最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し②

現場の確認作業は順調に進みました。


 ですが、奥へ行くにつれ、たとえようのない違和感が、胸にわだかまってゆくのです。これを、うまく表現できません。


 床や窓枠などに積もったほこりが、なぜだか、奇妙に見える。何が? どのように? それが説明できない。そういった感覚を覚えるのです。


 もっとも、汚れというものは、先述のとおり様々な条件によって姿形を変えます。これまで、ごみ屋敷の清掃などにも携わってきた僕ではありますが、二年間無人の日本家屋という現場は初めてです。従いまして、違和感を覚えること自体がおかしいのかもしれません。


 さりとて、堆積したほこりの上に、メリー社長の足跡がついている床や畳を見ていくと(それ自体は当然のことなのに)やはりどうしても……


 トイレの扉を開けました。一階と二階にひとつずつ、どちらも和式です。


「ここは、ちゃんとした汚れだな」


 妙なことを口走ったものですが、水あかや、わずかな尿の跳ねが経年放置された状態を、どこかほっとしてクリップボードに書き込みました。ふたつの和式トイレ、どちらもがそうでありました。

 

 最後に見終えた二階の、十畳ふた間続きの和室を改め、あることに気づきました。


「家具が、少なかったな……」


「もっと多い予定だったんですか?」


 市松さんに、クリップボードに挟んだ依頼票を見せます。


「事前の聞き取りによると、座鏡台とか、座椅子、小物ラックなどの家具があるはずなんです。そういった物の拭き掃除が発生する予定だと。でも、なかったですよね?」


 市松さんが首肯します。


「大きな衣装箪笥とか、古い学習机は一階にありましたが、そういった家具類は、わたしも見なかったですね」


「まぁ、お客さんの記憶違い、ということもありますからね。これもあとでメリー社長に確認しましょう」




 庭に出て、軒先で作業順序を確認していると、メリー社長のベンツが入ってきました。


「曇ってるけどやっぱり暑いね。熱中症に気をつけてね」


 スポーツドリンクを二本頂きました。


「ありがとうございます」


「部屋は確認できた?」


「はい。いくつか確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


「いいよ。じゃあ、むこうのトンネルで話そうか。風が通るから」


「トンネル?」



 家屋を出、三人は村道の角を折れていきます。


「古い集落だから、村中、親戚だらけでね。この右手も僕の叔父の家で、その息子、つまり僕のいとこが、跡を継いで住んでる」


「ここもご立派なお宅ですね」


「うん。いまでも仲良くしてるんだ」


 やがて、松の茂る高さ四メートルほどの盛り土が、横一直線に見えてきました。


「……あれは、土手ですか?」


「あれはね、防波堤なんだ。昔の人が土を盛って、松を植えて。だから全ての住居は堤防のこちら側にあるんだ」


「ということは、堤防で見えないですけど、この向こうが海なんですね」


「そう、そしてあれがトンネル」


 堤防をくりぬいた、軽自動車一台がやっと、という穴が見えてきました。全長は数メートルほどしかなく、その向こうには白波が。


「うわ、素敵」


 市松さんが、思わず、といった声をあげました。


 出口に向かって緩い下り傾斜になっているので、抜け出た先に空はなく、陽光を鮮烈に散らす海だけがさざめいているのです。トンネル内部の暗さと、まぶしくきらめく波の色とのコントラストは、さながら円形にくりぬかれた青い宝玉です。


 はるか沖から渡ってきた潮のかおりがトンネルを抜け、首筋の汗をすーっとさらってゆきました。


「涼しくて、いい景色」


 市松さんが目を細めます。


「晴れていたら、トンネルの向こうにもっと海がきれいに見えるんだ」


 僕も感嘆するばかりです。


「ここに椅子やゴザを持ってきて涼む人もいてね。それでアイスなんか食べたら、もう最高の贅沢だよ」


「夏休み、ってかんじです」


 仕事を忘れたかのような市松さんのつぶやきに、僕も賛同します。


「じゃあ、これいただきます」


 僕はマスクを外し、スポーツドリンクに口をつけました。夏の味でした。冷たいボトルがかいた汗が、ひときわ強い風に拭われてゆきました。


 後方から、ペタペタというサンダルの音。


 振り返ると、水着の上にTシャツを着た姉妹らしきふたりが、浮き輪を持ってこちらへ走ってきます。小学校低学年くらいでしょうか。僕らの横を抜け、ぺたぺたをトンネルに反響させながら、きゃはーっと、海へ。


「近所の子だ」


 メリー社長の瞳が、愛おしそうにふたつの背中を追います。


「漁港の横に、狭いけど浜があってね。昔、僕が小さかったころは、たくさんの子ども達が泳いでいたんだ。でも、この村も過疎化になって、子どもの姿もめっきり減ってしまった」


「こんなにいい所なのに」


 市松さんが残念そうにいいます。


「でしょ? いい所なんだよ。そういってくれてうれしいな」


 メリー社長は声を弾ませましたが、


「でも、僕なんかまさに、長男なのに家を出て行って、おまけにこの歳まで結婚もしないんだから…… さっき、僕のいとこの話しをしたけど、彼はちゃんと家を継いでるのにね……」


 力をなくしていい終えました。


「でも、まだまだお子さんもいるんですね」


「そうだね。『子はかすがい』というけれど、村や県、ひいては国においても同じことがいえると思うんだ。多少の問題があっても、子どもがいれば、その場所には未来や希望がある。ここで大事なのは、その”未来や希望”ってやつを、大人たちのほうが信じて生きていける、ってことなんだ。つまり、子どもは、大人に、ものすごく大きな夢を与えてるんだ」


「子どもが、大人に、夢を与えている?」


「そう、もしも子どもがいない社会だったら、を想像してみて。きっと、理屈以前にみんな暗い気持ちになる。未来や希望なんて、っていう口ぐせが、ただ子どもがいないだけで、でるようになる。だから、人間が安心して暮らすための基礎として、多くの子どもたちが健康に育っていくことがどうしても必要なんだ。僕はそういう思いで、教育事業からアミューズメントまでをやってきたんだ」


「素晴らしいお心だと思います。その通りだと思います」


 社交辞令でなく、彼を心から尊敬します。どこのだれとはいいませんが、殺した女たちを隣同士に埋めていくのが夢です、なんてキチガ―― 何でもありません。


 市松さんにいたっては、目を潤ませているようにも見えます。



 港に寄せる波音を聞き、飲物を半分ほど飲んだところで、


「食材は、もう買って頂いたのですね。キッチンを拝見しました」


「うん、久しぶりにこの辺のスーパーとか道の駅に行って、僕の好きなものを手当たり次第に買っちゃったよ。市松さんには余計なことをしちゃったかな?」


「いえ、逆にお好きなものを指定して頂いたほうが、わたしも作りがいがあります」


「夕食、楽しみだなぁ」


「……あと、他にですね――」


 クリップボードに目を落とし、本題に入ります。


「浴室がとてもきれいだったのですが、ご自身で何か清掃などされたのでしょうか?」


 ほんの一瞬、彼が、おそらくは、言葉を失いました。


「うん、素人なりにやっておいた。風呂掃除は好きなんで」


「……わかりました。では、浴室は作業対象外にしたいと思うのですが」


「うん、いいよ」


 何故あそこまで念入りにやったのか? を追及するつもりなどありません。その理由も必要もないからです。


「それから、当初伺っていたよりも家具が少なかったようなのですが……」


 メリー社長が、無言で先をうながします。


「鏡台、座椅子などが、見当たらずでした。それらを拭き掃除する予定でいたのですが」


 しだいに、顔つきが温もりを失ってゆくように……


「そういうものはもう無いんだ。だいたい処分したようで」


「承知しました。では衣装箪笥など、残っているものについては、清掃を行います」


 首肯したメリー社長が、「洗面台は見た?」


「……せんめ? あ、いわれてみれば、見当たりませんでした」


「やっぱりそうか。いや、いい忘れちゃったなと思って」


「……?」


「台所の奥に扉があって、その向こう側にあるんだ。でも今、台所に食材とか、けっこう物を置いちゃってるから、扉を見落としちゃっただろうな、と」


「そうだったんですね…… ん? 台所のドアの向こうに洗面があるのですか?」


「造りとしては別に変じゃなくて、昔の家だから、浴室と洗面が離れてるんだ。それで、その洗面などがある短い廊下が、台所から行くルートと、学習机で塞がれちゃってる扉から直角に行くルートの、二通りあるんだよ」


 トンネルの壁に指でスッスッと線を描きます。


「あぁ、ありました、一階に古い学習机が。あの裏が扉だったんですね」


「僕の妹が子どものころ使ってた机なんだ。でも勉強なんかぜんぜんせず、テレビばかり観てる子でね。あんな場所に移動させて、それきり捨てもせずなんだ。でも、おふくろも、扉がふさがれて不便だとは思ってなかったみたい」


「古いお宅ではよくあることです。思い出といっしょに物も溜まっていきますからね」


「困ったもんだよ。妹のテレビ好きだって未だにだからね」


 僕は作業依頼票に書き込みます。


「承知しました。あとで洗面台も確認してまいります」


 ついでのように、核心に入ります。


「あと、これは作業とは直接関係ないのですが。お子さまが、たとえば親戚のお子さまが、家のなかに最近入られましたか?」


 凍ったように、メリー社長は何の挙動も見せません。


「というと?」


「……ビーズとか、かわいいクリップとかが落ちていたものですから」


「……作業には関係ないんだよね?」


 浅はかな質問をしたのでは、と思いました。上客の気分を損ねてしまったかもしれない、と。


 家とは、当然ながら人にとって最も私的な空間です。そこに立ち入って作業をさせて頂くからには、プライベートを冒すような言動は業務上最小限にとどめなければなりません。


 プロとして、それを当然理解していながらも――


 この家には何かある。


 二年間無人だという家。


 にもかかわらず床にあった女の子の痕跡。


 子ども好きなメリー社長。


 開けるな、と、方針変更されたひと部屋。


 異様にきれいな浴室。


 そして、表しようのない全体的な違和感。


 それらが指し示すものを、僕の頭はぼんやりとでも形にしようとしていました。


 が、いまは、慌てて言い訳を連ねるべきです。


「まったく関係なくもないんです。お子さまがいるご家庭では、どこか見えづらい箇所に落書きがあったり、壁に傷などがあったり、そういった可能性もありますので」


 メリー社長が、中空に視線を据えました。


「僕の妹の娘かもしれない。妹も合鍵を持っていて、東京に住んでるんだけど、専業主婦だし、時間はあるんだ」


「たまにご実家に戻られることがあるのですね」


 納得した、というよりも、信じたい、あるいは、疑念を排除できる材料しか見たくなかったのです。


「ありがとうございました。それでは、作業に着手します」


「そうだ、お願いがあるんだけど。僕の車のトランクにクーラーボックスがあるんだけど、それが重くてさ。中にお茶とか酒とかの飲み物といっしょに、氷もぎゅうぎゅうに詰めちゃったものだから。それを台所に運び入れてくれないかな?」


「わかりました。やっておきます」


「車の鍵は開いてるから。それから、中の飲み物は自由に飲んで」


「ありがとうございます」


「じゃ、僕はひと足先に戻ってるから。適当に休憩したら、またよろしく」



 スポーツドリンクを飲み終え、家に戻りました。


「雲行き、ちょっと怪しいですね」


 歩を進めながら、市松さんが空を見上げます。


「夕方からひと雨くるみたいです。さっき海に走っていった女の子たち、目いっぱいは泳げないかもしれませんね」


 あの立派な門をふたたびくぐると、メリー社長のお車がありました。トランクを開け、大きなクーラーボックスを抱えます。


「おもっ。市松さん、車のトランクを閉めて、家の玄関開けてください」


 力仕事は、もやもやとした気持ちを切り替えてくれます。お客様への余計な詮索を蹴散らし、クーラーボックスをキッチンに置きます。


「よしっ。じゃあ市松さん、さっき確認しそびれた洗面台を見に行きま――」


 ふいに、ガラスの割れるような音がしました。市松さんの短い悲鳴も重なり、ガシャガシャと何かが崩れてゆきます。


「なんだ? どこだ?」


「あの扉の向こうじゃ――」


 駆け寄ると、先刻見た際にはたしか段ボールやポリ袋が重なっていた場所が空けられ、壁と同色の扉がありました。引き戸を力まかせに開け、薄暗い廊下に踏みこみます。


 数メートルも行かない床に、ガラス片、茶色の破片、赤茶色の土が散乱していました。そしてその中心に――


「メリー社長! どうしたんです!? お怪我は!?」


「うう、だいじょう、ぶ。どこも怪我してないけど、びっくりしたぁ」


「……これは」


 床を見れば、ガラス片は鏡、茶色の破片は植木鉢、赤茶の土は植木鉢の中身だと思われます。


「……これが、例の洗面台なんだ」


 たしかにそうと分かる什器がありました。が、セット面の鏡は割れ、それが洗面ボウルや床に散っているのです。


 メリー社長が、額をおさえ天を仰ぎました。


「この洗面台の周りに物がいっぱい積まれていて、君たちの作業に邪魔だと思ったから、どかしていたんだけど、この鉢を持った時に、脚立に脚を引っかけてしまって……」


 たしかに、低い脚立が傍らにあります。


「ほんとにお怪我はないですか?」


「うん、どこも…… 怪我はないな。土まみれだけど」


「頭も、念のため見せてください」


 ガラス片のない場所まで移動すると、背の高いメリー社長に膝をついて頂き、市松さんが頭皮を改めました。


「出血はしていないです。でもわたし素人なんで、もし、病院に……」


「いや、ほんと平気。どこも痛くない」


 僕もほっとしました。


「メリー社長、どうせ清掃しますので、ここは片づけておきますよ」


「……じゃあ、シャワー浴びてくる…… すまないね」


 メリー社長が行かれると、市松さんに、


「じゃあ、まずここからやっちゃいましょうか…… 破片と、土だな…… 大きな破片だけ拾って、あとはバキュームで吸っちゃうか…… ハイエースに戻りましょう」

 

 イレギュラーだった清掃を終え、予定業務にかかりました。


 掃除機をかけながら床に目を凝らすと、ほこりや毛髪のほかに微細なゴミも落ちています。いや、それ自体は当然なのですが――


 揚げ物(唐揚げ?)の衣かす、シャーペンの芯、プラスチックの真珠(おもちゃ?)、ビーズ、どんぐり、細く切られた緑色の紙(折り紙片?)、ボタン電池、消しゴムのかす……


 これが九十歳だった方の生活痕か……


 さりとて、先ほどメリー社長からお答え頂いたように、この家にお子さまが上がる機会もあったのです。その際に落ちたゴミではない、と、どうしていえるでしょうか。


 たまたま目に入った点を線で結んだ与太話を創作している時間はありませんし、仮に、家主の生活様式にそぐわないゴミがあったとして、それがなんだというのでしょう。

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