最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し①
人を殺したい、という欲望をしたためたこれまでの告白をお読みになり、ご不快な思いをされた方もおられると思います。
ですが、この醜い駄文も、ほどなく終わります。
刑事が、もうすぐここにやってくるからです。
それまでに、懺悔、と呼ぶにはほど遠い、汚らしい罪の打ち明けをさせて頂きたいのです。どうしても、それだけはやっておきたいのです。
少し長い話しになります。そのため、二回に分けたく存じます。もうしばらく、おつきあいください。
その件をお話しする前に、僕はふたりの人物をご紹介せねばなりません。
僕が便利屋で働いていることは第一話で触れましたが、そのお客様である”メリー社長”がひとり目です。
年齢は五十代はじめ、痩身で背の高い、一見は芸術家のような紳士ですが、お若いころから学習塾などを経営され、現在では、県内でも目新しい、小さなお子様向けの屋内型遊園地を運営なさっておられます。お忙しい御身に代わる清掃や買い物、その他代行サービスなどを、弊社にたびたびご依頼頂いております。
そのご自宅、二十畳はあろうかというリビングの中央に、少し変わったものが置かれています。
小さな、メリーゴーラウンドです。
百円で動く、かわいらしい三頭の白い仔馬が周る小さなお子さま専用のアミューズメントマシンで、それが一般住宅にあることに、初見時は驚きました。
「子どものころ、親に連れられて乗った遊園地のメリーゴーランドが楽しくてね。いまでも憶えてる」と、メリー社長の物腰には品があります。
「アミューズメント事業をはじめたとき、これをカタログで見つけて、思わずリースしてしまったんだよ。もっとも、大人は乗れないから、ここに置いたところで邪魔な飾りでしかないんだけどね」
「いえ、すごく素敵なインテリアだと思います」と、僕は心からいいました。
「ありがとう。実は同じものが店舗にもあってね。子どもたちが楽しそうに乗ってくれると、本当にうれしくて」
「お子さまがお好きなんですね」
メリー社長は少し照れ、「ずっと子どもに関わる事業をしてきたしね。もっとも、僕自身は、こんな歳まで独り身だけど」と、語尾にわずかな憂いを含んで。
自宅にメリーゴーランドを所有されているので、”メリー社長”。そのお宅に僕が出入りさせて頂くようになり、一年が過ぎたころ……
「みんなちょっといいかな」
会社の朝礼時に、部長が、女性を伴って入ってきました。狭い事務所内に、わずか全五人の社員が並びます。
「えー、今日からいっしょに働いてくれる”市松さん”です。みんなよろしく」
「……市松です。よろしくお願いします」
小さな声で、ぺこり、と、ショートカットの黒髪を下げました。
おそらくは三十代半ばの、この”市松さん”がふたり目にご紹介する方です。
「市松さんは調理師免許を持ってて、通常業務のほかに、調理代行もやってもらおうと思ってる」
部長は僕らを見渡します。
「世の中の時流として、調理代行の依頼が来るようになってる。そこで彼女にそういった業務を任せていきたい、というわけだが…… ハンジョウくん」
「はい」
「市松さんとふたりで、メリー社長宅に、定期清掃と買い物代行で行ってくれ。メリー社長からは、以前に調理のご要望もあったから、近々それもやってもらうかもしれんが、今日は彼女の紹介も兼ねて、通常作業を一緒に」
市松さんは地味なお顔立ちで、和服が似合いそうなおとなしい方です。あいさつを交わしあった際、日本人形のような人だな、という印象を持ちました。ネットの検索結果にあった市松人形の画像が彼女に似ていたので”市松さん”とここでは呼称いたします。
「メリー社長、お夕飯の支度ができました」
豚の生姜焼きのいいにおいが漂ってくるキッチンから、市松さんが声をかけました。緊張した面持ちです。
部長の予想通り、メリー社長から弊社に、ご自宅での調理代行依頼が入りました。合鍵は以前から預かっていますので、メリー社長のご帰宅時間に合わせ、市松さんが準備します。
「独り暮らしの食事は本当面倒でね。かといって、外食にも飽きちゃって」
メリー社長は広い食卓に並んでゆくみそ汁、煮物、生姜焼きとトマトサラダに、目を細めます。
「仕事から帰ってきたら、人の作ってくれた手料理が並んでるっていうのは、本当にいいね」
「お口に合うかどうか……」と、市松さんはエプロンの裾をぎゅっと握りました。
生姜焼きを召し上がったメリー社長が、「おいしい。おいしいですよ」
その言葉に、市松さんもはじめて、
「はぁ、よかった」と、詰めていた息を吐きだしました。
「この煮物も、ちょうどいい味つけで。うん、なんかほっとするねぇ」
メリー社長が箸を置きます。
「これからも、よろしくお願いしますね」
市松さんが、ぺこりとお辞儀をしました。
数か月が経ったころ、
「不思議な依頼なんだ」
部長が、僕と市松さんを事務所のデスクチェアに座らせました。
「ふたりで、出張に行ってほしい」
「出張?」
僕が訊き返し、市松さんは細い目を見開きました。
「出張なんて、僕ははじめてですよ」
「いや、メリー社長がな、実家の清掃をしてほしいんだと。静岡県の、西伊豆で」
「遠いですね。三時間以上はかかる……」
腕組みをして椅子にのけぞる部長によれば――
作業現場であるご実家は、二年前に亡くなったメリー社長のお母さまが、生前おひとりで住んでおられた、それ以降は無人となっている木造二階建て。
作業内容は、室内清掃(水回り含む)、調理代行、荷物の輸送。締めて四人/日。つまり、ふたりだと二日かかる作業のため、日程は二泊三日。宿泊場所は、メリー社長が手配してくださる近くの旅館、ということです。
「かなりの作業量ですね…… 地元の業者に頼まず、ウチに?」
「メリー社長いわく、ふだんから付き合いがあって信頼のあるウチにお願いしたいそうだ。もちろん、出張費も乗せた見積もり額にも納得してもらってるんだが……」
部長が首をひねります。
「実は、最初の見積もりでは、三人/日だったんだ。つまり、ふたりで一日半。だから『二日目の昼過ぎには撤収します』といったら、メリー社長、作業を追加してきて」
「追加?」
「”荷物の輸送”がそれだよ。後から追加したんだ。『料金高くなりますよ?』と俺がいったら『それでいい』って」
「まぁ、メリー社長は資産家でいらっしゃいますからね…… とはいっても……」
「ちょっと変わった依頼だよな。まぁ、ウチとしては喜んでお請けするが」
「人員は僕と市松さんですか? けっこう力仕事もありますけど……」
「調理代行もあるから、市松さんにも行ってもらう。メリー社長のお母さまはもう亡くなってるから、手料理…… えーっと……」
部長は老眼鏡をかけ、依頼票に目を通します。
「”伊豆の地魚を使った料理”を作ってほしいそうだ。メリー社長、よほど出来合いのものが嫌いなんだな」
「おふくろの味、ですね」市松さんがつぶやき、「どんなメニューを?」
「あれ、書いてないな…… 確認しておく…… あっ、そうそう”夕食はメリー社長も含め皆さんで”だそうだ。市松さんに作ってもらう料理を、メリー社長、ハンジョウくん、市松さんの三人で召し上がりたいと」
「ごちそうになっちゃう、ってことですね。承知しました…… でも、市松さんは? 出張って大丈夫なんですか?」
彼女が入社以来、、彼女自身のことはまったくといっていいほど知りません。たとえば、ご結婚されていたら、出張は難しいのではないでしょうか。
「はい、私は大丈夫です。どこへでも行きます」
難なくいいました。
僕は部長に訊きます。
「作業に、メリー社長は立ち会って頂けるんですか?」
「うん、細かい指示も現場で出してくれるそうだ」
作業依頼票を部長から受け取り、流し見ました。
「二年間無人の…… 6LDKの日本家屋か…… 広いな。いちばんでかいクリーナー持っていかないとですね」
「あぁ、用具は全部でかいやつにな」
「廃棄は現地ですべてできるんですか? 産廃は?」
「ふつうごみのみで、現地で廃棄できるそうだ。産廃がもし発生したらもちろん追加料金で。念のため、現地の業者に根回ししておいてくれないか?」
「……この”荷物の輸送”はどういったものを? “骨董品など”と書いてありますが?」
「蔵があるらしくて、その中に、価値のある物もあるんだと。車に積める分だけでいいそうだ」
「骨董品をこっちに持ってきて、どうするんでしょう?」
「壺なんかはメリー社長の自宅に飾って、その他は売るものと、郷土資料館とかに寄贈するものとに分けるそうだ。出張の帰りにメリー社長の会社に寄って、降ろしてほしいと」
「その輸送というのが、当初はなかった作業なんですね……」
脈絡の有無が見えない、たしかに不思議なご依頼でした。
二週間後、八月の終わり、僕はハイエースのハンドルを握って、早朝の高速道路上にいました。服装はいつもの作業着。荷室には草刈り機、バキュームクリーナー、その他清掃用具、宿泊のための着替えなど私物があり、助手席には市松さんが。
女性との会話は苦手です。
しかも、彼女は業務上では後輩ですが、僕より十歳以上年上のはずです。お互い、いまだに敬語を使ううえ、共通の話題というのも思いつきません。
お天気いまいちみたいですね。雨心配ですね。クーラー効きすぎですか? で、僕からは終わってしまいました。以降は、彼女がぽつぽつと話すのを、ふんふんと聞くだけです。それに彼女は殺して犯したい対象でもなく…… 失礼しました。”異性として好みではない”という意味です。
「○○県に入りましたね」
標識を追う市松さんの口元が、マスク越しにほころびます。
「県外に出るの、ほんとに久しぶりです」
「免許は持ってるんですよね? 運転したりは?」
彼女は薄い目をさらに細めました。ゆっくりと動く山々を見つめて。
「若いころは、よく運転してました。でも今は車持ってなくて。仕事で会社の軽を運転したのが、ほんとに十何年ぶりってかんじです」
「意外ですね。入社直後からふつうに運転されてたので」
「運転も車も、ほんとは好きなんです。でも今はしません。独り暮らしだし、ぜんぶチャリで済ませちゃいます」
――やっぱり、市松さん、独身なんだ……
静岡県に入り、車は伊豆の山間を走ってゆきます。頭上には厚い雲が垂れこめていました。
「ここで休憩しましょうか」
山奥のドライブインへハイエースを入れました。建物も整備されたきれいな駐車場でしたが、コロナ渦で平日の早朝ということもあってか、観光らしき人はまばらです。
季節は晩夏でしたが、この数年はまだまだ猛暑の盛りでもあります。それでも、山中は気温の上昇がおだやかで、微かな川の音とみどりの薫りが吹く、気持ちのいい休憩所でした。
トイレを済ませると、市松さんが、建物横の立て札を見ています。
「……ぼうし、だそうです」
歩み寄った僕に、筆で記された文字を指します。
伊豆の伝説 No,14 坊石(ぼうし)
昔、旅をしていた一家がこの近辺で休憩をとった。兄妹が川のほうへ行ってみると、一匹の蛇が「こっちにおいしい水がある」と、ふたりを案内する。蛇に連れられ行くと、たしかに湧き水があり、飲んでみれば、疲れが吹き飛ぶほどうまい。おいしいおいしいと、なおもそこで休んでいると、蛇がふたりを石に変えてしまった。それ以来、寄り添って並ぶ哀れな兄妹の石を『坊石』と呼び、近くの村人たちによって祀られている。名勝、坊石まで、沢沿いにここから三分。
「こういう昔話って」市松さんが首を傾げ、「何か意味があって、発祥したり、残ったりしているんでしょうかね」
「警告、ですかね…… 旅人への」
僕は腕組みをしました。
「遠くへ行ってはいけない。善からぬ物に呼ばれてもついて行ってはいけない、とか……」
すると、メリー社長からメールが来ました。
[私は昨日から現地入りしています。おふたりはゆっくり来てください]
峠を抜け、国道は海へ下ってゆきました。荒波が磯を洗う上を走り続け、午前九時過ぎ、現場に着きました。
国道から入る一本道を蛇行していった突き当り、まさに、漁村、といった集落です。狭まった別れ道にメリー社長が立っておられ、「こっちの奥」と指すほうに、最徐行でハイエースを進めます。
おそらくは風除けのため、家々の周囲にブロック塀がびっしりと立ち並ぶ小さな村は、寂れた、とはいわずとも、夏なのに海水浴客らしき姿もなく、澄んだ蝉の声をコンクリートに反響させ続けています。
狭い四つ叉だらけの村道を慎重に進み、突き当る立派な門構えのなかへ車を入れました。
「メリー社長、おはようございます。今日から二日間、よろしくお願いします」
僕と市松さんが制帽を取り頭を下げます。新型コロナウィルスが流行しているご時世ですので、マスクは着用したままです。
「今日はありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします」
痩身で背の高いメリー社長が礼を返してくださると、その髪が少し濡れていることに気づきました。
「それではさっそくですが、清掃する家の中の状態などを拝見したいのですが」
「いいよ。鍵は開けてあるし、電気も水道も通ってるので、自由に見てください…… そうだ、市松さんに料理をお願いする手前、台所だけは最低限使える状態にしておこうと思って、先に掃除機かけたりしたから。ほこりだらけで嫌だったので」
僕は、A4のクリップボードに挟んだ依頼票に目を落とします。
「承知しました。キッチンについては、調理も承っているため、ワックスがけは不要、と伺ってますね」
「うん、あまり丁寧じゃなくていいよ」
「はい。では、さっそく――」
「それから」笑顔を崩さないメリー社長が、「家の中央に鍵のかかった引き戸があって、その部屋は開けないでほしい」
「……開けない? 清掃はしない、ということでしょうか?」
「そう」
「頂いているご依頼内容では、全部屋を清掃、となっておりますが」
「予定が変わって、一部屋だけやらないでほしいんだ」
念を押すような口調です。
「料金は予定通り払うけど」
「いえ、そういう意味ではないです。料金は実際の内容によって調整しますので…… かしこまりました。その部屋は作業対象外といたします」
「よろしく。僕はちょっと用事を済ませに行くので」
開かずの間。
その理由を、僕は訊きそびれてしまいました。
持参した上靴に履き替え、広い玄関から上がらせて頂きました。メリー社長が先に宅内を改めたからでしょう。スリッパの足跡が、ほこりの積もった板張りの廊下に点々と伸びています。
「では市松さん、順に確認していきましょう」
上がってすぐ右手は台所。大きなシンクと、発泡スチロール、ダンボールの乗った広めの調理台がまず目に入ります。
「シンクは…… 水や泥が飛び散ってはいるけど、けっこうきれいですね。床も…… ほこり等はほとんどなし…… 市松さん、メリー社長がすでに掃除してくれたみたいです」
「そうですね。まずここをきれいにしないと調理ができないので、ありがたいです」
「この中身は?」
発泡スチロールの蓋をとってみると、ぎっしりつまったクラッシュ氷に魚や貝が埋まっています。
「あ、もう食材が」
市松さんが覗きます。
「わたし、あとで買いだしに行くつもりだったんですけど……」
「メリー社長がもう買ってきてくれたんですね。冷蔵庫が撤去されちゃってるから、氷で保冷してるんだ。こっちのダンボールは…… 野菜ですね…… 洗ってある」
「お米もあります…… もうこれで二日分の量あるかも……」
「買出しの手間が省けましたね」
僕は底の見えない発泡スチロールの蓋を閉じました。
「じゃ、他の部屋に移りましょう」
大変に立派なお宅でした。居間には黒々と太い大黒柱。その下に木目の美しいダイニングセット。客間の上部には細工の美しい欄間が入り、その横に赤富士の絵や、額に入った何かの免許皆伝状などが飾られています。仕事柄、様々なお宅に出入りしていますが、床の間横に書院がしつらえてあるのは初めて目にしました。物珍しさに家じゅう見入ってしまいます。このご実家を見ていても、メリー社長の育ちの良さというものが伝わってくるようです。
「締め切っていたという割には、けっこうほこりが積もっていますね」
市松さんが床に目を凝らします。
「古い日本家屋って、密閉性としてはどうしても弱いんです」
僕はクリップボードに各部屋の状態を書き込みながら、
「砂壁や天井の隙間からの落下物とかもあって、思った以上にほこりが堆積しちゃうんです。まぁ、最終的には築年数や風の通り方など、現場によって汚れ方はぜんぜん違うんですけど、ここはけっこうほこりが多いですね」
「よく見ると、髪の毛なんかもけっこう落ちてますね」
「はい、ひと口にほこりといっても、それは糸くず、毛髪、砂、フケなどが混ざったもので、無人の家であっても、さっきいったような条件で外から侵入してきたり、元々室内に残っていたものがちょっとした隙間風で移動したりするんです。ちなみに、ほこりの色はどうしてグレーなのかご存知ですか?」
仕事の話しなら饒舌になれます。
「あ、研修のときに○○さんに教えてもらいました。いろんな色の絵の具を混ぜるとグレーになる。それと同じで、様々な性質と色の微細なごみが混ざった色だ、と…… ん?」
市松さんが、何かを、畳からつまみあげました。
「……色鉛筆の、折れた、芯ですね…… みずいろの」
「独りで住んでおられたメリー社長のお母さまって、何歳でお亡くなりに?」
「……たしか、ちょうど九十歳で、だったと思います」
いいながら、ご老人がみず色の色鉛筆を? いや、じゅうぶんありえるでしょう。
ですが、気になって床を見れば、隣の客間で、エメラルドグリーンの粒を見つけました。
ビーズでした。穴の開いた、あのビーズです。拾いあげ、やはりふたりとも何もいいません。
ピンクのペーパークリップも。
ネオンパープルのヘアゴムも。
黄色いコーンフレークも。
それが、さすがに一センチほどの、赤い靴を見つけたときは、
「……お人形の、靴でしょうか?」と、市松さんに渡します。
「……そう、ですね。リカちゃんとか、バービーに履かせるパンプスだと思います」
「小さなお子さんが、一時期いたのかな…… メリー社長のお母さまは、独り暮らしじゃなかったのか……」
あたりを見回しても、人形本体はおろか、もう片方も見当たりません。この左足用の靴だけです。
「そう、かもしれませんね…… だとすると、女の子でしょうね。お母さまが亡くなる以前に同居していた、とか」
「意外と、つい最近なのかも」
僕はつまんだ靴を見つめ、
「二年前に亡くなられた―― 今年、三回忌があったかもしれませんよね。そのとき、この家に親戚の子が上がったのかもしれない」
自分で、違うと思いました。市松さんも無言なので、自分で後を引き取ります。
「そうじゃないですよね。ビーズとか、ヘアゴムとか、この靴とか…… ちょっと家に入って落とした、って感じではない…… なんというか、生活感のあるゴミですね…… きっと、若いご趣味のおばあちゃんだったんでしょう」
家のすべての雨戸は開けられており、順に灯りも点けていったのですが、さすがに屋内中央を横切る板張り廊下は裸電球ひとつで薄暗く、スマホのライトを点灯させました。
「……ここ」
市松さんが、とある場所を凝視します。
「この部屋かもしれないですね……」
メリー社長のいっていた、開かずの間、らしき黒い引き戸を見つけたのです。
「やっぱり、鍵がかかってる」
動かない扉にライトを当てると、錆の浮く鍵穴がありました。
「昔の家だから、鍵のない部屋も多いのに……」
背後の市松さんが声を潜めました。
「昔の家だからこそ、最も日当たりの悪い家屋の中心部は、鍵のかかる納戸として使われることも多かったそうです。四丁目の加藤さん宅にもこういう部屋があります」
「……納戸」
「すごく珍しいわけではないと思いますよ」
僕は腰を伸ばしながら、「加藤さんのおじいちゃん、子どものころはよくお仕置きで納戸に閉じこめられた、っていってました。狭いし暗いし、とても怖い仕置き部屋だったと」
スマホのライトを振って、あたりを見まわしました。空気が淀んでいるような、しかし、不審な点はありません。
「……仕事を続けましょう」
浴室を開けてみて、驚きました。
「やけにきれいだな……」
「……きれい? ついさっき使った形跡がありますね」
タイル張りの床や壁が濡れています。
「メリー社長がシャワーを浴びたんでしょう。さっきお会いしたときに髪の毛が少し濡れてましたし。それは別にいいんですけど、市松さん、壁の隅や浴槽などをよく見てください」
「……いわれてみれば」
浴室の三大汚れは、湯あか、水あか、カビです。これらはいちどでも湯を使えば必ず初期の汚れが付着し、放置すればこびりついて落ちにくくなります。
「どこも汚れてませんね……」
「ぴかぴかですよね、浴室全体が。清掃対象外にしてもいいくらい…… いや、もう掃除する理由がないです」
「それって、ふつうに考えると……」
「お母さまが亡くなられて、その直後に業者がクリーニングしたのかも。日本家屋であっても浴室は密閉性が高いし、外から侵入するほこりとかも、シャワーで洗い流せばきれいになりますから。いちど徹底的に掃除してしまえば、その後はあまり汚れない……」
「……空き家になったばかりの家をクリーニングするって、よくあるのですか?」
僕はかぶりをふり、「次の住人がいない家の清掃は、正直、あまり聞いたことないです」
「そうすると……」
「つい最近、徹底的にきれいにされた。もしかすると、ついさっき、メリー社長が」
「私たちが後でクリーニングするのに?」
「……そうしなきゃいけない理由が、あった」僕はあごに手をあてます。「たとえば僕らに見せたくない汚れが浴室中に付着してしまって。だから全体をきれいにした」
「見せたく、ない汚れ」
「たとえば、ですよ」僕は壁の隅や水栓器具に目を凝らし、「思いつきなので、あまり真に受けないでください……」
「清掃は、素人でもできるのですか?」
「知識と、汚れに応じた洗剤があればできます。知識は、今どきネットにだってけっこう載ってますし、洗剤も、ホームセンターへ行けば、ある程度手に入ります。何しろホームセンターはシリアルキ―― いや、何でもないです」
「つまり、清掃は素人でも可能なんですね」
「と、とにかく、メリー社長に相談して、ここは清掃対象外とさせて頂きましょう」
もし、メリー社長ご自身が清掃されたのだとしたら。
彼は、ここで何を洗い流したのだろう。
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