最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し④

 翌日、旅館で朝食を頂いてから、雨の去った漁港に出てみました。


 漁港といっても、市場や加工会社などもない港に船が十隻ほど停泊しているだけです。もう漁の時間も過ぎているのか、岸壁に釣竿を垂らす以外の人影はありません。


 その代わり、遮蔽物のない、広大な太平洋がどこまでも伸びていました。


 見わたすかぎり、靄も霞もない、大パノラマです。空と海が蒼白くひとつになってゆく彼方の沖に、雲の大兵団が連なって、それに加わり損ねたちぎれ雲だけが、僕のすぐ近くを泳いでいます。


「めっちゃSNS映えする」


 アップはしませんが、写真だけ撮りました。


 何十キロ先までも見通せるというのは、すごいことです。ふだんごみごみした狭苦しい街をあくせくとぐるぐる廻っている身からすれば。


 海に向かって伸びをしました。その全身を、新鮮な潮風が洗ってゆきます。きらきらと波打つ白波の水面から、いま、魚が跳ねました。


 こんなにも気持ちのいい朝です。


 なのに、なぜ僕の心は沈んでいるのでしょう。



 二日目の作業にかかりました。


 都合上、一階の廊下を通る機会が幾度もあり、開かずの間の前を通る機会も、またありました。


 白状しますが、僕は思いつくたびに、その扉に耳をつけてみたり、ノックしてみたり、痕を残さない開錠方法を考えてみたり、上下左右の隙間を調べてみたりしました。余計なことは考えない、作業に集中する。そう自分につきつけていながら、実際ちぐはぐなことをやっているのです。


 万にひとつ、中にだれかいるのでは、と思ったからです。そしてそれは、最悪の展開を意味するかもしれません。


 あがいた末、部屋の中にはだれもいないようだ、と至りました。本当にたのし―― 嫌な妄想ですが、異臭もしてきません。


 では、当初は清掃するはずだったこの部屋を、開けてはならない、とした理由はなんでしょう。


 貴重品が入っている?


 可能性はありますが、蔵のある家なのだからそうした物は蔵に入れるのではないでしょうか。


 見られてはまずい物が入っている?


 おそらくこれです。ではそれは? 急に”まずく”なった物とは?


 [午後にはそちらに行きます。何かあれば電話をください]


メリー社長から、メールが来ていました。



 床にワックスをかける作業まで終え、十一時半でした。少し早いですが、昼食に出ました。


 コンビニの駐車場に停めたハイエースに、市松さんが戻ってきました。


「それしか食べないんですか?」


 彼女の手には、サンドイッチだけです。


「……なんか、あまり食欲がなくて…… あれ、ハンジョウさんも?」


 ドリンクホルダーに置いたエナジーゼリーが見つかってしまい。へへ、と苦笑しました。


「なんか、あまり、ね」


 わずかに窓を開けた車内に、むっとする沈黙がたちこめました。あの家に戻って食事をすることに気後れしていたのです。


 やはりあの家には何かある。メリー社長が、何かを隠している。



『彼の妹に娘はいません』


 昨日、そういったあの宿のご主人が嘘をつく必要はないし、勘違いしているとも思えません。


 昨晩、宿の寝床へ入り、港へ寄せる微かな波音に揺られ眠りにつこうとしても、妄想が、それまで抑圧していた無形の影が、ぼんやりと形をなしていったのです。


 子どもが好き、さりとて結婚の機会を逃しているメリー社長は、なんらかの犯罪に手を染めてはいまいか? それも、女の子が関わる事件に……


 ですが、彼がそのような鬼畜だとも思えない、というのも、たとえ仕事上とはいえ、これまで一年以上お付き合いしている僕の、それもまた、印象なのです。


 この世界に、悪人はたしかにいます。ですが、その”悪”とは、人間の性格のひとつです。そして性格とは、隠そうとしたところで隠しきれないからこそ性(さが)なのです。本質的に憶病な人が、たとえどれほど豪胆に振舞ったとしても、どこかで臆病さが滲み出てしまうように。


 ……相変わらずまわりくどいな。なら言い方を変えようか?


 悪である俺から見て、ヤツからは、同じ穴から這い出てきた嫌な臭い。それがしてこねぇ。もしもきれいに隠してるんなら、よほど手強いサイコキラー。それも子どもを、だなんてムカつくぜうらやましいぜ。俺は公序良俗を守って殺るのはR-18と決めてるが、あいつは見境ねぇ業突く張りか? 関わるだけ損だ、仕事だから仕方ねぇが、こんな出張さっさと終わらせて、今後はできるだけ距離をとったほうがいい。



「あそこで食べましょう。ちょうど木陰が空いたから」


 コンビニの駐車場内に、一か所だけである日陰のスペースがありました。が、僕がハンドルを握った瞬間、別の車がそこに滑りこんできたのです。


 あぁ、と悔しがる間にも、夏の太陽は車内のすべてを熱しはじめ、僕の自律神経は即座に、発汗させよ、と命令します。ゆっくり休憩したいのに。


「戻ります、か……」



 縁側で、僕も、市松さんも、言葉なく、口に物を入れました。 漠然と、この家にいたくなくて、散歩してきます、と。


 雨上がりの湿気をぐんぐん吸い込むような、かといって痛いほどの日射しでもない、抜けきった夏空でした。あんなに蒼く透き通った奥に宇宙が広がっているなんて、ちょっと想像できません。ふぅ、と、わざと大きく息をついて、肩と腰を回しながら、トンネルに向かいました。とにかく、美しい景色が見たかったのです。


 どの家も、風除けのためか高いブロック塀で囲われていました。だれにも行き会うことのない白っぽい路地に、砂を踏む自分の足音だけが響きます。狭い四つ叉だらけの村道。それは、人を惑わせる迷宮都市のようですらありました。


 堤防のトンネル出口から、白波が煌めいていました。


 昨日はじめて見たときも、きれいだな、と、思ったのですが、それとは比較にならないほど、海だけを映すトンネルの向こう側の輝きは、巨大な蒼い宝玉です。


 ずっと、じっと、見ていたいのに、あまりのまぶしさに見続けることができません。散り散りの光彩を眺めては、目を閉じ、残像が消えれば、また見て、やはり、そうしてはいられない。それは、まぼろしを記憶に焼きつけようとする徒労でした。


 ため息が出ました。ですが、この心打つ景色に対してだけではなく、胸の底からの鈍色のものが、そこにはわずかに混じっていました。


 気がつくと、横に市松さんがいました。


 彼女も、感嘆の声を漏らすでもなく、同じ海を見つめています。


 おねえちゃーん。


 子どもの歓声が吹き流れてきました。


 少し波が高いようですが、絶好の海日和。夏の終わりの、いい思い出になるのでしょうか。


「室内作業が、もうすぐ完了します。その後、蔵から荷物を搬出します」


 市松さんに、独りごちます。


「部長からは、けっこう価値のある骨董品が入ってる、と聞いています」


 僕は部長の言葉を思いだしていました。


『蔵のなかでも、吉祥天像(きちじょうてんぞう)が、もっとも重要だそうだ』


『吉祥天の像。吉祥天は、簡単にいうと、仏教の神のひとりで、美しい女性だとされている。だけど、如来様や観音様と比べたらマイナーな存在だ。その像を代々、ご神体のように仏壇に祀っていたんだと。珍しい家だな』


『家主がいなくなった後は、仏壇から蔵に移したんだそうだ…… いや、もちろん、仏像の客観的価値というのは、作者、完成度、保存状態などによりけりだよ。だが、少なくともメリー社長はそうおっしゃってる』


 おねえちゃーん。


「女性の像が、蔵の中にあるのですね」


 海風に髪をとかせて、市松さんがいいました。


「それが終われば、いくつか残作業を片づけて、すべて完了です」


 そのとき、僕らは何かの答えを、見るのでしょうか。


 トンネルを突き抜ける風が急に肌寒く、僕は自らをかき抱きました。


「昨日、旅館のご主人と、少し話しをしましたよね」


 市松さんがうなずきます。


「彼に訊き忘れたことがあったな、と」


「……」


「このあたりで、行方不明になっている女の子が、いるかどうか」


 市松さんが、掌を固めました。


 おねえちゃんそれひきょー。


「スマホで調べた限りは、いないです。そういうニュースを見た記憶も」


 いって、彼女がうなだれました。



 いらっしゃったメリー社長のお顔には寝不足、あるいは疲労の陰がありました。


「それでは、蔵から荷物を出す作業にかかりたいので、対象となる荷物をご指示お願いします」


 虫よけスプレーを吹きつけてから、鬱蒼とした、といっていい、まだ雨粒の残るツワブキを踏んで、三人で分け入ります。


 メリー社長が、蔵の前に立ちました。母屋、蔵、伸び放題の椿が、三方向から濃い影をあたりに落としています。


 鍵は、古びた南京錠でした。それを外したメリー社長が、重そうな引き戸を開けます。


 薄暗い、長きにわたり光を拒んできたような内部が、陽に照らされてゆきます。


 思ったよりは物が少ない。


 それが第一印象でした。大人ひとり分ほどの通路を確保するように、中央と壁沿いに物が置かれています。当然のように、あらゆる物が薄くほこりをかぶっていました。


 内部に踏み入ると、涼しい、とはいえずとも、外とは気温差があります。斜めに射しこんだ陽光にほこりが舞いました。マスクを着け直します。


 その先頭を行くメリー社長が指したのは、木箱でした。


「これと…… これ」


 どれもそれなりの大きさだったので、安全確保のために、車までのルート上の雑草をまず草刈り機で刈ってから、指示されたものを、市松さんと運び出してゆきます。


 ハイエースへの積み込みを二往復したところで、次にメリー社長が指したのは、


 鍬、鋤、鉈、土のついたスコップ。


 ――え?


 骨董品では、決してありません。古い農具です。が、自分の個人的な印象がどうであれ、お客様からご依頼されたものをきちんと運ぶことが僕の仕事です。


 と、いうのは建前です。もはや、懸念が顔に出てしまったと思います。メリー社長の顔を伺うと、薄い仮面をかぶったように無表情です。


 鍬は重いので僕が、鉈は市松さんに持ってもらいました。念のため、それとなく鉈の刃に目をやりました。血液、のようなものはついていません。


 農具の後、それから何往復かは、茶箱やダンボール、かなり昔の一斗缶などでした。中身は不明ですが、こういったものに貴重な品を入れておくものでしょうか。


「これで最後」


 薄く沈んだ口調のメリー社長が手を置いたのは、ほこりに覆われたガラスケース。その中には――


 三十センチほどの、ふっくらとした少女、または女性の、人形。


 覗きこんだ市松さんが、へっ、と、息だけの叫びを漏らしました。


 お人形は全身カビだらけで、白いお顔に青あざのような斑点となって浮いています。元は朱色か、くすんだ桃色が主だったと思われる衣は、いまや褪せた柿色へと退色し、その他の部分は色そのものを失っていました。”お人形”といいましたが、もしかすると着色した木像に服を着せたものかもしれません。


「もしかして、これが、吉祥天ですか?」


 異様さに、思わず訊いていました


「……そう、だよ。お願いします」


 医者もさじを投げる病を患い、この蔵に幽閉された、死を待つばかりの少女……


 吉祥天さまに対し罰当たりですが、そのような心象を抱いてしまいます。ですが、その一端は、明らかにこれまで吉祥天さまを粗末に扱ってきた、この持ち主にもあるのではないでしょうか。


 僕も、市松さんも、作業用手袋をはめた手が止まりました。


 本当にこれをお祀りしていたのか? そう訝しむ自分は所詮素人で、やはり文化的価値のある品なのか? それとも、たとえ価値などなかろうが、この家にとってはやはりご神体なのか? それをA市へ持ち帰って一体どうするのか? 


 この家と、少女の像……


 僕は、白い壁ごしにあの母屋を見つめました。


「ハンジョウくん、頼む」


 静かな懇願を思わせる鉄面皮の言葉に、僕の意思は揺れています。


 人は、自らの思い描く理想の自分を、他人に見せます。


 よき夫、正しい母、面白い友人。


 そして、僕ならば、善良で普通の若者。


 そうではない、けれども、そう装うことが、理想への歩みとなってゆくから。


 ならば、メリー社長はどうか。


 彼は、人間になりたいと懊悩する、醜悪のケダモノか。


 わからない。


 ただ僕にいえるのは、たとえ彼がそうだったとしても、『子どもがいれば、その場所には未来や希望がある』『子どもは大人に、ものすごく大きな夢を与えている』と語ったあの眼差しは、本物だった、ということ。


 善人になりたい。今は遠いけれど、いつか。


 それは、心にケダモノを飼う、僕のことでもあります。


 だとすれば、もしも、この哀しい推測が当たっているならば、いま、彼に引導を渡す役目を担えるのは、同じ穴の貉である、僕しかいない。


 鬼畜には、罰と、治療が、必要なのです。


 自分は?


 病院へ行こうと決意しながら、ついに逃げてしまった、殺人鬼かもしれない自分は?



 同じく、ではありませんか。

 たとえ仕事上のお付き合いとはいえ、いや、だからこそ、これまでいいお客様として接してくださり、単純な好き嫌いではない情のある彼を、警察に引き渡して、はい終わり、はフェアじゃない。


 ずっと閉じたままだった宿題の頁を、僕は胸の内に開きました。気道が詰まり、抵抗するように胸が塞がりましたが、しかし、そうしなければならないときが来たのなら。


 仮に彼が犯罪者だったなら、自分にも、けじめをつけよう。


 病院へ行き、すべてを吐露し、胸底に飼っている汚いケダモノを……


「メリー社長、お聞きしたいことがあります」


 腹を決めました。


「女の子が、あの家の、鍵のかかった部屋の中にいませんか? または、いたのではないですか? もしかすると、自由を奪われた状態で」


 隣で、市松さんが、はっと息を呑みました。


 みじんも揺らがなかったメリー社長の目が、驚きに染まります。


 子どもが好き、さりとて結婚の機会を逃していたメリー社長は、女児を、そうしたのではないか。


「家じゅうに、女の子の痕跡がありました。そして、メリー社長の妹さんには、娘はいないそうですね。旅館のご主人から聞きました。なぜ僕らに嘘をいう必要があったのですか」


 もしかして、昨日の昼、庭に現れたあの少女は……


 メリー社長が浴室を異様にきれいにした理由は、屍体を解体した痕跡を消すため。そして、バラバラにし、”開かずの間”で氷漬けにしておいたその屍体を遺棄するために、先ほど運び出した鍬やスコップなどを使った。


 それらの痕跡を、プロの、しかも普段から懇意にし融通の利く便利屋が徹底的に清掃してしまえば、百パーセントではないにせよ、一見は証拠を隠滅することが可能なのです。


 長身のメリー社長が、覗き込むように僕を見ます。挑むような、試すような色をたたえて。


「申し訳ありません。急にこんなことをいって」


 僕は深く腰を折りました。


「でも、もしも、この僕の勝手な想像が当たっていたなら、メリー社長が、僕にとって大切な方だからこそ、見逃すことはできません。それで…… だから……」


「……わかった」


 彼が、ふっ、と息を吐きました。


「……やっぱり、張りぼての嘘は、気づかれちゃうんだね」

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