最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し⑤
メリー社長の表情は、抜け落ちていました。もういちど、大きく息をつきます。
「まずは、君の心配をとり除かなきゃいけないな。君のいってる、監禁や、どんな犯罪行為も、僕はやっていない」
明暗の分かれた蔵で、ほこりが静かに舞っています。
「君のいう、女の子の痕跡、とは、床にあった小さなゴミのことだよね?」
「……そうです。他にも、開かずの部屋があった。浴室が異様にきれいだった。ここにあった鉈やスコップを運び出した。などは、監禁や…… 犯罪の痕なのではないかと…… それに、この少女のような吉祥天も、その動機に、何か関係があるのでは、と」
「順を追って話す」
メリー社長が、木箱に腰かけました。
「床にあった小さなゴミの件だけど、僕の妹が、僕に内緒で、別の清掃業者にこの家をぜんぶ掃除させたんだ。それがつい先週のことで」
「先週?」
殴られたような衝撃でした。
「うん、時系列でいうと、御社に本件を依頼したのはたしか三週間前。そのことを知らない妹が、業者を呼んで掃除させたのが先週。そして、おととい、僕がこの家に帰省してみたら、家の中が見違えるほどきれいになっていて、まさかと思って妹に電話してみたら、そういうことだった、と知った」
「でも、でもですよ。家の中にはほこりが…… あっ!」
ようやく気づいたのです。
「……あれは、別の家のものだったのですね」
「そう。おととい、僕がすぐそこの、いとこの家に頼み込んで、掃除機の中の紙パックをもらってきたんだ。幸い、というか、交換する直前だったらしく、大量のごみを吸い取った紙パックをね」
メリー社長が最初にトンネルへ案内してくださったとき……
《 古い集落だから、村中、親戚だらけでね。この右手も僕の叔父の家で、その息子、つまり僕のいとこが、跡を継いで住んでる」
「ここもご立派なお宅ですね」
「うん。今でも仲良くしてるんだ」 》
「それを家じゅうにまき、窓にはベタベタと手垢をつけ、あたかも二年間掃除されていないように偽装した。できるだけ自然に、ほこりを踏んで慣らしたりもして。それこそ、君たちが来る直前までね。でも、いとこには女の子がふたりいるから、その子たちの小さなおもちゃや文房具などが掃除機のゴミに混ざっていたのを、僕が拾いきれず見落としたんだね」
清掃作業を開始したとき、僕は、まず以ってこう感じたのです。
《 工程としては、ほこりを吸いとって、廊下や居間などの板張り床にはポリッシャー後に樹脂ワックスをかけ、畳の部屋は畳用ウェットシートで、家具類は中性洗剤を薄めた雑巾で、拭きあげます。
元々がよく手入れされていたお宅であることが明らかになってきました。たとえば廊下に掃除機をかけてゆくと、よく磨かれた床板が現れます。この広い家をおひとりで守っておられたご婦人のお人柄が偲ばれます。 》
床が磨かれていたのは、ご婦人が手入れをされていたからではなく、その数日前に掃除業者が床にワックスをかけたからなのです。僕は、まさか自分の作業直前にすでにワックスがかけられているとは夢にも思わず、その思い込みを捨てさえすれば明らかである施工跡を、見抜けませんでした。
「……昨日の昼食時に、蔵の前で、女の子を見たんです。もしかしてその子が……」
「あぁ、きっといとこの下の子だと思う。よくうちの庭に入って遊んでるらしいから」
「そう、だったんですね…… そうか、浴室が異様にきれいだったのも業者が…… あれ? 他の水回りは?」
「洗面台もピカピカだったよ。でも、昨日、君たちが室内の調査を終えたあと、『浴室がとてもきれいだったので作業対象外とします』といったので、洗面台まできれいになっていることがわかったら、先に清掃が入ったことがばれるんじゃないかと、僕は焦ったんだ」
「……だから、メリー社長が植木鉢で洗面台のかがみを割ったのですね。破片に土もかぶったので、磨かれた痕がまったくわからなかった」
「妹は、トイレを和式から洋式にリフォームするつもりらしい。だから、どうせ撤去するトイレを清掃対象外としたんだそうだ。だから、トイレはそれなりに汚れていたよね」
「リフォーム? 妹さんが近々あの家に住まわれるのですか?」
「いや……」
ためらって、メリー社長は目を伏せます。
「それは、あとで話そう……」
「わかり、ました…… 水まわりのことに話しを戻しましょう。市松さん、キッチンは?」
「……キッチン全体に発泡スチロールやダンボールが積まれていましたし、シンクも野菜を洗ったりした後だったから、気づきませんでした。それほど汚れていないな、とは思ったのですが……」
メリー社長は自嘲します。
「結果的に、キッチンはたまたまカモフラージュに成功したんだな。その他はどうにかして、家じゅうをもういちど汚した、ってこと」
「開かずの部屋は?」
「あの中に、小さな家具をすべて運び入れた。僕が最初に見たときには、どれもピカピカに拭き掃除されていたから。それら全部にほこりをつけるのは大変だと思って」
「だから座鏡台や座椅子などがなかったのか……」
「蔵の中にあった物についてだけど、僕の妹が清掃に立ち会った際、業者に、蔵の中に貴重な骨董品がある、と漏らしたらしく、『それなら鑑定だけでもしてみては?』と勧められたらしい。妹はテレビの鑑定番組が好きでね。その気になって、東京に持ちだしたそうだ。『売るつもりはない。鑑定だけしてもらったら蔵に戻す』といっていたけどね」
僕は思いだしました。昨日、廊下に古い学習机が置かれていた、という話しをした際、
《 「困ったもんだよ。妹のテレビ好きだって未だにだからね」 》
「鑑定のためにすでに運び出されていた…… だから蔵の中に物が少なかったのか……」
「あとはガラクタばかりなことに気づいたのは、つい昨日、蔵を見に行ったときのことだ。さすがに心底、ショックだった。嘘を、また塗り重ねなきゃいけないのかと」
「……昨日の午後、メリー社長が大きな声で話しているのを聞いたんですが」
「そういえば、妹につい電話で怒鳴ってしまったな」
《 ”あれをどこへやった”
“勝手な真似をするな”
“このままじゃ計画が” 》
「そこの人形だって、もちろん吉祥天じゃない。長年、蔵の隅に置かれてた、忘れられたお菊人形なんだ。まぁ、今回それが陽の目を見たのも、妹が貴重品をすべて出してしまったおかげかな。ちゃんと人形供養してやらなきゃね」
僕は力をなくし、あらためて頭を下げました
「大変失礼なことを…… あらぬ疑いをかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「話しの裏付けをとる? いま、いとこの家に電話しようか?」
僕はかぶりを振ります。
「警察じゃないんで。もう十分です…… 正直、本当にほっとしました。話してくださってありがとうございます。ですが……」
僕は傍らに膝をつきました。
「なぜそんなことを? ご実家がすでに清掃済みであったなら、弊社へのご依頼はキャンセルして下さればよかったのに。どうしてそこまでご苦労されて、偽装のようなことを?」
沈黙が、ほこりとともに舞い降りました。物いわぬ収蔵品たちに見つめられています。
メリー社長は、足元に目を落としたままです。
「作業は、あとどれくらい残ってる?」
「……あとは、市松さんに夕食を作ってもらい、全体的な片づけをして、それで完了です」
「……いま、四時すぎか…… いや、夕食の支度はいい。その代わり、ふたりとも、五時半まで待っていてくれないか? そのときに、話すよ」
小さな浜に佇む、市松さんの後ろ姿。
すべての作業を終え、清掃用具を車に積んだ僕は、この海をもういちど見ておきたいと、トンネルを抜けてきました。
彼女も、そうなのでしょうか。
その背中は動きません。空の鏡の下、ただ潮風に髪が揺れています。蒼いまぶしさに目を細めると、彼女が、遥かへ溶けいってゆくようです。
ビーチボールが舞いました。姉が投げたボールが、沖にそびえる入道雲の頂点に重なり、妹が両手を広げて待つ、水平線へと落ちてきます。パラソルの下、両親らしきふたりが、娘の彼方を眺望しています。
ボールが、風に流され、市松さんの元に落ちました。彼女はそれを拾い、妹に渡しました。
プラスチックカップに入れてきた氷水を、僕はひと口飲みました。氷はコンビニのものですが、水は、この村の水道水です。まろやかでくせのない、本当にいい水です。
ふしぎな夏の二日間が、終わります。さらさらと削られてゆく、あの砂山のように。
「少し、散歩しよう」
日射しが焼いたコンクリートが、海風に冷やされてゆきます。まだまだ猛暑と嘆いてはいても、暮れる海辺には、晩夏と早秋の、薄い重なりがありました。
メリー社長は、海とは反対側の、急峻な崖のほうへ歩みを進めます。山伏のように背筋を伸ばして。
そびえるような杉林の中に、あの石段がありました。
「ここは水主(かこ)神社という名前だと、昨日話したね。その名のとおり、ここでは、すぐ近くにある水源の神を祀っている」
「水源? あの水道水の元ですか?」
メリー社長が、鳥居を見上げうなずきます。
「人は、山から湧く水に生かされ、海から来る幸で命をつなぐ。この村の者は、そうして、水を崇めてきた」
山影が、僕の足元に伸びてきました。陽が翳ってきたのです。
「この村が、嫌いだった。いや、いまだって問題だらけだ。昔からちっともよくなってない。だから、僕は都会へでて、帰らないつもりだった。
でも、やっぱり、ここの水を飲んで、炊いたごはんを食べると、なぜだか、泣きたくなる。なんでなんだろう」
山鳥が、寂しそうにどこかで鳴いています。ヒグラシの声も、震えていました。
「僕の母が死んで、家が、からっぽになった。大事なものは無くしてから気づく。そんな月並みな言葉を、この歳になって、ようやく理解した…… いや、違うかな。いままで目をそらし続けてきたものに、ようやく向きあえる年齢になったのかもしれない」
神社は、風雨にさらされ傷んではいましたが、小さな村には立派な社です。その拝殿を見つめる瞳は、叱られた少年のように潤んでいました。
朱色の境内が、夕闇色に塗られてゆきます。
「……さぁ、時間だ。海へ行こう」
まるいまるい夕陽が、燃えつきる寸前の紅い炎で、太平洋へ沈んでゆきます。海も、船も、岩も、そして、だれもいない漁港に立つ僕らにさえ、火を点けながら。
「すごい夕焼け」
瞳までも燦燦と輝かせ、市松さんが陶然といいました。
そのとなりで、メリー社長は、泣いていました。トパーズ色の涙が、頬からマスクへと伝います。目を拭い、濡れてしまったマスクを取りました。
「この夕陽を、見せたかった」
メリー社長が、そのひとへ向きなおり、
「市松さんに」
「そう、でしたか……」
彼女は、長い瞬きをしました。
細かく泡立つ波が、岸壁を洗ってゆきます。海鳥が、濃いオレンジ色のシルエットで、沖を横切ってゆきます。
僕は悟りました。
「気づいて、いたんですね。市松さんは、メリー社長のお気持ちに」
昨晩、旅館の、風呂上がりの休憩室で、市松さんはいいました。
《 「ひとりで住むには、広い家ですよね」
ふと漏らしたようなその意味を測りかねて彼女の横顔をのぞくと、視線が、床をさまよっています。
それは、その日の昼過ぎ、縁側に座っていたメリー社長と、どこか似た様相でした。
そう、人間は、思い悩むとき、よくこういう目をするのです。 》
市松さんは、およそ気づいていたのです。メリー社長の、自分への好意に。
「それが、僕が今回の依頼をした目的なんだ」
もう三十年前になる―― メリー社長は、沖を眺望しています。
「僕は、志を立てて都会へ行き、そして、自分なりに、これまでよくやったと思う…… でも、やはり故郷は忘れがたい。いや、すっかり忘れてはいても、街の水を飲むたびに、実家の水はなぁ、って、ひとり言をいってしまって」
ふっと笑いました。
「でも、故郷の家は、ひとりで住むには広すぎる。もしもだれか、人生のパートナーと呼べる人と住めたなら、蓄えはじゅうぶんあるし、今の会社も、仕事だって、後進にゆずったっていい。そう漠然と思ってるんだと、二か月前、母の三回忌で、妹に漏らしたんだ」
オレンジの潮風が、メリー社長の瞳を拭ってゆきます。
「妹は、泣いて喜んでくれた。もしお兄さんがそう望むなら、こんなにうれしいことはない。自分にできることは何でもさせてほしい、と。法事の帰り際、『家は人が住まないとすぐに傷む。せめて定期的な掃除代金くらい出させてほしい。それに、あの和式トイレは将来的にリフォームしようね』って、酒も入ってとりとめないことをいってはいたんだ。けれど、まさか本当に実行するとは……」
メリー社長は、笑って目頭をおさえました。波間に、かもめが漂っています。
「妻とともに故郷へ帰りたい、なんて、ずいぶん身勝手な願望だけど、そうしたい相手は、うちで料理を作ってくれるようになった市松さん以外に、考えられなかった。自分勝手な気持ちが、どんどん強くなって、もう、どうしようもないほどになってしまった」
僕は己の鈍さを痛感しました。メリー社長は、市松さんに想いを抱いていたのです。
「だからといって、いきなり、好きです、僕の実家に来てください、とはもちろんいえない。でも仕事としてなら応じてくれる。そう思った。家や、村のなかを何泊かで見てもらって、気に入ってもらえたら、帰ったあと、あらためてお付き合いを申し込む予定だった……」
もし断られたとしても、と、メリー社長は彼方へ伸びをしました。
「好きな人に、この夕陽を…… 僕の宝ものを、いちど見てもらいたかった。これより美しいものはない。だから、最初の予定より作業を増やしてもらったんだ」
部長はいっていました。
≪「実は、最初の見積もりでは、三人/日だったんだ。つまり、ふたりで一日半。だから『二日目の昼過ぎには撤収します』といったら、メリー社長、作業を追加してきて」≫
陽はいよいよ沈みかけ、ゆらめく太陽を水平線に投影する海が、しだいに宵の色になってゆきます。それは海原というよりはむしろ、黄泉の国へむかう荒涼たる大地のようでした。
ふと思いました。
メリー社長は、命の湧き水によって坊石にされてしまったのではないかと。
長い旅路からひさかたの故郷へ寄り、その水のうまさに、ここに執着してしまった兄妹。
その兄が、メリー社長ではないでしょうか。
「市松さん」
「……はい」
メリー社長が頭を下げます。
「こんな回りくどいやり方で、しかも小細工までして、それでもなお、僕はきみに、ここへ来てほしかった。でも、そのためにいろいろ誤解をさせてしまい、ハンジョウくんにも申し訳ない。呆れたと思う。こんな自分だから、いつまでも独り身なんだと痛感したよ……」
顔を上げ、想いびとをまっすぐに見つめます。
「でも、僕の、あなたに対する気持ちは、本物なんです」
大粒のトパーズが、市松さんの瞳にもありました。
「市松さん。よければ、僕と、お付きあいしてくれませんか」
夕闇が、碧海の色となり降りてきます。
「お気持ちは、とてもうれしいです。本当にうれしい……」
両手で顔を覆い、彼女はうなだれました。
「でも、でも、お応えは、できません……」
「……やっぱり、僕じゃ…… こんな姑息な男じゃ――」
「違うんです」
嗚咽していました。その激しさは増し、かぶりを振ると、雫となって散りました。
「あなたのせいじゃありません。わたしの問題なんです」
「え?」
声を詰まらせながら、彼女はいいます。
「正直に、打ち明けて、くださった、あなたに、わたしも、正直にお話しします」
立っていられないのか、市松さんは屈みこみました。
その背中に手を置こうとする僕は、意気地がなくて、勇気もなくて、できないのです。
「わたしには、六歳の子どもがいます。でも、いっしょに暮していません」
驚愕する我々の間を、強い南風が抜けてゆきます。
「虐待、したんです。わたしは、自分の娘を、叩いたり、お湯をかけたり、閉じこめたり…… わたしは、母親に、なれなかったんです。だから、一生、あの子のために…… いつか、迎えに行けるように…… それだけが、今のわたしの、生きる意味なんです」
彼女の嗚咽を、宵が闇へさらってゆきました。
――なんてことだ。
僕はうめきました。
心にケダモノを飼っていたのは、メリー社長ではなく、
市松さんだったのです。
波は優しく燃え尽きて、陽は遥かに溶けてゆき、色を失った空では、孤独な一番星が潤んでいました。
- 後編へ -
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