三本指の果実の踊り、4
「あんた、演劇部の部長の居場所を知らない?」
「え」
学舎一階、掲示板近くの廊下ですれ違ったフェーヴに腕を掴まれ、マカの人形化の進んだ内臓が一気に凍結した感覚に襲われた。
「……なんですか、急に。講堂じゃないんですか?」
「いなかった。見てないならもういい」
ペルシェが首を振ってもう行っていいと掴まえた手を解放して行ってしまう。
断頭処分になったはずの級友が帰ってきて、それと同時に教室に現れた職も不明の見知らぬフェーヴ。一部のクラスメイトたちからはあっという間に囲まれて数日のうちに馴染んでしまったが、マカにはあまり関わろうという気にはなれなかった。ゆったりした動きの中にある隙の無さが、暗い色の瞳が、どこか暗澹たる世界から睨まれているような気持ちにさせられるのだ。
なんだったんだと皺の寄った袖を引っ張って直しながら見送っていると、ペルシェの歩いてきた方から噂の友人が現れた。彼はこちらに気付いて疲れた顔を少し綻ばせた。
「あ、マカ」
「アシュレイ。お前ちょっと痩せたよな」
元々健康そうではなかった顔色が、投獄を経て余計にひどくなったような気がする。それでも彼は特に辛そうな表情は見せず、今もいつも通り何を考えているのかよくわからない顔で微笑んで「そう?」とだけ言った。
マカは黒の外套に目立つバターブロンドが少し先で他の生徒に声をかけているのを確認して、アシュレイの細い肩を引き寄せた。
「……あのさ、本当に一度も見たことないけど、あのひと本物のフェーヴ?」
アシュレイはきょとんとこちらを見る。誰のことを言っているのかわからないわけではないだろうに。
「怖い人じゃないから大丈夫だよ」
「ちょ、別に怖いとは言ってねえけど」
「あのひとは責任感の強いれっきとしたフェーヴだし、君には何も影響はないよ」
責任感が強い、と言うが教室の椅子に座る眠たげな少女が責任を背負っているようには見えない。
「立場が立場なんだから、フェーヴだからってお前に味方してくれるとは限らねえじゃん」
特に考えもなしに発した言葉に何を感じたのか、アシュレイの素朴な瞳がこちらを見る。
「心配してくれるのかい」
マカは眉を顰めた。その朴訥で、相手に関心がなさげな目つき。こいつは昔からこうだったが、最近はそれと目が合うのがどうにも嫌だった。
「……オレは、」
「待て待て待て!」
慌てた声が会話に割り込んできて、走って来たコンテが転げるように二人を引き剥がした。
「おいっ、……あれ」
「どうかした?」
コンテは首を傾げるアシュレイと不服そうに自分を睨むマカを交互に見ると、彼はふためいた顔から一転、ぽかんと拍子抜けして脱力した。
「なんだよもお〜。喧嘩してんのかと思った」
「いつもいつもしてねえよ」
「ややこしいっておまえら……」
マカは空回りした友人を小突く。
そうだ、と思い出したようにアシュレイの表情が切り替わる。
「二人とも、講堂の他に演劇部の部長がよく行く場所はないかな?」
先程と同じ質問に思わずマカはしかめ面になった。
「お前もかよ……」
確かにあと一週間もしないうちに公演が始まるから噂の人物ではあるが、普段自分から話題に出すほど興味を示さないアシュレイまであの部長を探している理由はなんだ。
「オレたちより部員の方が知ってるんじゃないか、クラフティとか。さっきまで教室にいたけど」
「あ、そっか。ありがとう」
「ぼーっとしてんな、お前……大丈夫なのかよ、疑いが晴れたわけでもないんだろ?」
相変わらずだとは思うが以前より掴めない奴になったなと、マカは「大丈夫大丈夫」と苦笑するアシュレイを眺める。でもさあとコンテが片眉を上げて言った。
「まあこうやって戻ってきたってことはほとんど無罪で確定なんだろ? なんていうっけ、ああ冤罪。例がないけどやっぱりやってない奴の首が壊されることはないんだな、安心したよ俺」
「ほんと楽観的だなお前……」
「羨ましいだろ」
「お前みたいなのが卒業する時を思うと先生がかわいそうだね」
あははとアシュレイが声を出して笑う。それからどんどん歩いてはぐれかけているペルシェの姿を見かねて、慌ててマカを追い越しながら手を振った。
「じゃあクラフティに聞いてみるよ。ありがとう」
「おう、またな」
通り過ぎていく痛々しい首の包帯を見送って、コンテとマカは小さく息を吐いた。
「で、感謝の言葉は?」
ああうまくいかない。勘のいい幼馴染がどうにも腹立たしくて、マカは額を押さえてうめく。
「……うるせえよ」
「友達はもういいの?」
マカと話している間、どこかに姿を消していたナンシエが気付けばまたアシュレイの隣を歩いていた。聞けば「友達同士でお喋りするのに私たちは邪魔になるからね」とのことだった。
「やっぱり一度教室に戻ってみましょう。僕より部員の方がよく知ってるはずですし」
「はいはい、そうするかあ。ペルシェを回収したらね」
〈外交官〉はセピア色のロングブーツを鳴らしながら、狭い歩幅を早足で歩く。いつもはカウンター越しだったり座った状態での会話だったので気付かなかったが、存外小柄らしくアシュレイと並べば大体頭ひとつ分と少しの差がある。
「ペルシェ、教室に戻ろう」
生徒たちに混じって少し遠くにいるペルシェに声をかけると、気付きはしたが何を言ったか聞き取れなかったようでアシュレイを見て首を傾げた。
「ペルシェってあんな感じだったっけ」
肩から横に流した胸までの黒髪を弄っていたナンシエがふと呟いて。
「あんなって?」
「いやね、私はあまり地下のあの子とおしゃべりしたりしないからよく知らないんだけど。淡白というか、生気のない子だと思ってたんだよ。それが今日は妙に張り切ってるように見えるからさ」
確かに自分から生徒に話しかけに行くところは初めて見るけれど。座敷部屋の格子の中から見ていた頃の〈執行官〉はとても無口で、滅多に声を聞かなかった。必要に応じて小さな声で指示を出すが、それ以外では徹底して口を閉ざしていた。それは〈執行官〉として平等であるためなのだろう。
あそこを出てからは話しかけてくれることも増えたが、やはりあんな暗い部屋に長いこと暮らすひとでも生徒と接することを嫌う様子は一切なかった。そう思ったらふと浮かんだ疑問が口をついて出る。
「……彼女は望んでフェーヴになったのかな」
「は?」
元々低めの声で話すナンシエが単純に聞き返す素っ頓狂な声が軋む椅子のようで、気分を損ねたのかと瞬間ヒヤリとする。しかし彼女はこちらを見上げたあと別段なんてこともない顔でペルシェに視線を戻しただけだった。
「ま、あなたが経験したことを顧みたらわかると思うけど、私らがフェーヴに就いたきっかけなんてほんの一瞬のそっけないセレモニーによるものでしかないんだよ。ひとつ、目の前に与えられた斎具を手にする。それだけだ」
ナンシエはそう言って、何かを撫でるように手を掲げる仕草をした。
「そのちょっとした動作に、ただの生徒だった私らに、処刑の寸前にあったあなたに、明確で崇高な意志があった?」
「…………」
自分のような者がフェーヴに成りうるわけがないと今でも思う。ただでさえ今は容疑生、フェーヴを名乗れる立場にない。けれど彼らと生徒との身分の差とは、元々そんなに大きな段差ではないのかな。
「ま、昔と今でいろんなことが変わったから、これから引き継ぐ新しいフェーヴの子は余計な重荷を背負わされて大変かも知れないけど。……ほら来てるよ」
ナンシエが首を傾げて差した先にペルシェが戻っていて、アシュレイを見上げて聞き返した。
「何?」
「ああ……何か情報はあった?」
ペルシェは無言で首を振る。
「まあそりゃそうだよ。あいつはそもそも頻繁に人前に出るようなタイプじゃないから校舎内で見かけるなんて方が少ないさ」
「彼のことをよく知る部員なら教えてくれるかもしれない。とりあえずクラフティのところへ行って訊いてみよう」
「クラフ……?」
「そう、彼はずっと舞台の大道具や美術を製作しているから、部長とも付き合いは長いと思うんだよ」
クラフティクラフティ、と口の中で呟いてから、思い出したのか「あ」と口を開けた。よく自分に話しかけてくるコレット、フィーと一緒にいるのでペルシェも彼のことは記憶していたようだ。
「ああ、あの子か。」
「早くしないと行き違いになるよ」
立ち止まって話し合うアシュレイたちに痺れを切らしたナンシエが溜め息混じりに言って、——しかし直後にその予定が延期になることを知るのだった。粟立つ肌に突き動かされて三人が同様の方向へ視線を送る。
「……ああ、こりゃ教室では会えないかもね」
虫の知らせ。メレンゲ食いが発生したことを知れば放置はできないのだ。
「わわっ、来ないで来ないで!」
場所は三階の第二音楽室前。
幸か不幸か廊下に現れたメレンゲ食いは一体。それに狙われて抵抗する生徒も一人だった。あたふたと逃げ回る白銀の髪の男子生徒は身のこなしが良いとはいえないが上手いこと転げて避けたり天敵から距離を取ったりしており、駆けつけた時にはまだ怪我も負っていないようだった。
しかし武器も持たぬただの生徒がいつあの異形に根負けするか。足がもつれて壁に手をつく彼を見た瞬間、危機感に駆り立てられたアシュレイの足が自然と動いて。
襲い来るメレンゲ食いと生徒との間に割り込んで、気付けば手に握られていた杖で天敵の顎を食い止める。
「早く逃げて!」
「ひっ……」
突然助けが訪れて力が抜けてしまったのか、目を丸くした生徒は声をかけても壁に背中が張り付いたように動けない。その腕を乱暴に引っ張って保護しながらナンシエがアシュレイの無謀を叱りつける。
「ちょっと! 何をしてるんだアシュレイ、逃げるのはあなたも!」
そう言われてもペルシェが助けに行ってくれる気配はなく、動いてしまった体を後退させようにも出来なくなってしまった。メレンゲ食いを止めるのはいいが、その後でどう打開するか。
「力比べしたら負けるよ。バランスを崩すの! ペルシェ、早く助けてやんなってば」
そう、無理に力で押し切ろうとするのは僕には無理だ。
「……あ、」
なら、自分の思う通りに動かしてしまえば良いのでは?
メレンゲ食いの力は強いが翅で宙をホバリングしている分、その力にはムラがあるはずだ。実際に杖を突破しようとかけられている力が緩まる時があって、この瞬間を利用すれば。
「よ……っ!」
機を待ったアシュレイの右手が、いきなりぐるりと舵を切るように杖を大きく回した。すると杖に噛みついたままだったメレンゲ食いも体ごと半回転して態勢を崩し、床に転がる。ワタワタと翅をばたつかせてもひっくり返った大きな体がすぐに飛べるわけもなく、メレンゲ食いはフェーヴの斎具にとって絶好の隙を見せてしまった。
アシュレイは躊躇いそうになる気持ちを封じて杖を縦に構えるとその頭に力一杯石突を振り下ろす。フワッとした感触が杖を握り締めた両手に伝わって、即座にメレンゲ食いの体はパッと散りはじけた。
「……お見事」
対戦においては不器用ながらも、手品の要領で頭を使って流れをつかめば存外なんとかなるのかもしれない。フェーヴの二人のまばらな拍手を受けながら、試行錯誤が必要だな、と拍動の早い胸をそっと押さえた。
「はあ、助かった〜。ありがとうございます、……えっと、見知らぬ先輩?」
メレンゲ食いの消滅を確認した生徒がそろりと覗き込んで、アシュレイに感謝の握手を求めてくる。
どうしようとペルシェの方を見るとむんと頷いてくれる。まさかあのひどい初陣のあと、偶然とはいえできるとは思わなかった。とりあえず、一歩進んだらしい。ようやく安堵してアシュレイは差し出された白い手を握り返すことにした。
「怪我はない?」
「はい、おかげさまで。先輩が戦ってくれたので、どこも食べられずに済みました」
彼はにこっと綺麗に微笑んだ。胸章の数を見るに五年生の子らしい。彼もアシュレイの黒い制服に着けられた六つの小さな記章を見て六年生と判断してそう呼ぶ。
「良かった……」
「あの、先輩、そろそろ……」
アシュレイの手がなかなか離されないので五年生は自分で引き抜こうとして、何故か解放されないことに気付いて狼狽える。アシュレイの力で留め置けるのだから少し非力な子のだろう。心苦しいが、いつの間にか彼の背後に立つナンシエがその手を離すなと訴えかけるならば従うしかない。
「……さぁて、ところで私らには今日の仕事が残ってるわけだけど。まさかこんな形で達成するなんてね」
「う……、その声」
「君、ラヴェだね? 演劇部の部長さん」
白銀の長い髪をハーフアップに結った美少年。フェーヴと並ぶ全校生徒の憧れの的、演劇部の部長。
音響担当のラヴェ、そのひとである。
「げっ」
つかまったと悟った彼は思わず上品とは言えない声を出した。
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