最終話 - 後編 死ぬべきヤツを殺る話し①

 17年前のあの日は、冬の雨でした。


 昼過ぎからみぞれになり、夜、雪へ。


 五歳のぼくは、窓ガラスが息で白くなるのをおもしろがっているうち、気づきました。


 ――ばぁば。おそとの雨がゆっくりになった。


 祖母はお茶を入れる手を止め、外へ目を細めます。


 ――あら、あれは霙だよ。予報でいってたとおりだねぇ。


 ――みぞれ?


 ――もうすぐ年に何回かの雪になるよ。つもったら、あした保育園でゆきだるまつくれるねぇ。


 ほおぉ、と息をのみました。えほんでしか見たことないゆきだるま。期待にむねをふくらませますが、くらいおそとの道は氷にどろをまぜたような汚さで、ほんとうにこれがあのまっしろなゆきだるまになるのか、と。


 ――にしても、ママは遅いねぇ。


 祖母はアドレス帳をめくって、電話機の番号を押してゆきます。


 ――出ないねぇ。携帯電話っていったって、出なきゃ話しにならないねぇ。


 ママ、まだかなぁ。


 お昼にラーメンをつくってくれた母は、


 ――友達と会ってくるね、夕方には帰るから。


 と、フードのないブルーグレーのコートを羽織り、あもう降ってきた、と傘を持った母の背中が、いまでも記憶にあります。


 母は、まれにこうしてでかけることがありました。ぼくは祖母と留守番。祖母はいつも動きまわっている人でしたので、ぼくは仕方なしに、祖父が遺した夫婦のお猪口をヒーロー対怪獣に見たてて闘わせたり、内容のわからないテレビをみたり。


 それにも飽きてきたころ、家の電話が鳴りました。


 ぼくはといえば、ちょうどヒーローに必殺技をキメさせており、祖母がどのような応対をしたのかはわかりません。


 ――出かけるよ。すぐにジャンパー着て。


 ぼくにマフラーをかける祖母の剣幕に首をかしげると、


 ――病院にいくよ。ママが、ママが、けがしたんだって……


 

 病院で母の亡骸と対面したとき、悲しみも寂しさもありませんでした。頭には包帯、けれども顔には傷ひとつない寝姿。それはあまりにもいつものママでした。いや、それどころか、冷たく硬化した身体は彼女の美しさを永遠に内へ閉じ込め、今思い返しても、どんな大芸術家の天使像や神画もかなわない完璧な存在でありました。


 ――頭のなかの出血量が多く、手を尽くしたのですが……


 全身みどりの服のおじさんが、うなだれる祖母に告げています。


 ――雪の中、発見が遅れたことも災いし……


 大人の話しはどうしてこうも長いのでしょう。死の意味などわかるはずない五歳のぼくは、早くママを家に連れ帰ろう、と祖母の袖を引き、ところが祖母は、帰るのはお骨になってからだよ、というではありませんか。それがどういうことかをよくよく理解し、ようやくぼくは泣き叫びました。ですがそれは、どうして母を美しい状態で留めおかないのか、という、大人たちへの抗議を力いっぱい表したものでした。


 以来、祖母以外の大人が、ますます苦手になりました。


 ぼくを道で見かけるたび、近所の人たちは「おはよう」とか、「遊び行くのか?」と、わざわざ声をかけてきます。他の子はやり過ごすこともあるのに、「おばあちゃんと食べて」と、こちらの迷惑も顧みず果物や野菜入りの袋を渡してくることも。ぼくは、気にかけられ、関心をむけられているようで、それが当時は、いや、いまでさえ、鬱屈でした。それがひとつ。


 大人への嫌悪を燻ぶらせていたもうひとつの理由は、”母を轢いた犯人が近所にいるかも”という、幼稚な疑念でした。そのころ、名探偵の小学生が事件を解決する、あの有名アニメが好きで、ふがいない警察に代わって犯人をぴたり当てる主人公に憧れました。「犯人はこのなかにいる」。「身近な人間さ」という推理を真に受け、母を殺した人間はすぐ近くでのうのうと暮らしている。そう根拠なく妄信していたのです。


「お、ハンジョウくん、おかえり」


 特にこの”黒ずくめの男”は、まさに重要参考人でした。疑いの理由は、事故現場からわずか十メートルの場所に住んでいること。そして、あのアニメの”黒ずくめの男”に似ているからでした。


 どちらも、”探偵のカン”に過ぎません。


 現場近くに住んでいる、といっても、その県道沿いには他にも住宅が連なっています。また、黒ずくめ、も誤りで、この背の高い白髪まじりの紳士が、冬には黒いコートを着、ハットをかぶっていた、というだけのことです。地主で家柄も確か。町内会の役員でもあるこの方がわが家の仏壇にお参りにくると、僕は顔をしかめ、挨拶もせず、その涙だってどうせウソ泣きだろう、と、部屋へ引っ込んでいました。


 そんな幼稚さもとうに消えたころ。


 母の件は時効が成立しました。そしてそのことを墓前に悔いて以降はあまり口にしないままに、やがて祖母も亡くなりました。


 この世を去る前、死期をさとった祖母は、事故当日の母の所持品を、僕に託してくれました。


「本当はぜんぶ、わたしがずっと持っていたかった。持って、あの世へ逝きたかった……」


 病床で箱を抱いた細い指が、鋭い鉤爪に見えました。娘に死なれた女の情念でしょうか。


 衣服、靴、腕時計、ネックレス、ハンドバッグ、その中身の財布や携帯電話、小物類まで…… 壊れたり破れているものもありますが、その日から時の止まったそれらは、僕の血肉です。


 僕は自宅を処分しました。一昨年のことです。


 母が亡くなってから、もう十七年になります。



 西伊豆の海と山に別れを告げ、車は高速に入りました。途中のバイパスが意外にも混み、ここまで時間を要しています。


「サービスエリアに入ります」


 それが、乗車後、市松さんへかけた初めての言葉でした。ラジオの明るいおしゃべりや音楽を車内に招き入れるのも、どうしてか疎ましく、彼女も、貝のように閉じこもっていました。クーラーと車速の強弱。それだけが賑やかでした。


 晩夏の大型サービスエリアは、家族連れで大変な盛況でした。陽光を照り返すミニバンがずらりと並び、小さい子どもが手を引かれながらスライドドアから降りてくるか、あるいはアイスやカラフルなかき氷をこぼしながら戻ってくるかで、さながら遊園地です。


 揃いの地味な作業着の僕らは、無言で車を降りました。横一列の家族を何組か追い越したところで、市松さんが足を止めました。


 その視線を追ってゆくと、自販機と建物のわずかな隙間で、女の子が手の甲を目にあてています。


 泣いていました。建物側をむいているので、この喧騒のなかで周囲に気づかれにくいのでしょう。怖くてそこへ逃げ込んだのかもしれません。


「こんにちは、ひとりなの?」


 市松さんが膝をつきます。女の子は泣きはらした目を彼女へ向けました。四、五歳くらいでしょうか。こくりとうなずきます。


「今日はパパかママと来たの?」


 女の子はぶんぶん首を振ります。市松さんは正座をするように、「じゃあだれと来たのかな?」と、ほほえみます。


「……ぱぱと、ままと、きたの」


 思わず笑いそうになりました。市松さんは、あぁそうかぁ、と、やや大げさに。


「じゃあさ、おばちゃんと、パパママを探しにいこっか?」


 うん、とうなずく、ぐしゅぐしゅに濡れた手を引き、建物へ入ってゆきます。迷子の放送をしてもらうのでしょう。


「まま!」


 雛の鳴き声を聞いた親鳥のように、遠くから女性が振り返って飛んできました。


「〇〇ちゃん!」


 女性は女の子を抱きしめます。女の子は両手両足全開でしがみつきます。どちらも汗まみれでした。市松さんは安堵の笑みです。


「お母さんですか? あぁ、よかったです。そこで、この子が泣いてて」


「ありがとうございます。とつぜん見えなくなって、あっちにもいなくて……」


 女性は少し取り乱しているようですが、固く女の子を抱いています。


 市松さんと女性。


 ふたりは、身長、体格、おそらくは年頃まで、ほぼ同じでしょう。


 そして、娘がいる、という点も。


 なのに、市松さんはいま、子どもを連れてはいません。


 女性は市松さんになんどもお礼を述べ、わが子の重さによろけながら踵を返しました。母親の肩越しに、女の子が市松さんを見つめています。


 その姿が人波に消えるまで、市松さんは手を振りつづけていました。



 エンジンをかけ、そろりと車をだしました。


 窓の外には、ギラつくミニバンの群れと、レジャーからの帰り道がありました。親に手を引かれた子どもたちが、小さな手を上げ、混みあうパーキングエリアをカルガモのように横断してゆきます。そのたびに一時停止するので、車の進みは遅々としたものになります。


「わたしの娘は」


 前車に合わせ止まったとき、市松さんがいいました。


「六歳になって急に背が伸びはじめたって。保健婦さんが。116・8センチ。さっきの子くらいなのかな」


 ぽつりとつぶやいた彼女のまぶたに、いまだ昨夜の泣き腫らしの痕がありました。



『子どものころから、父親によく殴られていました』


 メリー社長宅のダイニングで、目を真っ赤にした市松さんが、訥々と話しだしました。


『暴力には慣れっこだったから、自分も、曲がったことや許せないことがあるとすぐに手をだし、ケンカも日常でした』


 メリー社長が、テーブル上に両手を置いています。


『そんなだから、学校では浮いちゃって、悪い子たちと行動するようになりました。でもやっぱりいろいろ嫌なことがあって、真面目に働こうと、男だらけの世界、料理の世界に入ったんです。そしたら、同僚とか、上司に、その…… 身体を依存するようになってしまったんです』


 僕は冷たいグラスに目を落としていました。メリー社長は鏡面のように表情を変えません。


『気分の浮き沈みもけっこうあって、何人もの人と付き合ったんですけど、そのなかに、優しい人がいて、その人の子を、妊娠したんです。仕事を転々とする人だったんですけど、でも、産みたいと思いました。それくらい好きだったんです。


 出産後、彼は定職についてくれました。でも、給料はギリギリなのに、朝早く出て夜遅く帰る。帰ったら、疲れた疲れた、しかいわず、寝るかゲームするかで、どんどん無気力になって、子どもにも関心を示さなくなり、これは、彼の世話から子育てまで、すべてわたしがやるしかない、と、覚悟しました。


 でも、しょせんわたしも気分屋で、精神的にも余裕がなくて、厳しく子どもを躾けました。いうことを聞かないと、ハンガー、ベルト、おたまとかで叩いてしまったり、洗濯バサミでつねったり…… でも、絶対に素手では殴りませんでした。そうすることで、これは躾けだと言い訳してたんです。わたし自身はさんざん拳で殴られたり、蹴られたりしてましたから。


 それがあるとき、娘の叫び声がすごくて、児童相談所に通報されたんです。でも、児相の保健婦さんはすごく優しくて、わたしの力になってくれました。そのおかげで、娘は保育園に入れたんです。もう叩きませんと誓い、夫とも離婚しました。でも、寂しいのと、働きだしたプレッシャーとで、また物に当たりはじめ、ついには娘を…… 暴力を抑えられなくて娘に触れないようにしなきゃとロープで縛って和室に二日間放置し開かないように突っ張りをしたら娘が絶叫してまた通報されました』


 青ざめた市松さんが、震える手で、ぐびり、と水を飲みました。


『それきり、一年と三か月、児童養護施設にいる娘に、会えていません』

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