マリ・ルィードの孤独な散歩

マリ・ルィードの孤独な散歩、1

 ああ、彼女のぬいぐるみがどこかに隠されてしまった。

 それはあの夜、同胞の半数を失った悪夢の夜に至る日のこと。


「マカ、貴方が校則を破るなんて……」

「ねえ、なんでそんなこと……! マカ!」

 授業の鐘はとっくに鳴っているのに、六年生の教室では誰一人として席に着いている者はいない。たったの三十四人の生徒たちは対立するかのようにおよそ半分ずつに分かれて向き合っており、彼らが息を呑んで見守るその中心には棒立ちのマカにフィーが必死に食ってかかる光景があった。

「いらないだろ、あんなもの人間だった頃への執着だ。これから先生の人形になるオレたちにはもう必要ないはずだよな」

「そんなことあなたに決められない。ねえおねがい、返して、マカ」

 フィーのぬいぐるみは犬の形を模していて、彼女の人間としての唯一の思い出の品だった。何も持たずにこの学校に招かれる生徒たちの中ではとても珍しいもので、彼女は入学前の記憶を大事に抱えて六年間過ごしていたのを、同級生たちはみんな知っていた。

 それを肯定する友人もいれば、そうあるべきではないと思っている級友もいるわけで。

「なあ落ち着こうぜ、二人とも……」

「いらねえよ!」

 ひときわ大きな怒鳴り声が教室の一瞬を支配した。止めに入ろうとしたコンテだけが、押しのけられてうわわっと声を上げる。大声に体がすくんでしまったフィーをコレットが守るように抱きしめて、マカを睨みつけた。

「あんなもの、捨てちまった方がいいんだよ。邪魔なんだよ! オレにとってもみんなにとっても……お前にとっても!」

 マカの言葉に頷く生徒が何人かいて、誰も言及しなかったけれど同じように思っていた同級生がこんなにいたことをフィーは初めて知る。

「マカのしたことを肯定するつもりはないけれど……学校の外は今も戦乱の真っ只中。全てを奪われた私たちに、先生は居場所を下さるのよ。今更抱えたままの人間の思い出が荷物であることは、フィー、コレット、貴方たちもわかるでしょう」

 中立の位置に立っていた学級長にさえ冷静に諭されて、フィーの頭がくらくらし始めた。疎まれていたのか、わたしは。あの頃の思い出を、ここでの励みにしていただけなのに。

「うるさい!」

 コレットは、違うのと細い声で呟くフィーを庇って手を大きく振った。

「それでも、あなたたちがフィーの大事なものを奪っていい理由にはならないわ! どこに隠したのか言いなさい!」

「……見つけてみろよ。ずっと大事にしてたシュクルリィまみれのお友達が、メレンゲ食いに食われる前に」

 挑戦的に光るマカの瞳が、姿が、フィーにはあまりに大きく見えた。確かにこの瞬間、彼が敵に見えたのだ。

 この亀裂が、彼らを運命に誘うものになる。


「今すぐ探さなきゃ。フィーの大事なものなんだから」

 その日の夜も更けようという頃。マカやコンテ、ほか何人かの、彼の意見に同調した同級生たちが知らぬ間。友人たちと共にフィーを寮の談話室へと連れ戻したコレットが強く主張する。フィーもその意見には同意であったが、しかしもう時間は遅い。

「けど夜中の学校は、『鳥の亡霊』が出るって言うでしょ?」

「そんなものいないわ、夜は誰もいないんだから、こっそり寮を出れば平気よ」

「……でも」

 それでなくとも消灯時間を過ぎても学舎を出歩くのは校則に反する。マカほどの重いものではないけれど、やっぱり違反は怖い。

「大丈夫だよ」

 そっと、瓶の内側に響くような柔らかい声がみんなを励まして言った。

「フィー、ぬいぐるみを取り戻そう。あの子は君のもとにあっていい。あるべきだ」


     ○


 くじ引きの結果で演劇部部長の説得に向かったナンシエたちの苦心の甲斐あって、合議の翌日には講堂立ち入りに合意の返事が生徒会室に届いた。

 点検のための人員は一人であること。部員の邪魔をしないこと。もし点検によってメレンゲ食いの檻が見つかった場合は処分のために人員を二人ほど増やしてもいいが、立ち入った者は公演が始まるまで講堂から出てはいけないということ。以上の条件を守れば公演直前の講堂への立ち入りを許可するとのことだった。

「言わないっつの」

 早朝、舎監室にて、着替えを終えたクレアが片刃の帯を装着しながらこれから向かう場所に対して文句を言う。

「またここに泊まったのね」

「ここの方が落ち着くの、俺は」

 部長の返事を受けて早々に直接の伝達を渡しに訪れていた〈生徒会長〉が、室内の状況を眺めて眉を顰めた。ソファの上には大きめのブランケットが畳んで置かれており、クレアが寮に帰るのを面倒がっていつものようにこの部屋で夜を明かしたことを示していたのだ。

「お蔭ですぐに出動できるだろ」

「今日講堂へ行けばもし檻の対処ができても四日は拘束されるのよ、クレア。できれば万全の状態で臨んでほしいのだけど」

「俺はいつでも万全だよ。俺の仕事は調査だけだしな。もし見つかったら後はキシェや他のやつに任せるさ」

 シャルロットに背を向け、伸びをしながら飄々と言い返すと、それに対してまたシャルロットの顔が曇る。クレアが大丈夫だと断言しても、シャルロットの心配は拭えない。彼女は平気な顔で無茶をするから。

 重い工具鞄を肩に掛け、背筋を伸ばして舎監室を出ていく姿は〈捜査官〉の名にふさわしく。

「じゃ、行ってくる」



「おーい、大丈夫かー?」

 訓練中の事故でアシュレイとフィーが同時に怪我をして医務室へ行った。コンテがマカを連れてアシュレイたちの元へ様子を見にくると二人とも大きな怪我もなくちょうど処置を済ませたといったところで、フィーに付き添ったコレットも加わってまた何かおしゃべりしているところだった。

〈医務官〉がこちらに向けて手を振って歓迎してくれる。

「あれ、クラフは?」

「あいつなら公演準備で戻ったわ。教室ではあんなだけど、演劇部では古株だから色々任されて忙しいのよ」

 幼馴染であるというコレットといても口数が多い方ではなく、ぼんやりとみんなにおしゃべりを任せているクラフティがキビキビ働いているところをあまり想像できない。それでも六年間も打ち込んでいるものがあるのだから、彼にもちゃんと熱が秘められているのだろうとコンテはクラフティを尊敬していた。何度も何かを生み出せる力を持つ、フルール・シュ・セーンっていうのはすげえ。

「黒い布を纏っていて、金色の鎖を首から垂らしてるの」

「それと大きな斧を持ってて……」

「……何の話してんの?」

 いつもの女生徒っぽい会話はどこへやら、なんだか物騒な話をしているのでコンテはこわごわと聞いた。

「ペルシェが鳥の亡霊について聞きたいっていうから説明してたところ。」

「ええ亡霊ってそんなだったっけ?」

「そうよ、あなたが興味ないだけでしょ」

「所詮は噂だろ? そんなのいねえって」

 現実主義的にマカが一蹴する。そっか噂か、と適当に納得しながらも頭の中ではキキーモラみたいなくちばしを持った黒い人影を想像してしまい、軽く身震いした。

「てかそんなのいたらほんとにお化けじゃん。斧って言ったら処刑人の首を落とすやつしか浮かんでこねえし、確か〈執行官〉のシンボルも斧だったろ? メレンゲ食いより怖いな」

「怖いの? コンテ」

 からかいの言葉をかけてきたのがコレットなら強めに押し返したのだが、〈医務官〉が悪戯っぽい顔で覗き込んできたので苦笑いするしかなかった。

「夜の学舎を彷徨う黒い斧の幽霊ね。……あたしはそんなの見たことないけど」

「斧を持った幽霊、だね」アシュレイは念の為そっと訂正を入れておく。〈執行官〉は夜の学舎の巡回を担っていると部長が言っていたから、その彼女が言うのならやはり亡霊の噂は噂でしかないのだろう。

 自分で言って、あれでもそういえばこの特徴、どこかで見たようなとはたと思い至った。夜に学舎を歩くのは。フーンと平坦な相槌を打つペルシェを見ているとその答えに辿り着いてしまって。同時に彼女に視線を遣っていたシュトロイゼルも何かに気付いた顔をしてアシュレイと顔を見合わせた。

「それってもしかしてペル……」

「え?」

「なんでもない」

 アシュレイからの無言のサインでシュトは笑いを堪えながらそっと口を押さえる。

「でも結構昔からある伝聞話だぜ。この学校のことでフェーヴにも知らないことってあるんだ」

「やめなさいコンテ」

 コレットに窘められてごめんと素直に謝るコンテとひっそり笑っているシュトロイゼルを尻目に、アシュレイは考え込むペルシェを静かに観察する。確かに夜の校舎でこの黒づくめの姿が目に映ったら驚くこともある……かもしれないけど。

「いやあ、噂ってのは得てして尾鰭が増えていくもんだなあ」

「見間違えじゃないの、夜中に出歩く、他のお馬鹿さんだったとか。あんたみたいな」

 軽く指をさされてうっと言葉を詰まらせる。昨日のことを見逃してもらっているフィーはお馬鹿さん呼ばわりを否定できなかった。それでもフェーヴを相手にむきになって言い返す。

「そ、そんなことないです。あれはひとの動きじゃなかった、実際に見たんですから!」

「見た?」

 ペルシェがふいに顔を上げて女子生徒を真っ直ぐ見た。その目に何か察したのかコンテが慌てて会話を遮る。

「あっ、フィーまずいってそれは」

「見たって何? いつの事?」

 ペルシェが聞き返すと生徒たち四人の顔が曇り、フェーヴを相手に何と言ったものかとみんなで顔を見合わせる。それは彼らとアシュレイの五人、それから六年生みんなが共有している罪の秘密。実を言うとアシュレイがあらましはフェーヴたちに話しているのだが、彼らはそれを知らない。

「……えっと……」

「……正直に言った方がいいよ。実はね、君たちが中心になったあの事件はまだ続いているんだ」

 口籠る生徒たちにシュトロイゼルが、〈生徒会長〉に口止めされているはずの情報を開示した。

「えっ」

「この前にもあったでしょ、舎監室近くでもメレンゲ食いの大量発生があったって。あれは作為的に起こされた事故、つまり誰かが仕組んだ事件だ。あくまでおれの主観で断言しちゃうけどアシュレイはあれの犯人ではないからね、犯人はまだこの学校のどこかにいる……早く解決したらいいと思わない?」

 フィーはおろおろと周りの友人を伺って、マカとコレットは口を閉ざす。コンテも立ち尽くしたまま居づらそうに息を潜めていた。

〈医務官〉は誰かが沈黙を破るのを静かに待ったが誰も何も答えない。とうとう授業時間の切り替わる鐘が鳴った。

「さ、昼休憩の時間だよ。もう処置は終わってるんだからごはんに行った行った! お大事に」

 けろっと質問を放り捨てたシュトロイゼルは四人の生徒たちをぽんと医務室から追い出して笑顔で手を振った。

「おわっ」

「あ、ありがとうございました」


「やっぱり結束が固いのか、もしくはみんな怖がりなのか。みんな秘密が得意だね」

 シュトロイゼルが部屋に戻ってきて、残されたアシュレイとペルシェに肩をすくめる。しかしその顔は空回ってしょぼくれた表情ではない。

「でも満足そうだ。今ので何か得たんじゃない」

「まあね、収穫はなくはない」

 シュトはペルシェに言い当てられてフフンと息を鳴らす。「生徒の話を聞くことにおいてはクレアに勝てる自信があるんだから」

 まとめてかかって来てくれてもいいよと誰かに挑戦状を叩きつける。誰に? つと、不意に思い至ってシュトロイゼルは棚を開け、両手に乗せる大きさのボウルを取り出した。そこには豆粒大のチョコレートがぎっしり盛られていて。

「はい、アシュレイとペルシェは時間もらうからここで食べてって。なんでもあるよ」

 なんでもあるよと言うが目の前には一種類しか出されていない。シュクルリィさえ摂れれば文句はないペルシェでもこれをちょっとずつ食べるのはまどろっこしくて苦い言葉が口から出る。

「アフタヌーンティーでもこんな一辺倒な出し方ないだろうに」

「これで十分よ」

 シュトロイゼルが何か言う前にベッドが隠されているカーテンの奥から、凛とした少女の声が麦芽チョコレートパーティに参加した。

「あ、出てきた。香りにつられて」

「!? 〈生徒会長〉、ずっとそこに?」

 アシュレイが振り向くとぴったり閉じられていたカーテンがいつの間にか開放されていて、腕を組んだシャルロットが立っていた。

 そういえば怪我の手当をしていた時からかすかに寝息が聞こえていた気がするけれど、ずっとここで寝ていたのだろうか。少しだけ眠たげな学校の最高監督者は、ゆったりとソファに歩み寄ってペルシェの隣の空いた席に優雅に座る。

「話は耳に届いていたわ」

「〈生徒会長〉を加えたプチ会議ならこれは必須でしょ」

 シュトロイゼルはどことなく嬉しそうに頬杖をつき、ボウルをつついて再度お菓子を勧めた。

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