最終話 - 後編 死ぬべきヤツを殺る話し②
車は、ようやく高速道路の本線へ進みはじめました。いつの間にか、口がからからに乾いています。焼かれたダッシュボードの熱気が顔に伝わってきます。
前車も後車もミニバンです。前の家族は、キャンプからの帰りでしょうか。ルーフキャリアには荷物が載せられ、車体には泥が跳ねています。リアウィンドウに、かわいらしい”こどもが乗っています”が貼られ、車内では、フリップダウンモニターに人気アニメが映されていました。
『死のうと思いました』
昨日のことです。夜風が、メリー社長宅の窓を、がたっ、と押しました。
『二度目に娘と離されたとき、こんな自分は…… こんな人でなしは、死んだほうがいいんだと思いました』
人でなし。
彼女は、自分をそう表したのです。
『でも、保健婦さんが、こんな、こんなわたしを励ましてくれて、”娘のために立ち直って迎えに行きなさい”って。”あの子も待ってるんだよ。ママが大好きなんだよ”って。だから、わたしは、こんどこそ生まれ変わろうと決意しました』
枯れた井戸がまた湧くように、彼女の目のふちが波立ってきました。
『……つらい、日々だったんだね』
メリー社長はテーブルに手をつきました。
『市松さん、話してくれてありがとう。そのうえで、もういちどいいます…… 僕と、お付きあいしてもらえませんか』
市松さんが顔を上げました。泣き腫らした目に驚きを浮かべて。
『娘さんが僕に懐くかは分からないし、いろいろ問題があることはわかってる。でも、まずは僕を試してもらえないだろうか。そして、課題をひとつずつ、いっしょに乗り越えていって、できるのなら、いつか三人で生きていけないだろうか。僕は、そういうつもりでいる』
力強い響きでした。これまで幾多の困難を乗り越えてきた男の重みでした。
ふたたび、市松さんの涙が流れました。こんどは、ひきつるように、静かに泣き続けます。
窓が哀しげに鳴ったとき、彼女は顔を上げました。
『ほんとうにうれしいです。こんなにうれしかったのは久しぶりです。昔のわたしだったら、あなたの優しさ、お気持ちに、飛びついていました』
でも、と、彼女は声を絞ります。
『それじゃダメなんです。まず人として精神的に自立できないと、いつまでたってもあの子の母親にはなれないんです。もしかしたらわたし、意地になってる、というか、頭が固いのかもしれません。でも、ようやくわたしは…… しばらくは、このまま、一歩一歩、進んでいきたいんです』
……わかった、と、メリー社長は吐く息で言いました。
『いま、僕がきみを守ろうとしても、きみにとって、かえってよくないのかもしれない……』
『……本当に、申し訳ありません。もういちど言いますが、お気持ちは、心からうれしいんです。なのに、でも……』
『いや、いいんだ』
メリー社長はかぶりを振りました。
『僕の故郷で、きみに気持ちを伝えられた。きみも、自分のことを話してくれた。それで、もうじゅうぶんだ』
こんなにも優しい笑顔を、僕は見たことがありません。
加速させた車が、本線に合流しました。風を切り、景色を置き去りにしてゆきます。
二頭のケダモノを乗せて。
昨夜、僕は眠れませんでした。
灯を消した旅館の天井の木目を見つめていると、そこに広大な宇宙が現れました。
八畳間の壁を取り払って、どこまでも。距離と空間の概念がなくなるほどに。
他に生命は存在しません。僕は独りです。関わりあうものがなければ、身体の意味もしだいに失われてゆくのです。精神だけの僕に。
人に、心をひらいたことなどなかった。この醜い本性を恥じていたから。
理解されるはずなく、それが生きるということだと。人様に迷惑をかけず、気づかれることもなく、それで本望だと。
それが、ここにも、いた。
隣の部屋に、計らずも、同じところから来た生きものが。
いや、涙を流し己の邪悪さを吐露する彼女が、異常癖を隠してばかりの僕には、聖人にすら見えました。メリー社長の告白に触発されてではありましたし、もしかすると、交際をお断りするための、自分を卑下する方便もあったのかもしれません。が、それは僕にとって大事ではないのです。
自分の脆弱さの根幹をさらけだせる人は、強い人です。僕にはできない。
もはや、二十億光年の彼方にたった独り、ではない。この壁の向こうに、隣人がたしかにいるのだと。
気がつけば、僕は空からの日の出を目にしていました。
僕が目にしたその光明を、車内の彼女になんと伝えればいいか、いや、そもそも伝えるべきなのか。わからないままに、伊豆からここまで話しかけることができません。見つからない言葉が、閉め切った車内に充満してゆくだけ。
それが、もうどうしようもない胸苦しさを生み、運転にも支障をきたしかねず、僕は次のサービスエリアに車を入れていました。
エンジンは切らず、何か訊かれる前に、ひと息でいっていました。
「聞いてください。僕は、人を殺したいんです。そういう衝動が、僕にはあるんです」
市松さんが、腫れた目を見開きました。もう、後戻りはできません。
「急にこんなこと、本当にごめんなさい。昨日、市松さんが、メリー社長にですけど、ご自身の身の上を話されて、なんていうか、それを聞いて、僕も、黙っているのがつらくなってしまったんです。でも、決して、市松さんと、異常者である僕みたいなのを一緒にしてるんじゃありません」
ケダモノである僕が、娘を殺しかけた彼女に抱いたこの情念は、おそらく国語辞書にはありません。”恋愛”や”尊敬”とも違うと思います。
この人のことをもっと知りたい、その衝動に突き動かされる一方、こんな告白をしたら彼女にどう思われるのか、と怖く。なのに、口は止まりません。
市松さんは両手を握りあわせていました。こんなときマスクを着けていると、相手の表情が分かりにくく、いっそう恐ろしいものです。
気がつけば、母が亡くなったときの記憶も含め、何もかもをすっかりいい終えていました。熱っぽく興奮する身体に冷たい油汗をかきながら。
「……すみ、ませんでした。いきなりこんなこと……」
クーラーがいっそう唸りをあげます。僕の背中には玉の汗が浮き、べたつくマスクの不快さに、外してしまいたくなります。
こくり、と市松さんがうなずきました。
何もいいません。
逃げたいほどの羞恥心が背筋を這い上がりました。いってしまって、結局何がいいたかったのか。何を期待していたのか。
そう、僕は、期待していました。
つらかったんだね。だれにもいえなかったんだね。わかるよ。
共感。共感です。それは高望みだというなら、何でもいい、何かしらのポジティブな反応を。そうすれば、この忌まわしい身に救いがあるのでは。そう切望していたのです。そして、それができるのは、いま、彼女しかいない。彼女しか……
彼女は何もいわない。
「……不快、でしたか? どう、思いましたか?」
「どう、って……」肩をすくめ、「なんというか、言葉がないです。驚いてしまって……」
それきり、こちらを向きませんでした。
僕は呆けたように車をだしました。よく家まで事故を起こさなかったと思います。
二週間が経ちました。市松さんとは、庭木の剪定やエアコンクリーニングなど、計四回、同じ現場で作業をしました。報連相をのぞき、お互い、何も話しません。何も、どんな変化すらも。あの二泊三日が幻にさえ思えます。伊豆の沖に浮かんだ蜃気楼だったのか、と。
絶対の秘密を、恥ずべき本性を、暴露しまったという後悔、恐れ、羞恥。何事もないからこそ、不安の砂時計はいっそう高く積もります。職場のだれかにバラされたらどうしよう…… 『念のため警察や精神病院にも通報したほうが』陰でひそひそ耳打ちされていたらどうしよう…… 市松さんがつい口を滑らせないとも限らない。そうなる前に……
口を封じねば。
殺すとはいっていません。取引です。わが子を虐待したという彼女の過去を秘密にする代わり、僕の異常癖も絶対に公言しないと、市松さんに約束させる。
来週、また同じ現場で働く機会があります。そのとき、この条件を呑ませねばならない。
自分を鼻で笑ってやりたかった。僕がいるのは、やはり、ずっと、凍える宇宙空間だと、思い知らされました。
市松さんから、LINEが来ました。
[こんどの休みに、少しお時間ありますか? お願いがあります]
逆に彼女のほうから取引を持ちかけてきた。僕は安堵しました。彼女だって、自分の過去をバラされたくはないはずです。
ファミレスで、彼女と落ちあいました。ドリンクバーの飲みたくもないアイスコーヒーを淹れます。手をつけずにいると、彼女が切りだしました。
「わたし、死にたいんです」
……?
聞き間違え? 不意を打たれ、脳が働きません。
「わたしを、殺してくれませんか?」
朝の十時すぎです。
モーニングが終わり、店内にはのんびりとしたひと時が流れています。外の花壇では、早秋の陽に、オシロイバナが薄紫の可憐なフリルを揺らしています。
「なにかの、冗談――」
「本気です」
ふたつ隣のボックス席で、四十代くらいの女性三人が笑っていました。ママ友グループ、というやつかもしれません。PTAの何々さんが、と、大きな身振りで。
市松さんは、背筋を伸ばし、きちんと座っています。緊張した面持ちではありますが、仕事の面接かな、といった程度にすぎません。実際、もし僕らのどちらかがスーツ姿であったなら、何らかの商談や面談に見えたのではないでしょうか。
騙されているのでは、と、僕はあたりを見まわしました。
「ふざけてなんかいません」
彼女は、落ち着きのない生徒を穏やかに諭す教師のようです。
「……死にたい、と?」
「はい」
「……意味が、わからない…… だって、メリー社長に、娘のために生きる、娘を迎えに行く、って。それが、なぜです?」
「……先週、保健婦さんと久しぶりに面談しました」
市松さんは、手もとのカップからダージリンのティーバッグを引き上げます。
「娘は、施設に入所した当時は、不安定で、夜泣きや、おねしょもしていたそうです。それが、最近ではとても落ち着いてきて、そういうこともなくなり、身の回りのこともきちんとやるようになって、お友だちもでき、来年からの小学校もすごく楽しみにしている、と」
母として喜ぶべきであろう内容を、しだいに肩を落としていいます。
「保健婦さんは、娘をとても誉めてくれました。すごく成長していますよ。賢い子ですね、と。たしかに、それはわたしも同感です。あの子は、でき損ないのわたしなんかより、ずっとずっと素晴らしい人間になるんです。わたしが危うく潰してしまう所でしたが、児相の人たちが娘を保護してくれたおかげで、またすくすく育ってくれています。わたしは保健婦さんに、娘と早くいっしょに暮らしたい、と、なんどもお願いしました。ですが、保健婦さんは、今は少しタイミングが悪いと思う、とか、わたしがもう少し余裕をもって仕事ができるようになってきたら、とか、すごく優しい言葉を選んでくれるんですけど、あれはたぶん、娘が首を縦に振らないのだと思います。わたしの元へ帰ることに」
自分には想像も及ばない心の動きに、肯定も否定も返せません。
「わたしには、娘だけが支えです。でも、娘は、わたしの支えになっちゃいけない…… そんな重荷のつっかえ棒になっちゃいけない。わたしがあの子に甘えて、あの子の可能性を奪ってしまう」
「……そんな、ことは、ないんじゃないですか」
僕にもわかります。母親、という存在の大きさは。
「僕の母親だって、世間的に見れば、きっといい母じゃなかった。だけど僕は大好きでした。母が夜中に仕事から帰ってくるドアの音で起きて、そのまま酔って寝てしまう彼女に布団をかけてあげることも。朝になったら自分ひとりで起きて、パンをかじって、寝起きの悪い母を起こす。それだってそうです。
どんな母だろうが、生きていてほしかった。子どもからすれば、自死なんて、間違ってる」
市松さんは、笑みをこぼしました。
「だから、ハンジョウさんに、すごく頼みにくいことを、他のだれにもお願いできないことを、頼みたいのです」
微笑が引いて、その瞳に、真摯な光りが灯ります。
「わたしを殺して、屍体を、だれにも見つからないように捨ててください。そうやって、わたしが自分から蒸発したように偽装してください」
全身を貫かれました。震えはじめる自分の手首を握りしめます。
「やり方はお任せします。バラバラにするとか、どこかへ捨てるとか。そういう知識はありませんか。そして何より、実行力が」
時間稼ぎに、アイスコーヒーのグラスを持ちました。が、こぼしてしまいます。それを拭こうと、テーブルナプキンを、余計に何枚も引き抜いてしまうのです。
彼女を、もういちど見ました。
冗談とは思えず、僕を馬鹿にするでもなく、何より、人が人を説き伏せるときの、身体が前にのめる意気込みがありました。
このおののきは恐ろしさからですが、それだけではないと、僕はしだいに気づいてしまう。
この提案が、たまらなく、耽美でした。
宝くじの一等に当たった、とでもいえば伝わるでしょうか。そんな都合のいいことどうせ起こるわけないよ、ということが起きた。恐ろしいほどうれしい。
「ハンジョウさん?」
「……なぜ、蒸発を装おうと?」
「もう生きる意味がなくなったからです。けど、ハンジョウさんの体験のとおり、母親が死んだ、ましてや自殺したとなれば、娘はさらにショックを受けるに違いありません。というか、自分を責めるかもしれません。自分のせいで母は死んだんじゃないか。生きていてほしかった、と。だったら、逃げて音信不通だとなれば、ショックも比較的少ないでしょうし、育児を放棄した無責任な親を恨み、呆れ、縁を切って、あの子なら立派に生きてくれるはずです。だから、そうするのがベストなんです」
きわめて深刻、という様相ではありません。仕事で教わった手順を自分なりに整理し話しているような、ごくありふれた真剣さです。それが、彼女に根を張った懊悩の底深さのようでありました。
「……百歩譲って、死ぬ、必要は、ないんじゃ、ないですか」
僕はあえぎます。
「娘さんを、諦めれば、いいだけの、話しでしょうが」
彼女はティーカップを両手で持ち、ダージリンティーをひと口飲みました。
「さっき言った通り、娘を手放したら、わたしにはもう希望がないんです。自分勝手ですね。でも、急に自暴自棄になったんじゃないんです。以前から、娘の人生の障害になるのはわたしなのだと、薄々勘づいていました。毒親、というやつです。そんな人でなしの、わがままでめちゃくちゃな願望だから、こうしてハンジョウさんにお願いしました。他の方にはこんなこと頼めません。人を殺したい、っていったあなただからこそです。
失踪を装い、わたしを殺す。そのためのアイディアを出してくださいませんか? そして、実行も」
かちゃり、と、ティーカップを置きます。
もう冷静に聞くことなどできませんでした。テーブルの下で、猛烈に勃起していました。
「本当に、それで、いいんですか?」
彼女がしっかりとうなずくのを確認すると、それが、はち切れそうに痛くなりました。
「お互い、少し頭を冷やしてから…… またこんど電話します……」
――その夜は、めっっっちゃ発射したな。なんどもなんども。あぁヒリヒリするぜ。
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