最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し③

現場の確認作業は順調に進みました。


 ですが、奥へ行くにつれ、たとえようのない違和感が、胸にわだかまってゆくのです。これを、うまく表現できません。


 床や窓枠などに積もったほこりが、なぜだか、奇妙に見える。何が? どのように? それが説明できない。そういった感覚を覚えるのです。


 もっとも、汚れというものは、先述のとおり様々な条件によって姿形を変えます。これまで、ごみ屋敷の清掃などにも携わってきた僕ではありますが、二年間無人の日本家屋という現場は初めてです。従いまして、違和感を覚えること自体がおかしいのかもしれません。


 さりとて、堆積したほこりの上に、メリー社長の足跡がついている床や畳を見ていくと(それ自体は当然のことなのに)やはりどうしても……


 トイレの扉を開けました。一階と二階にひとつずつ、どちらも和式です。


「ここは、ちゃんとした汚れだな」


 妙なことを口走ったものですが、水あかや、わずかな尿の跳ねが経年放置された状態を、どこかほっとしてクリップボードに書き込みました。ふたつの和式トイレ、どちらもがそうでありました。

 

 最後に見終えた二階の、十畳ふた間続きの和室を改め、あることに気づきました。


「家具が、少なかったな……」


「もっと多い予定だったんですか?」


 市松さんに、クリップボードに挟んだ依頼票を見せます。


「事前の聞き取りによると、座鏡台とか、座椅子、小物ラックなどの家具があるはずなんです。そういった物の拭き掃除が発生する予定だと。でも、なかったですよね?」


 市松さんが首肯します。


「大きな衣装箪笥とか、古い学習机は一階にありましたが、そういった家具類は、わたしも見なかったですね」


「まぁ、お客さんの記憶違い、ということもありますからね。これもあとでメリー社長に確認しましょう」




 庭に出て、軒先で作業順序を確認していると、メリー社長のベンツが入ってきました。


「曇ってるけどやっぱり暑いね。熱中症に気をつけてね」


 スポーツドリンクを二本頂きました。


「ありがとうございます」


「部屋は確認できた?」


「はい。いくつか確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


「いいよ。じゃあ、むこうのトンネルで話そうか。風が通るから」


「トンネル?」



 家屋を出、三人は村道の角を折れていきます。


「古い集落だから、村中、親戚だらけでね。この右手も僕の叔父の家で、その息子、つまり僕のいとこが、跡を継いで住んでる」


「ここもご立派なお宅ですね」


「うん。いまでも仲良くしてるんだ」


 やがて、松の茂る高さ四メートルほどの盛り土が、横一直線に見えてきました。


「……あれは、土手ですか?」


「あれはね、防波堤なんだ。昔の人が土を盛って、松を植えて。だから全ての住居は堤防のこちら側にあるんだ」


「ということは、堤防で見えないですけど、この向こうが海なんですね」


「そう、そしてあれがトンネル」


 堤防をくりぬいた、軽自動車一台がやっと、という穴が見えてきました。全長は数メートルほどしかなく、その向こうには白波が。


「うわ、素敵」


 市松さんが、思わず、といった声をあげました。


 出口に向かって緩い下り傾斜になっているので、抜け出た先に空はなく、陽光を鮮烈に散らす海だけがさざめいているのです。トンネル内部の暗さと、まぶしくきらめく波の色とのコントラストは、さながら円形にくりぬかれた青い宝玉です。


 はるか沖から渡ってきた潮のかおりがトンネルを抜け、首筋の汗をすーっとさらってゆきました。


「涼しくて、いい景色」


 市松さんが目を細めます。


「晴れていたら、トンネルの向こうにもっと海がきれいに見えるんだ」


 僕も感嘆するばかりです。


「ここに椅子やゴザを持ってきて涼む人もいてね。それでアイスなんか食べたら、もう最高の贅沢だよ」


「夏休み、ってかんじです」


 仕事を忘れたかのような市松さんのつぶやきに、僕も賛同します。


「じゃあ、これいただきます」


 僕はマスクを外し、スポーツドリンクに口をつけました。夏の味でした。冷たいボトルがかいた汗が、ひときわ強い風に拭われてゆきました。


 後方から、ペタペタというサンダルの音。


 振り返ると、水着の上にTシャツを着た姉妹らしきふたりが、浮き輪を持ってこちらへ走ってきます。小学校低学年くらいでしょうか。僕らの横を抜け、ぺたぺたをトンネルに反響させながら、きゃはーっと、海へ。


「近所の子だ」


 メリー社長の瞳が、愛おしそうにふたつの背中を追います。


「漁港の横に、狭いけど浜があってね。昔、僕が小さかったころは、たくさんの子ども達が泳いでいたんだ。でも、この村も過疎化になって、子どもの姿もめっきり減ってしまった」


「こんなにいい所なのに」


 市松さんが残念そうにいいます。


「でしょ? いい所なんだよ。そういってくれてうれしいな」


 メリー社長は声を弾ませましたが、


「でも、僕なんかまさに、長男なのに家を出て行って、おまけにこの歳まで結婚もしないんだから…… さっき、僕のいとこの話しをしたけど、彼はちゃんと家を継いでるのにね……」


 力をなくしていい終えました。


「でも、まだまだお子さんもいるんですね」


「そうだね。『子はかすがい』というけれど、村や県、ひいては国においても同じことがいえると思うんだ。多少の問題があっても、子どもがいれば、その場所には未来や希望がある。ここで大事なのは、その”未来や希望”ってやつを、大人たちのほうが信じて生きていける、ってことなんだ。つまり、子どもは、大人に、ものすごく大きな夢を与えてるんだ」


「子どもが、大人に、夢を与えている?」


「そう、もしも子どもがいない社会だったら、を想像してみて。きっと、理屈以前にみんな暗い気持ちになる。未来や希望なんて、っていう口ぐせが、ただ子どもがいないだけで、でるようになる。だから、人間が安心して暮らすための基礎として、多くの子どもたちが健康に育っていくことがどうしても必要なんだ。僕はそういう思いで、教育事業からアミューズメントまでをやってきたんだ」


「素晴らしいお心だと思います。その通りだと思います」


 社交辞令でなく、彼を心から尊敬します。どこのだれとはいいませんが、殺した女たちを隣同士に埋めていくのが夢です、なんてキチガ―― 何でもありません。


 市松さんにいたっては、目を潤ませているようにも見えます。



 港に寄せる波音を聞き、飲物を半分ほど飲んだところで、


「食材は、もう買って頂いたのですね。キッチンを拝見しました」


「うん、久しぶりにこの辺のスーパーとか道の駅に行って、僕の好きなものを手当たり次第に買っちゃったよ。市松さんには余計なことをしちゃったかな?」


「いえ、逆にお好きなものを指定して頂いたほうが、わたしも作りがいがあります」


「夕食、楽しみだなぁ」


「……あと、他にですね――」


 クリップボードに目を落とし、本題に入ります。


「浴室がとてもきれいだったのですが、ご自身で何か清掃などされたのでしょうか?」


 ほんの一瞬、彼が、おそらくは、言葉を失いました。


「うん、素人なりにやっておいた。風呂掃除は好きなんで」


「……わかりました。では、浴室は作業対象外にしたいと思うのですが」


「うん、いいよ」


 何故あそこまで念入りにやったのか? を追及するつもりなどありません。その理由も必要もないからです。


「それから、当初伺っていたよりも家具が少なかったようなのですが……」


 メリー社長が、無言で先をうながします。


「鏡台、座椅子などが、見当たらずでした。それらを拭き掃除する予定でいたのですが」


 しだいに、顔つきが温もりを失ってゆくように……


「そういうものはもう無いんだ。だいたい処分したようで」


「承知しました。では衣装箪笥など、残っているものについては、清掃を行います」


 首肯したメリー社長が、「洗面台は見た?」


「……せんめ? あ、いわれてみれば、見当たりませんでした」


「やっぱりそうか。いや、いい忘れちゃったなと思って」


「……?」


「台所の奥に扉があって、その向こう側にあるんだ。でも今、台所に食材とか、けっこう物を置いちゃってるから、扉を見落としちゃっただろうな、と」


「そうだったんですね…… ん? 台所のドアの向こうに洗面があるのですか?」


「造りとしては別に変じゃなくて、昔の家だから、浴室と洗面が離れてるんだ。それで、その洗面などがある短い廊下が、台所から行くルートと、学習机で塞がれちゃってる扉から直角に行くルートの、二通りあるんだよ」


 トンネルの壁に指でスッスッと線を描きます。


「あぁ、ありました、一階に古い学習机が。あの裏が扉だったんですね」


「僕の妹が子どものころ使ってた机なんだ。でも勉強なんかぜんぜんせず、テレビばかり観てる子でね。あんな場所に移動させて、それきり捨てもせずなんだ。でも、おふくろも、扉がふさがれて不便だとは思ってなかったみたい」


「古いお宅ではよくあることです。思い出といっしょに物も溜まっていきますからね」


「困ったもんだよ。妹のテレビ好きだって未だにだからね」


 僕は作業依頼票に書き込みます。


「承知しました。あとで洗面台も確認してまいります」


 ついでのように、核心に入ります。


「あと、これは作業とは直接関係ないのですが。お子さまが、たとえば親戚のお子さまが、家のなかに最近入られましたか?」


 凍ったように、メリー社長は何の挙動も見せません。


「というと?」


「……ビーズとか、かわいいクリップとかが落ちていたものですから」


「……作業には関係ないんだよね?」


 浅はかな質問をしたのでは、と思いました。上客の気分を損ねてしまったかもしれない、と。


 家とは、当然ながら人にとって最も私的な空間です。そこに立ち入って作業をさせて頂くからには、プライベートを冒すような言動は業務上最小限にとどめなければなりません。


 プロとして、それを当然理解していながらも――


 この家には何かある。


 二年間無人だという家。


 にもかかわらず床にあった女の子の痕跡。


 子ども好きなメリー社長。


 開けるな、と、方針変更されたひと部屋。


 異様にきれいな浴室。


 そして、表しようのない全体的な違和感。


 それらが指し示すものを、僕の頭はぼんやりとでも形にしようとしていました。


 が、いまは、慌てて言い訳を連ねるべきです。


「まったく関係なくもないんです。お子さまがいるご家庭では、どこか見えづらい箇所に落書きがあったり、壁に傷などがあったり、そういった可能性もありますので」


 メリー社長が、中空に視線を据えました。


「僕の妹の娘かもしれない。妹も合鍵を持っていて、東京に住んでるんだけど、専業主婦だし、時間はあるんだ」


「たまにご実家に戻られることがあるのですね」


 納得した、というよりも、信じたい、あるいは、疑念を排除できる材料しか見たくなかったのです。


「ありがとうございました。それでは、作業に着手します」


「そうだ、お願いがあるんだけど。僕の車のトランクにクーラーボックスがあるんだけど、それが重くてさ。中にお茶とか酒とかの飲み物といっしょに、氷もぎゅうぎゅうに詰めちゃったものだから。それを台所に運び入れてくれないかな?」


「わかりました。やっておきます」


「車の鍵は開いてるから。それから、中の飲み物は自由に飲んで」


「ありがとうございます」


「じゃ、僕はひと足先に戻ってるから。適当に休憩したら、またよろしく」



 スポーツドリンクを飲み終え、家に戻りました。


「雲行き、ちょっと怪しいですね」


 歩を進めながら、市松さんが空を見上げます。


「夕方からひと雨くるみたいです。さっき海に走っていった女の子たち、目いっぱいは泳げないかもしれませんね」


 あの立派な門をふたたびくぐると、メリー社長のお車がありました。トランクを開け、大きなクーラーボックスを抱えます。


「おもっ。市松さん、車のトランクを閉めて、家の玄関開けてください」


 力仕事は、もやもやとした気持ちを切り替えてくれます。お客様への余計な詮索を蹴散らし、クーラーボックスをキッチンに置きます。


「よしっ。じゃあ市松さん、さっき確認しそびれた洗面台を見に行きま――」


 ふいに、ガラスの割れるような音がしました。市松さんの短い悲鳴も重なり、ガシャガシャと何かが崩れてゆきます。


「なんだ? どこだ?」


「あの扉の向こうじゃ――」


 駆け寄ると、先刻見た際にはたしか段ボールやポリ袋が重なっていた場所が空けられ、壁と同色の扉がありました。引き戸を力まかせに開け、薄暗い廊下に踏みこみます。


 数メートルも行かない床に、ガラス片、茶色の破片、赤茶色の土が散乱していました。そしてその中心に――


「メリー社長! どうしたんです!? お怪我は!?」


「うう、だいじょう、ぶ。どこも怪我してないけど、びっくりしたぁ」


「……これは」


 床を見れば、ガラス片は鏡、茶色の破片は植木鉢、赤茶の土は植木鉢の中身だと思われます。


「……これが、例の洗面台なんだ」


 たしかにそうと分かる什器がありました。が、セット面の鏡は割れ、それが洗面ボウルや床に散っているのです。


 メリー社長が、額をおさえ天を仰ぎました。


「この洗面台の周りに物がいっぱい積まれていて、君たちの作業に邪魔だと思ったから、どかしていたんだけど、この鉢を持った時に、脚立に脚を引っかけてしまって……」


 たしかに、低い脚立が傍らにあります。


「ほんとにお怪我はないですか?」


「うん、どこも…… 怪我はないな。土まみれだけど」


「頭も、念のため見せてください」


 ガラス片のない場所まで移動すると、背の高いメリー社長に膝をついて頂き、市松さんが頭皮を改めました。


「出血はしていないです。でもわたし素人なんで、もし、病院に……」


「いや、ほんと平気。どこも痛くない」


 僕もほっとしました。


「メリー社長、どうせ清掃しますので、ここは片づけておきますよ」


「……じゃあ、シャワー浴びてくる…… すまないね」


 メリー社長が行かれると、市松さんに、


「じゃあ、まずここからやっちゃいましょうか…… 破片と、土だな…… 大きな破片だけ拾って、あとはバキュームで吸っちゃうか…… ハイエースに戻りましょう」

 

 イレギュラーだった清掃を終え、予定業務にかかりました。


 掃除機をかけながら床に目を凝らすと、ほこりや毛髪のほかに微細なゴミも落ちています。いや、それ自体は当然なのですが――


 揚げ物(唐揚げ?)の衣かす、シャーペンの芯、プラスチックの真珠(おもちゃ?)、ビーズ、どんぐり、細く切られた緑色の紙(折り紙片?)、ボタン電池、消しゴムのかす……


 これが九十歳だった方の生活痕か……


 さりとて、先ほどメリー社長からお答え頂いたように、この家にお子さまが上がる機会もあったのです。その際に落ちたゴミではない、と、どうしていえるでしょうか。


 たまたま目に入った点を線で結んだ与太話を創作している時間はありませんし、仮に、家主の生活様式にそぐわないゴミがあったとして、それがなんだというのでしょう。






 無心で作業をしてみれば、進捗はきわめて順調でした。


 清掃の基本は、奥の部屋から入口へ向かい行っていくことです。つまり玄関前などの出入りが多い場所は最後に。工程としては、ほこりを吸いとって、廊下や居間などの板張り床にはポリッシャー後に樹脂ワックスをかけ、畳の部屋は畳用ウェットシートで、家具類は中性洗剤を薄めた雑巾で拭きあげます。


 元々がよく手入れされていたお宅であることが明らかになってきました。たとえば廊下に掃除機をかけてゆくと、よく磨かれた床板が現れます。この広い家をおひとりで守っておられたご婦人のお人柄が偲ばれます。


 汗まみれの腕時計を見ると、十二時近くになっていました。


「市松さん、昼休憩行きましょうか」


「はい、あの、メリー社長から差し入れ頂いたクーラーボックスの中身、飲んでもいいでしょうか?」


「あ、そうですね。頂いたんですから、飲みましょう」


 大きなクーラーボックスを開けると、飲み物と氷がぎっしりと詰まっています。底が見えないほどに。


「あ、お茶だ。すごい冷えてる」


 市松さんがペットボトルを頬に当てます。僕も同じものを開けました。



 車に乗り、国道へ出て、直近のコンビニへ。そこで冷たいうどんとパンを買い、家に戻って、縁側で食べました。メリー社長のお姿はありません。


「縁側でお昼食べるの、いいですね」


 市松さんは、おにぎりとアイスコーヒーです。僕はうどんをすすっていました。


「ふぉんと。ですね」


「ここ、いいところですね。わたし、田舎好きです」


「ふぉうなんですか?」


「若いころは都会が好きでしたけど、なんか今はもういいや、って。いま住んでるA市でもう限界です」


 A市だって、東京に比べたらだいぶ田舎ですよ。そういった軽口をいうことが、苦手です。


「天気、やっぱり悪くなりそうですね」


 市松さんが空を仰ぎました。



 雲の色が、濃くなってゆきます。スマホの天気予報を開くと、


「十七時から雨の予報ですね。今日の作業がちょうど十七時までなんで、それまでは降らないといいんですけど」


「作業順序変えますか? 降りだす前に蔵から荷物を出したりとか」


「そうだ、蔵があるんですよね。あっちかな?」


 庭の奥。そこでは背の高い夏草や、伸び放題の松などが、隙のない影を落としていました。その先、母屋に沿って直角に曲がれば、蔵があるのでしょうか。


「雨は夜中に止むようですし、家の清掃が中途半端な状態なので、予定通りに進めましょう」


 了解です、と、アイスコーヒーをあおり、市松さんが立ち上がりました。


「わたし、ちょっと漁港を見てきます」


「はい、作業は一時からで」


 市松さんが行くと、僕は部長へ、午前中の業務実績を簡単にメール報告しました。


 蝉の声が、カーテンのように降りています。


 その幕を、時おりかすかな波音が揺らします。


 人や車のあらゆる人工音は止み、家主を失ったこの縁側にひとりいると、まるで、人間が去った世の音を聴いているようです。


 ふいに心地いい眠気が、打ち寄せました。


 引いてゆくさざ波に身をまかせ、少し目をつむろうとした、そのとき――


 ガサガサと、庭の奥で音が。木の葉が、風ではないものに擦られています。


 あまりにも、人はおろか、生きものの気配すらなかったので、驚いてしまいました。


 猫? あ、メリー社長かな?


 気にかかり、音のほうへ向かいます。


 ツワブキを踏み、夏草に分け入って、庭の奥を直角に曲がると――


 女の子が、たったいま蔵から出てきたように、扉の正面に立っていました。


 顔も服装も夏草と椿の葉でほとんど隠れていますが、濃い黒髪は長く、五~八歳くらいかと。草を鳴らして来た僕に、はっと気づきます。


「あ、僕は――」


 女の子はくるり向きを変え、蔵と母屋の間を猫のように逃げてゆきます。


「あぁあの――」


 殺人願望の異常者だが怪しい者ではない、と伝えたかったのですが、叶いませんでした。


 彼女がいたあたりまで来ると、”なまこ壁”と呼ばれる蔵の壁面が目に留まります。白い漆喰ですが、日当たりは悪く、ツタが這い、苔付いて、草むらに潜むような古びたその建屋を、見上げます。


 ほんの十メートル向こうの縁側とは別世界の気味悪さでした。



 午後の作業も順調でした。市松さんと、手垢の付着した窓を拭きあげてゆきます。


 二階の窓を開け放ったときです。


「ん?」


 彼女の手が止まりました。


「どうしたんです?」


「……いま、だれか―― 叫び声みたいな」


 要領を得ず、訊き返そうとしたそのとき――


”あれをどこへやった”


“勝手な真似をするな”


“このままじゃ計画が”


 聞こえます。蝉しぐれの幕間に。近くはない村内のどこかから。


 叫び声、は誇張かもしれません。耳を澄ませば、という程度なので、大きめの声、が正しいでしょうか。


 しかしながら、それを発しているのは――


「メリー社長、ですね、きっと……」


 声は止みました。


 秘かな森の中で動物が一瞬鳴いた。そう、ふと幻じみた音でした。



 メリー社長が、どこか視線の定まらない表情で、縁側に腰かけていました。


 二階の窓清掃を終え、バケツを持って階段を降り、縁側のある廊下を通ったときです。


 彼は、頭を抱えようとしたのか、両手を髪へ持っていったのです。そこで僕の視線に気づきました。腕を下ろして立ち上がり、僕も、作業中に通りかかっただけ、の顔で、(実際そうなのですが)廊下を通りました。


 やはり、電話でだれかと口論していたんだ。その程度にしか思いませんでした。


 別室で作業をしている市松さんに、


「市松さん、十五時になったら休憩して、そのあと調理の準備にかかってください」



 十五時。僕も休憩しようと庭に出ると、そこに市松さんと、メリー社長。


「休憩するの? よければ、少しだけ村を案内しようか」


 門を出たメリー社長は、海とは反対側の急峻な崖のほうへ歩みを進めます。僕と市松さんがその後ろに。ブロック塀と四つ叉だらけの細い道をゆきます。


 このあたりの地形は、どうやらほとんど平地というものがありません。海から上がるとすぐ急坂になり、それが緩やかなわずかな土地には家々がひしめきあっています。そこからさらに登れば、あとは手つかずの山。急傾斜に負けじと、杉の木々が伸びていました。


 沢の音がしました。


 覗くと、急な小川が、我々と歩みとほぼ平行に流れています。刻々と落ちる木漏れ日を弾き返し、きらきらと。


「ふぅ。気持ちいいですね」


 市松さんが、わずかに息を弾ませます。


 誰もいない、静かな森。民家からわずか五分です。


 メリー社長が、足を止めました。


 苔むした石段があり、それを数メートル登った中腹に、年月を経た鳥居。額の文字は消えかかっています。


「ここは、みずのぬし、と書いて、水主(かこ)神社というんだ。もう少し頑張って、この石段を登ってみようか」


 登りきった境内は、四方を木々に囲まれながらも意外に広く、さながら森の中に設けられた舞台です。


 大木の切り株で作られたベンチがあり、我々は腰を休めました。


「ここからも海が見えますね」


 市松さんがうれしそうに見つめます。


 濃いみどりを通して見る海も、とてもきれいです。波音は届きません。葉擦れと、山鳥の鳴き降ろしがするばかりです。


「この場所も気持ちいいでしょ。って、やっぱりさっきと同じで、景色は海なんだけどね」


 メリー社長が苦笑します。


「素晴らしいです。いろんな海が見えて」


「よかった。ほんとになんにもない村だからさ。観光地なんてもちろんないし、他に大して案内する所もない。ないものだらけなんだ」


「ないものだらけでいいと思います」


 市松さんがタオルで首を拭い、「街にはいろいろあるけど、必要ないものも多いし、ありすぎるのも嫌になっちゃって」


「そう思う?」


「はい、都会でアウトドアが趣味の人って、まさにそうじゃないですか。わたし思うのですが、田舎だって、有名な観光地では、こういう名所があるよ、とか、こういう遊びがあるよ、とか。でもそれって、街中といっしょなんですよね。でもわたしは、もし旅行に行くのなら、できるだけ無いほうへ無いほうへ。そういう場所に行きたいです」


「なるほどねぇ」


「は、すみません。あたしベラベラと……」


「いやいや、面白い話しだ。僕はアミューズメント事業をやってるから、おもてなしには興味あってね。チャンスがあれば観光業もやってみたいと思ってる」


「わたしの話しなんて、つまらないでしょうから……」


「いや。もっと教えてほしいな」


 メリー社長は、ご自身の両膝をぽんと叩きました。


「そう、ですか……」


 タオルを外した市松さんが、


「……わたし、”なんにもない”って、PRの仕方によっては、すごい魅力的に感じる人もいるかも、と思って。海以外なんにもない。とか、山と温泉以外なんにもない。とか。引き算というか、あえて前面に出す観光地があってもいいんじゃないかって」


「それいいかも…… 市松さんは面白いね」


 海のような微笑を浮かべました。



 十七時。本日の作業を終え、手を洗って居間へ入ると、ダイニングテーブルには、魚のカルパッチョ、煮つけ、刺身、貝の味噌汁が。


「さ、座ろう」


 メリー社長が僕たちをうながし、作業着にエプロン姿の市松さんも食卓へ。


「お口に合うかどうか……」


「ささ、まずは一杯どうぞ」


 メリー社長が缶ビールを開け、三つのグラスに注ぎます。


「あ、いえ、僕はこのあと旅館まで運転して行くので、お酒は……」


「旅館はすぐそこ、漁港の目の前だから、ちょっとぐらい飲んでも大丈夫だよ。何なら車はここに置きっぱなしでいいから」


 そうお誘い頂き、やはり夏の誘惑には勝てず、お言葉に甘えてちょっとだけ、とグラスを持ちました。もちろん市松さんも共犯に、です。


「ふたりとも、今日はおつかれさま。明日もよろしく、乾杯」


 

 カルパッチョはアジ、刺身はタイとサザエ、煮つけはブダイ、味噌汁の貝はフジツボだと、市松さんが説明します。


「フジツボ? フジツボって食べられるんですか?」


「ネットで調べたら、このあたりの人たちは食べるそうなんです。実際こうやってお味噌汁にしてみたら、いいダシが出て、おいしいんです」


「そうなんだよ」


 メリー社長がフジツボの裏側を箸でつついています。


「子どものころは食べ過ぎて嫌いだったけど、この歳になると美味いなぁ。こうやって、裏から身をだして食べるんだ」


「へえぇ。この煮つけのブダイというのは?」


「このあたりだとよく獲れる魚で、でも食べ慣れてない人は、磯臭くて嫌だ、って残しちゃうんだけど、僕は好きなんだよね。特にこうやって、ちゃんと処理をして煮つけなんかにすると、おいしいんだ…… って、どうかな?」


「おいしいです。臭さはぜんぜんないですね」


 市松さんが、両手を小さくグーにしました。


「観光で伊豆にくる人なんかは、アワビとかキンメダイとかが好みかもしれないけど、僕はこういう地元の大衆魚というか、県外にはあまり流通してないものが、やっぱり好きなんだよなぁ」


「本当にいいところですね、ここは。どこでも波の音がするし、潮のかおりも」


「……昔は、いいところだなんて思えなかった」


 メリー社長が、ビールグラスを置きます。


「海があってどこへも行けない。海に閉じこめられてる。そんな風に、海を、窮屈さの象徴みたいに感じてて、島流しの罪人じゃないけど、長男のおれはここで一生を終えるのかなって、すごく嫌だった」


「……わかる気が、します」


 市松さんが箸を置きました。


「わたし、A市育ちですけど、同じようなことを思ってました。だからメリー社長のお気持ちは、もっと強かったんだろうなって」


 市松さん、僕と同じA市育ちなんだ……



「ハンジョウさん、白ごはんも食べてみませんか?」


 市松さんが、湯気立つ茶碗を差しだします。


 ひと口いただいて、「おいひいえす」


 メリー社長に用意して頂いたお米は、ふっくらと、あまみがあります。


「いいお米なんですか?」


「いやいや、お米はふつうだよ」メリー社長も茶碗を持ち、「いいのはね、水のほうなんだ」


「ミネラルウォーターで炊いたとか?」


 メリー社長はにやりと、「ただの水道水。でも、元は湧き水なんだ。あっちの山のほうに水源があって、それを村に引いてきてるんだ」


「わたしもさっき飲んでみて驚きました。湧き水で炊いたごはんだからおいしいんですね」


 市松さんもはじめての出張で疲れたのでしょう。茶碗一杯を食べきりました。


 お代わりもし、いい気分にもなってきました。メリー社長の頬にも赤みが差しています。


「お茶もコーヒーもごはんも、この水だとほんとにおいしいんだ。っていうか、都会の水を最初に飲んだ時は、臭くて嫌だったなぁ」



 伊豆の伝説 坊石

 昔、旅をしていた一家がこの近辺で休憩をとった。兄妹が川のほうへ行ってみると、一匹の蛇が「こっちにおいしい水がある」と、ふたりを案内する。蛇に連れられ行くと、たしかに湧き水があり、飲んでみれば、疲れが吹き飛ぶほどうまい。おいしいおいしいと、なおもそこで休んでいると、蛇がふたりを石に変えてしまった。


 あれ、急にこの話しを思いだしたぞ。

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