事件はいつまでも予兆を見せず、とうとう公演の朝を迎えてしまった。このまま公演が始まって生徒が集まった頃を狙われてしまったらひとたまりもない。
「大変……」
蒼い顔をしたラヴェが、講堂の横口で待っていたキシェの元へふらふらと戻ってくる。
「キミの言う通り、小道具の鎖と衣装部屋の黒い布地約二・五メートルが一ヶ月ほど前からなくなっていたそうです」
「裏が取れたか」
鳥の亡霊の変装に使われていたものをナンシエに見せたところ、そのどちらも演劇部の依頼で仕入れたものだったそうだ。それが今演劇部で紛失しているのなら、変装に使われたのは演劇部のものということになる。
「その中に錠とかはあった?」
「錠、ですか? いいえ。その辺は大丈夫でしたよ……あ、でも舞台用の檻が……」
「それも?」
嵩張るので今はナンシエの倉庫を借りて保管しているが、メレンゲ食いを詰め込んでいたあの檻さえ演劇部の所有物だったのか。しかも今回の講堂に使われるはずのものを含めると三つも盗まれたことになる。実用性のある道具ばかり揃っているんだなと改めて感心して、舞台移動に苦労しそうだと余計な心配が生まれる。話と関係のないことは頭から追い出して、〈憲兵〉は質問を再開した。
「部員以外を衣装部屋や備品室に通したことは?」
「もちろんありません」
淀まず答えたものの、キシェの悲しそうな顔を敏感に読み取って部長はフェーヴに噛みついた。
「中止にはしませんよ」
「まだそうとは……」
眉尻を下げるキシェにゆったり詰め寄って、演劇部の部長は大袈裟に不機嫌を表現するような仕草をした。
「事件の容疑者が部の内部にいるのに、シャルロットが公演の決行を黙認するはずがないでしょう。キミはどっちの味方なんですか」
キシェには彼のそんな態度が部長としての威厳を見せているというより気を悪くした少女のように見えてしまい、しかしだからこそいつも言い負かされそうになるのだ。彼もきっとそれを分かっている。
「どっちも何もない。みんなを守りたいだけだ」
それでもキシェは背筋を伸ばして、揺らがない〈憲兵〉として言う。
「……どうしたんだ、フルール・シュ・セーンを背負う君が、道具の数も把握できていないなんて」
「たった一度の確認漏れを責めるなんて、キミこそらしくないですよ。ただでさえ犯人を匿っている疑いをかけられているのにそれはあんまりじゃない」
黙ってしまったキシェに、ラヴェは小さく息を吐いて相手の胸の前でパチンと指を鳴らす。切り替えの合図のように。
「……やめましょう、大人げなかったですね。とにかくもうじき〈捜査官〉も解放しますし、あとはアナタたちにお任せしますよ。非常時ですから公演の妨害さえしなければ文句も言いません」
ごめんよ、とキシェは身を縮めた。そんな彼をラヴェが覗き込んで、慰めるように瞳を輝かせた。
「キシェ、大丈夫さ! 今日の会場はずっとボクのピアノが響いていることでしょう。〈生徒会長〉にそうお伝え下さい」
「……わかったよ」
キシェが引き下がったのを笑顔で確認すると、講堂の中から聞こえてくる公演前の慌ただしさに彼も戻っていく。その背中が扉の向こうに消えた時、キシェは思わず溜め息を吐いた。
フルール・シュ・セーンの公演当日は学校全体がどこかうわついた空気で満たされる。フェーヴとの取り決めで授業のない日に行われるのだが、開場時刻までは自分達の教室に集まってそわそわと待つのが通例となっていた。
「マカいねえな」
「いいわよ、あんな奴」
寝坊してきたコンテは教室のどこにも幼馴染がいないのでちょうど近くにいたコレットに聞いてみると、険しい顔でぴしゃりと言い捨てられた。しかしその腕に見覚えのあるぬいぐるみが抱えられているのを見て軽口はやめておいた。彼女は彼女でここ数日間待ち侘びている親友がいるのだから大目に見るとして、クラフティもいないのでどうにも欠けている感覚が邪魔してコレットと二人だと話しかけづらい。
「そのうち来るよ、今日退院だってアシュレイも言ってたろ」
「うるさい」
「うるさいか」
ただでさえ、ぬいぐるみを隠したマカの方についたコンテ含め数人を未だにコレットは根に持っているのだから、のどかな談笑を期待しても仕方がない。他のやつに話しかけに行くかと、コレットとのピリピリした空気から逃げる。
「お前よくコレットに話しかけるよな。あいつ、ただでさえ元々可愛くなかったけど最近余計に扱いにくいって言うかさ」
「ん? いやあ」
そうこうしている間にも無為に時間は過ぎ、鐘が鳴って開場の時刻が告げられた。
行こうぜとかたまって移動する中、ちらりとコレットの様子を遠目に見るとちゃんと歩き出していた。事件の夜から数日にかけての彼女はひどく取り乱していたのだ。アシュレイが戻ってきて少し落ち着いた今も、以前にも増してフィーやクラフティのそばを離れなくなって。
「……そりゃそうなるよな。俺だって、」
「何?」
「なーんでも」
コンテはへにゃっと笑うとみんなについていく。
何も知らねえくせに、と、意地悪なことを思ったのは。
いつも通りパキンと壊して、胸に仕舞っておくことにして。
講堂はすでに学年ごとに入場の案内が始まっていて、人混みの中にフィーを探してもやっぱり姿が見えることはなかった。コレットはたまたま隣に座ろうとしたコンテを追い払って、自分の隣を死守する。
「どいて、そっち座って。」
「ごめんごめん、わかってるよ、フィーの席だよな」
ざわざわと壁や天井に反響する生徒たちの話し声。増幅された喧燥が幕の閉じたステージを越えて、アシュレイたちが歩く舞台裏の通路にまでかすかに聞こえてくる。
「さあ、こっちですよ」
ラヴェの案内である一室に通される。
「ペルシェ、先輩。いいですか、ここの部屋以外を開けちゃダメですよ。フルール・シュ・セーンは神秘性を売りにしているので、裏側が見えてしまうと恥ずかしくて活動できなくなっちゃいますから」
人差し指を口元にあてる仕草は演奏者というより役者に近いものを感じる。どちらにせよ舞台裏でも華やかに振る舞うのは部長として洗練された所作に組み込まれた一部なのだろう。今は公演を控えてステージ用のブラウスを着ているため、その動作も相応しい。
ノックもなしに扉を開けるペルシェを横目に見て、アシュレイはラヴェに向き合って礼を言う。
「ありがとう」
「礼には及びません。アナタには命を救ってくださった恩をまだ返していませんから」
アシュレイとラヴェが話している間にペルシェが部屋へ上がり込んでいって、不作法に中の人物に声をかけた。
「クレア。釈放」
楽屋の一つだろうか、椅子と化粧台だけがある狭い部屋。化粧台には化粧道具の代わりに飲み物と保管用の食事が置かれている。部屋の真ん中に敷かれた分厚めのラグに転がった少女に、ペルシェはその背中に軽く蹴りを入れる。
「あ〜、寝てますね、たぶん。昨日は夜も見回ってたので」
〈捜査官〉のむにゃ、という寝ぼけ声が聞こえ、ごろんと寝返りを打って目を開けたクレアがペルシェを見上げた。
「……ぅおー、まさかのお迎え」
「不調とかはないですか?」
アシュレイが近くにそっと膝をつく。クレアは悠長に寝そべったまま柔らかい体をぐーんと伸ばして。
「やっぱお日さまを浴びないとだめだね。カビちゃうかと思ったぜ」
肩を回して体の調子を整えていく彼女に異常はなさそうだ。アシュレイは小さく安堵の溜め息を吐いた。と、部屋の外でも部長が腕や指を伸ばしてみたりしている。今日はピアノの出番があるのだろうか。
「そろそろ開幕ですよ。日向ぼっこなら裏口から出てくださいね」
「はいはいどうも」声をかけてくるラヴェにひらひらと手を振りながらあくびをする。
「事件が起こるなら間違いなく今日だよ。……公演なんてよくやるよね」
いつも不意に低い声に切り替わる〈捜査官〉の冷静な批評が容赦無く刺すが、ラヴェにはそよ風といったふうだった。
「他の奴らがこれを許してるならあたしたちがぐちぐち言ってもしょうがないよ。観ないなら関係ないし」
「あっ、お前もキシェみてーなこと言うんだ」
「……普段から観に来てくれても良いんですよ?」
講堂の支配人は少し寂しそうに微笑んだ。それから鐘の音が建物内に響くと、彼は「それじゃあ頑張ってね」と舞台袖へと踵を返した。
「おい、」
「ご心配なく。公演が続く限り舞台と客席は、このラヴェが守り通してみせますから」
部屋の入り口から部長が姿を消すと、クレアはアシュレイに視線を移して何か求めるように片眉を上げた。新しい報告を促されている。
「……〈医務官〉がまだ到着していないから、〈憲兵〉と〈生徒会長〉が先に檻の場所へ向かってます。学舎の方は〈議長〉が巡回しています」
「了解。みんなには言ったけど発見した時点で爆薬を抜いてるから今日に限ってはひとりでに錠が壊れることはないぞ。あそこはもうトラップとして機能していない。そんでこれから何をするか、それは今回の最重要事項、犯人の確保だ。」
ペルシェは聞いているのか分からないがアシュレイはいつも通りの様子で静聴している。こんな状況でも手の平掲げて調子はどうだいと訊ねたらハイタッチしてくれんのかな、と余計なことを考えながらクレアはあえて酷なことを問う。
「アッシュ君。お友達の中で、誰かがソプドレジルアンを裏切っている。こんなことをしてる酷い奴は誰だと思う?」
「…………」
「……ああ、もうほとんど答えは出てるって顔だ。わかっちゃうか、お前は案外賢いから。」
犯人はあの事件の夜、抜け出した六年生みんなの前でアシュレイにロッカーを開けさせようとしていた人物。現在、多数の生徒が集まる講堂を狙っているようにより生徒を多く殺すことを目的とするなら、その動機を深く測ることはアシュレイにはできない。
きっとそれはフェーヴたちも同じだ。この事件はそれが難しい。
疑うことに躊躇いがなくなったわけではない。最後の瞬間までその名前を出すことは憚られた。僕の考えが真相の邪魔をしてしまうのは避けたいから、とアシュレイは〈捜査官〉からの質問をそっといなした。
「代わりに、鳥の亡霊に扮していたメレンゲ食いのことで。あるヒントを友人からもらって以降考えていたことがあるんだ」
「え、なに?」
幕が上がる音が講堂中に響き渡る中、アシュレイの話した推測でクレアと顔に懐疑的な色が広がっていく。
「……それ、根拠はある?」
クレアからの問いかけにアシュレイは首を振った。あぐらをかいて考え込む〈捜査官〉はアシュレイの意見を一蹴するつもりはないようだ。時間がない中で耳を傾けているということは興味を持っている証だろう。
「無知な僕には方法がわからないから、まだ想像の域を出ない。だけどメレンゲ食いが生徒に生捕りにされているのが発見された時から、今までの理論は破綻してるんだ」
公演がもう始まる。ペルシェは静まり返った廊下に目を遣って、ふうと息を吐くクレアを急かすように静かな声で発破をかけた。
「今日そいつを捕まえればそれもきっと分かるようになる。あとはあんたと〈裁判官〉が、本人から真相を聞き出すだけだよ」
ポンと膝を叩き、〈捜査官〉はペルシェににやりと目配せしてからアシュレイの目を見た。
「——お前がここまでできるとは正直思ってなかった。」
「まだ憶測ですよ」
肩をすくめるアシュレイの背中にこぶしを打ちこんで。
「じゃ、あとは実働の仕事だ。ペルシェ、お前はこいつについて会場の中に入ってろ」
クレアはすくっと立ち上がる。腰の帯に片刃の剣を装着し、彼女はアシュレイとペルシェを順番に見てこう言った。
「よくやった。あとは俺たちに任せろ」
ぱっと身を翻し、工具箱をガチャガチャと鳴らしながら瞬く間に走って行ってしまった。
○
幕が上がるとページをめくったように静まり返る観客席。
広い空間に素朴な衣装を着た登場人物が時が止まったように片手を上げたり天を仰いだりしたポーズで固まっており、左端に置かれたグランドピアノだけが白い光を浴びている。
沈黙の中舞台上をじっと眺めて待っていると、靴音も立てずに一人の奏者が袖から現れる。白銀の髪を結い上げた彼は拍手や歓声と共に迎えられた。決まった位置に立ち止まると決まった動作でお辞儀をし、ピアノ椅子に腰を据えて。
指を鍵盤に置くと舞台全体が照らされる。ラヴェは深く呼吸をしてから優しく触れるように三音、奏で始めるのと同時に止まっていた男女も息を吹き返すように動き始めた。
口上もなく、突然に始まったのはオペラ風の歌唱演奏会だった。
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