三本指の果実の踊り、5
「だめですよ」
第二音楽室に置かれたピアノを椅子に座らないまま、演劇部部長はその細い指を鍵盤に置いてそっと音を鳴らしている。その情景は舞台上の彼に劣らず、時間も止めるような静かな美しさがあった。
「そう言わずにさ、前向きに検討するだけでも頼むよ。ラヴェ」
「ぜったい、ダメです。いくら〈外交官〉の頼みでも!」
ナンシエが根気よく手の平を合わせて懇願するも、ラヴェは動かぬ岩のように頑なに拒む。
「公演内容はボクたちにとって重要な秘密事項なんですよ、〈外交官〉。長い歴史の中ずっとみんな守ってくれているのに、それをボクが破るなんてありえない」
予想通りの言葉の往復で、ナンシエの喉に引っかかるような溜め息がピアノの小さな音を遮って。
「なあ、生徒何十人の命がかかってるかもしれないんだよ。あなたが承諾してくれればそれが全部助かるんだ」
「それはアナタの事情でしょう。ボクの役目は別にあるんだから、そちらに従う義務はないと思うんですよ」
ぽん、ぽんと音を鳴らす指が少しずつ増えていき、アシュレイの知らない曲を優雅に奏でていく。
「〈捜査官〉にも伝えたはずですが、ボクはフルール・シュ・セーンにおいて誰にも譲る気はありません。諦めて公演後まで待って下さい」
「…………」
合議中のみんなの態度を見るに演劇部の意思というものはフェーヴも
つまりこの場で首を縦に振らせるための、手段を選ばないためのナンシエというカードなのである。彼女は〈外交官〉、学校で使われる全ての物資の唯一の関所。
「あなたが祭事会を大事にしてるのは私らも知ってる。だけどさ、こっちも譲れないものがあるってわかるだろ」
「……聞きましょうか」
ナンシエの言葉に身構えるようにピアノから手を離し、腕を組んで部長は相手に向き直った。
「もし承諾してくれたら舞台装飾用のアクセサリーを新調してやろう」
「それならこちらで手作りしているので、あんまり困ってないですけど……」
「いつもは渋ってる木材も二倍出してやる」
「ずっと少なめなので間に合わせるのには慣れてますし」
持ちかけられた案を一つずつ澄ました顔で切り捨てていく。ナンシエの頬がひくひくと動くのを見ながらペルシェは退屈で窓の外へ視線を向けた。これならコレットたちのおしゃべりに巻き込まれていた方が有意義だ。
いくつか問答をした後、業を煮やしたナンシエは溜め息混じりに瞼を伏せる。そしてまたピアノを弾こうとしているラヴェに人差し指を立てて言った。
「仕方ない、私が甘かったね。じゃああんたのピアノの替え弦の制作を遅らせるしかないか」
「ああ、少しくらい遅れたって構いませんよ。しばらくは支障もありませんし。具体的にどのくらい? 一年ですか?」
「十年」
想像の十倍を提示されて部長の切長の目が即座に見開かれた。そして鍵盤がどじゃーんと濁った音を立てる。
「ずる! それはずるでしょ! 今の弦結構古いんですよ」
「十年も延ばす意味はないんじゃ……」
「嫌なら点検に協力するこったね」
アシュレイは思わず抗議する部長に加勢するようなことを言ってしまった。しかし〈外交官〉はどこ吹く風。
「……横暴だ。〈捜査官〉よりよほどたちが悪い」
先程までの余裕が一瞬にして瓦解して、細身な肩が力無く項垂れる。相当に大事なピアノらしい、フィーのぬいぐるみと同じように。
「どうする、この場で決められるかい?」
五年生の少年に容赦なく、ナンシエは腕を組んで決定を促す。「あの、」と口を挟もうとしたアシュレイの背中をペルシェは突っついて止めさせた。
少年は長い間ひとつ息を吸って答えた。
「……むり。明日まで待って下さい」
「分かった。良い返事を期待しているよ」
ナンシエはもう言い残すこともないとくるりと踵を返して音楽室から出ていく。アシュレイは逡巡しながらも〈外交官〉について行こうとして、ペルシェの手にそれを引き止められる。
ロングブーツの小刻みな音が聞こえなくなると、五年生の生徒は力が抜けたようにピアノの椅子にすとんと腰を下ろした。
「あ〜、怖かった……」
「……大丈夫?」
声をかけると、ぱっと顔を上げた彼はもう落ち着いた表情になっていて。
「フェーヴに関わるときは気をつけたほうがよろしいですよ、先輩。みんな感性が歪んでるんですから」
やれやれと肩をすくめる落ち着き払った動作が先程までの動揺から切り替わったことを感じさせた。
「アシュレイだよ」
ラヴェは名前を聞くと目を丸くして言った。
「アシュレイ? ああ、仮放免された方でしたか。通りで……」
座り直しながら言葉を濁す彼に何か知っているような様子を感じて会話をつなげてみる。
「僕のことを知ってるんだ」
「もちろんですよ、ボクはこれでも演劇部の部長ですから」
クラフティだけでなく六年生に演劇部員は何人かいるし、そのうちの誰かから話を聞いていても不思議ではない。それでなくとももしかして前例のない仮釈放された生徒として、この数日でアシュレイは生徒間で噂に上るようになってしまったのだろうか。
「それは、ちょっと複雑というか……」
「それにしてもすごいなあ、生徒なのに、メレンゲ食いに立ち向かって勝っちゃうなんて! だけどその杖、……もしかして脚が?」
「え……あ、ううん。これは手品用だよ」
気遣わしげな視線を脚に受けて、咄嗟に嘘を吐いてしまった。傍から見てまさかこれがフェーヴの持つべき斎具だとは思わないだろうけれど、出した状態で出会ってしまったのでずっと持ったままでいたのがあだになった。
「手品……?」
「嗜む程度だけど。こんなのとか」
軽く披露してみるかとたまたま袖の中に入っていたカードを右手で一枚取り出して見せ、もう片方の手に持ち替えてからばらばらと連続で十数枚に増やして床に落としていく。すると思いのほか無邪気な歓声が上がった。
「わあっ、素晴らしい! 奇術というやつですか。この場ですぐに出来たということは、ずっと仕込んだものを持ち歩いているんですか?」
仕込むというほどじゃ、と返そうとしたところでそれを遮る高い不協和音が不満気な主張をして。
「遊んでるけど」
気付けばラヴェの後ろに移動していたペルシェの手の平がピアノの鍵盤に置かれていた。彼女は痺れを切らした様子でラヴェを見下ろす。
「あんたが何か言いたそうだから残ったの。用がないなら今すぐ帰る」
「ああごめんなさい、まだここにいて、〈執行官〉」
ぱっと体をペルシェに向けて部長は言う。彼の発音した名前が、彼女が秘匿しようとしていたフェーヴの名だったことにアシュレイはつい驚いて「〈執行官〉……?」と呟いた。
「あ、彼女には以前助けてもらったことがあるんです。ほら〈執行官〉は夜の校内の巡回も仕事でしょう、その時に。ね」
「その名で呼ばないで」
椅子に座って覗き込んでくる部長に目も合わせず、ペルシェは素っ気なく返す。その態度が何故だろうか、他の生徒にするような柔らかいものではないような気がして。
ラヴェの目が彼女の無感情な態度に連動するように少し細められる。
「なぁに、恥じていたりするんですか?」
「違う。ただ今は……」
「ああ、隠してるんですね。ボクたちにとっちゃ一番こわいお仕事ですものね」
ではボクも協力しましょう、とラヴェは誓約をするような仕草で胸に手を当てた。ついでに上目遣いに〈執行官〉を見つめて遠慮がちに話を変えた。
「ねえ、かわりに、〈外交官〉を説得してくれません? あんな脅しは公平じゃないと思うの」
「ピアノなんて関係ないでしょ、一年以内に卒業するんなら」
懇願がすげなくすっぱり切り捨てられると、彼の前のめりだった上半身がわかりやすくしおれた。
「え、うーんそうなんですけど。やっぱり大事なピアノなので痛まず長生きしてほしいです。」ぎし、と音を立てる古い専用椅子から白銀の髪が離れて、窓の方へと歩いていく。「同じ星座を結ぶ恒星のように。あの子は分身みたいなものなんですよ」
彼があの子と愛おしげに呼ぶピアノは講堂に保管されている。講堂が出来る前からこの学校にあるといわれている古いピアノで、公演の度に活躍する演劇部のスターである。演奏者として受け継いで五年も経つなら彼の愛着も理解ができた。
「気持ちは分かるけど……」
「そうでしょう? あの子はみんなの大事な心の拠り所ですから」
アシュレイが呟くと我が意を得たりと彼は頷いた。ふわりとした髪の、制服の輪郭を溶かした斜陽が窓からアシュレイの目には刺さるようだ。
しかしゆらりと彼に向き合う金の髪が、黒い外套が背を伸ばして夕陽を遮った。
「で?」
「……〈ペルシェ〉、今日はなんだかちょっと怖いですね。何かを急いでいるみたい」
「そんなつもりない、けど」
見つめられて言い淀むペルシェの後ろ姿は怖いというより朝日に殺される小さな星のよう。
なんだか頼りなく。
「今は命がかかってるからあんたのおしゃべりに集中できない。今度にして」
「命ですか」
すると今度は部長の肩が小さくなる。
「ボクだってみんなの命を軽んじているわけじゃありません。だけどそれと天秤にかけるべきではない、大事なことだってある」
年下であどけないと思っていた彼の部長としての重い責を垣間見たアシュレイは気付けばぐるぐると頭の中をかき混ぜて、何か案がないかと呼び止めたにも関わらず行き詰まる会話に棹をさした。
「……公演の内容が生徒間に漏れなければいいんだよね? それなら、講堂の中を見るひとを最低限に抑えられれば、お互いの妥協点が作れるんじゃないかな」
「……うーん……」
「つっぱね合うんじゃなくて歩み寄ることで噛み合わせがうまくいくこともきっとあるよ。……こうしよう、ラヴェ」
名を呼ぶとジャムのような赤い瞳がこちらに向けられる。
「これから見せる手品を君が見破れたら君の判断に任せるよ。もし見破れなかったら、フェーヴを一人だけ点検に向かわせてほしい。秘密は絶対に守ると約束するから」
じっと見つめてくる円い赤はアシュレイの心を測るよう。
「……、どうかな」
「結局、ただのショーみたいになってたけど」
窓の外、淡い紫に染まっていく空を見ながら軽い足取りで、前を歩くペルシェの後ろ姿を追いかける。
「あんたまで楽しんじゃって」
「ばれた?」
結局ラヴェはアシュレイの提示したトリックを解くことができなかった。けれど悔しさ以上に彼は手品の魅力に夢中になって、賭けなんて忘れて二人で盛り上がってしまった。おかげで時間があっという間に過ぎて、もういよいよ誰も廊下を歩いていない。
「僕のは幼い頃に教えてもらったものの派生でしかないんだ。簡単なものしかできないし同級生にやっても今更見慣れちゃってるから、久しぶりに素直な反応が貰えて嬉しかったかも。今日のなんてほら、やったら片付けなきゃいけないから教室ではあまり出来ないし」
「……素直な驚きが出来なくて悪かったね」
振り向きもしない小さな声が届いて、アシュレイは早足の彼女に追いついた。
「ペルシェが? そんなことないじゃないか、さっきのも興味深そうに見てたくせにね。やっぱり手品は面白い」
「退屈だっただけ。あの時だってそう」
「君の退屈を少しでも慰められるなら、僕はいつでも手からコインを出すよ」
「今出さなくていい」
差し出された通貨を冷たい指先で押し戻して、両手をポケットに入れる。爪にコツンと当たったのは入れっぱなしだったコイン。座敷部屋でアシュレイに手品を見せられたあの時の——いや、もしかしたら今入れられたのかもしれない。そう思うと何もわからなくなりそうだ。
「面白くない」今日負けたのはラヴェなのに、ペルシェまで食わされた気分になるのはなぜなんだろうか。「さっきの賭けだってシャルロットやクイニアの前でやったら怒られてるよ。あいつら不安定な手段は遠ざけるから」
「じゃあなんとかなってよかった」
緊張感のない笑い声が横で小さく響く。
「でもきっと、結果が違っても彼は講堂に入れてくれたと思うけれど」
「あんたは甘いよ」
「今日のフィナンシェくらい?」
「それよりも」
そういえばどうしてあのフィナンシェは青だったのだろうか、考える必要もないか、とくるくるコインを回すようにして取り留めのないことを考える。夜の校舎なんて、怖いものを思い出しそうなのに何とものんびりした気分だ。横にいるひとの存在が大きいのだろうな、と背の低いフェーヴを見る。
「どうして君は僕を守ってくれたの?」
「……あんたがあたしに言ったんでしょ」
真っ暗な廊下を迷わず歩くのは元々地下で過ごしていたからだろう、何を言ったっけと聞き返すとそれについてはもう教えてくれない。夜に増幅される黒い瞳が不意にこちらを見て。
「欠けていない人形を、殺す必要はある?」
粛々と斧を振るう〈執行官〉の眼。
とん、と暗闇が近くなったような気がした。
そこに誰かが来るなんて思いもよらなかった、ペルシェがぴくりと廊下の先を見やる。
「なんか来る」
「……なんかって?」
「例えば靴を履いてて……」
と言っている間にぱたぱた走る音が聞こえて、廊下の角から見慣れた女子生徒の姿が飛び出してきた。
「わ、アシュレイ?」
「フィー」
「どうしたの、ふたりでこんな夜更けに……」
自分のことを棚に上げてフィーは上がった息を整えながら言う。びくついた様子でペルシェをチラリと見た。
「フィーはどうしたの」
「わたしはちょっと、音楽室にわすれものを。……ペルシェさん、びっくりした。『鳥の亡霊』かと思っちゃった」
「鳥?」
初めて聞く言葉にペルシェは眉を顰める。「この学校に鳥なんていないよ」
「怪談だよ、夜の学舎を彷徨いているっていう噂の」
「なんだそれ……とにかくもう消灯時間が来るでしょ。早く戻って寝るんだよ」
今、太陽が沈んだ後の校舎を彷徨いているのは亡霊じゃなくて無許可の生徒二名だ。先に帰ったあいつを入れれば三名。ペルシェは問題ないが、生徒は睡眠を取らなければ翌日の勉強に影響が出るし、今の状況を〈生徒会長〉たちに知られれば小言を言われるのはペルシェである。アシュレイから説明を受けても無駄に興味を示さず、通り過ぎて行こうとするペルシェの裾をフィーが必死に掴んで止めた。
「待って! ちょっと待っててお願い。本物が出てきちゃうかもしれない!」
ずりずり引きずるようにして数歩進んでから、〈執行官〉は珍しくちょっと困った顔で溜め息を吐く。アシュレイが微笑ましそうに見てくるのもなんだか癪で、メレンゲ食いではない別なものを怖がっている稀有な女子生徒の手を外套から離させて言った。
「……じゃあすぐに取ってすぐに戻るよ、怖がりさん」
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