連作第二話 銀ちゃんを殺る話し②

 野良猫は、少しづつ脂をつけてゆきました。


 すぐには食べにこない日もありましたが、来たときには、あの仄かなロウソクにも似た眼差しを暗がりから向けたので、おそらくは誰からの差し入れであるかは理解していたのでしょう。


 この餌付け行為に、誰からも注意などはされませんでした。


 が、ある夜、巡回中の警官に、いわゆる職務質問を受けました。


 もちろん想定済みでしたので、運転免許証を見せ、散歩中に夜風にあたっていました、と、リュックも開けながら、訊かれたことにはきちんと答えると、


「最近、このあたりで放火があったので、怪しい人物を見かけたら通報をお願いします」


 とのことでした。予想通り、暗い生け垣下に潜む猫は、彼らの目に入らなかったようです。


 毛艶がよくなると、猫は、冬の星空にも似た濃い銀色になりました。


 銀ちゃん、と、僕は彼女を名づけました。


 銀ちゃんは野良であると、僕はほぼ確信していました。


 つまり、殺ってもかまわない、ということです。


 少しづつ、エサを媒介に、僕は猫との距離を詰めてゆきました。


 目の前で、死んでもらいたいのです。僕の呼びかけに応じて忍び寄る、命を連れ去ろうする死と、それに血を流して抵抗する命との相克を、見たいのです。


 ですから、エサに毒を混ぜたりはしません。苦しがって逃げられでもすれば死に目に会えませんから。


 少年時代、小動物を血祭りにあげた、あの自由研究、あの青空教室が、ふたたびの開校です。


 ――今日も元気そうだね、よかったぁ。


 ふと、つぶやいてしまった夜。


 ――もうすぐ殺してあげるからね。


 猫などの肉食動物は、身体の大きさに比較して肝臓が非常に大きいそうです。毒素を多く含む可能性のある生肉を食べる食性によって、”解毒と排泄”という肝臓の機能を進化させたのでは、という説があります。


 大きな肝臓。


 近頃の楽しみは、解体したその実物を掬いあげる妄想をティッシュにぶちまけることです。めっちゃ調子いいと飛びすぎで手までべとべとに――


 銀ちゃんに、見られていました。


 彼女は食事をやめ、ゆっくりと身体をこちらへ向けると、前足を伸ばしお尻を地面につけました。青い闇のなか僕に目を注ぎ続け、最後に尻尾をくるんと丸めた様は、あたかも居住まいを正したかのようで、「殺してあげるからね」を理解すらしたかのような……


 ――まさかな。


 敵意や警戒を見せることなく、彼女は、エサを食べ残して消えました。



 三週間が過ぎました。


 それは、いうなれば寒の戻りの、散り花を風が舞いあげる三日月の夜。


 自宅で、僕は久々に母の遺品を広げました。


 衣服、靴、腕時計、ネックレス、ハンドバッグ、その中身の財布や携帯電話、小物類まで…… 壊れたり破れているものもありますが、その日から時の止まったそれらは、僕の血肉の一部です。


 ――僕は、殺人鬼ですか。ママ。


 あの雪の日、玄関で靴をはいた背中にそう尋ねてみても、行ってくるね、と、傘をさし出ていったきり。


 ちがうよ、おまえはいい子なんだよ。


 そう振り返ってほしい。


 浅ましくも母に甘え、僕は金槌をリュックに入れました。



 銀ちゃんは、いよいよ目の前でエサを食べるほどになっていました。


 今日は職務質問を受けるわけにはいきません。


 あたりに目を配り、僕は金槌を出しました。


 シミュレーションではこうです。


 銀ちゃんの尻尾を後ろからつかみ上げ、逆さ吊りした頭を、動かなくなるまで(けれども死なない程度に)金槌で殴る。


 動かなくなったら、ごみ袋に入れリュックで持ち帰り、自宅浴室でとどめを刺す。

 銀ちゃんが逝く様を、じっくり、じっくり、ビデオにも収めたなら、臓物を取りだして、溜めに溜めたわがままをたっぷりとぶっかける。愉しんだ後は、バラバラにし、燃えるごみとして数回に分けて出す。



 これなら、だれにも気づかれない。


 ひと場面ひと場面がいま見ているかのごとくしびれるほどのどす黒い視野になって猫の腹を裂く様子までもが鮮やかに目の前で展開されていく……


 俺の、悦びは、最高潮に、達した。


 全身に力がみなぎっていた。もうどうしようもなくギンギンだったよ。だって殺しはどんなヤバいドラッグよりもヤバいエクスタシーよりもヤバいヤバいヤバい味わいだからなぁ。


 ぎーんちゃん♪


 俺は背後から猫に近づいた。


 尻尾をつかもうと手を伸ばしたその時――


 猫はさっと身をかわし翻った。俺に相対する。


 鈍い光を湛えた、まるで何万年も冷暗の土中にあった琥珀のような目に射すくめられ、俺は動きを止めた。いや、実のところ、動けなかったのだ。


 毛を逆立てさえせず、研ぎ澄まされた獣の姿勢で俺に対峙するヤツから、形容しがたい異様さを感じたからな。ヤツが捕食者、俺が被食者へと逆転したのかと勘違いするほどに。


 風の夜鳴きに共鳴して、猫が低く唸った。空気のうねりと獣の息づかいとが混じりあい、巨大な何かに包囲されているようだ。


 ――やんのか? あ?


 ゆらりと金槌を構えた。筋肉に力が入っていては素早く動けない。力を入れたいなら、力を抜かねばならない。


 ヤツが飛びかかってきたなら、あの頭を叩き落とす。


 俺は顎を引いて腰を落とし、全神経を集中させた。


 ふいに、それこそ虫の羽音みてえな笑いが聞こえ、見ると、公園の入り口から、十代くらいの男と女が数人こちらに向かってくる。


 まずいな。


 俺はそいつらに背を向け、歩きながら金槌をリュックに入れた。そうする他なかった。


 ――クソがっ。夜間の外出は控えましょう、って政府からいわれてるだろうが。


 やにわに、猫も姿を消した。バカ騒ぎの声が近づいてくる。俺は歩きつづけ、反対の出口から公園を出た。無念だ。俺は大腿を殴りつけた。


 これで諦めるか。それとも再挑戦するか。


 切り立った塀の連なる住宅街を抜けながら、考えを整理しはじめる。


 そうして、どれほどか歩いてゆくと……



 銀ちゃんが、僕の行く手に座っていました。


 前足を伸ばし、お尻を地面につけたあの姿勢で、街灯のもと、こちらを見ています。灯を呑みこむような夜色の肢体は、光と闇の境界を行き来する番人を思わせました。髭をぴんと張り、月を思わせる水晶体に瞳孔を黒々と浮かべ、そう、その様は……


 じっと僕を待っていた。


 そう思えました。


 低く、長く、銀ちゃんが鳴きました。波長というか音階というか、ほんとうに風に似た音色で。その響きに、やはり、ふしぎと敵意は感じません。目を定め微動だにしない身体から別の生きもののような尻尾が伸び、手招くように揺れます。


 夜風が、まるで押し殺した女のすすり泣きで彼女を撫であげてゆきました。


 僕の呼吸は、いつの間にか短く震えています。


 猫の黄色い瞳にただ見られているだけ。


 何故それにこれほど心がかき乱されるのか。


 と、彼女は踵を返し、歩きだしました。その尻尾が、おいで、をするように、また揺れて。


 僕が尻込んでいると、銀ちゃんはこちらを振り返り、あの声で、唸るように喉を震わせます。


 どうやら、僕を誘っているのです。


 なんで? 油汗が滲みました。


 冗談じゃない。つぶやき、しかし、彼女の冷えた目がもういちど僕と相対した直後、この足は、あの尻尾を追いはじめていました。どう考えても愚かであるのに、僕は、なぜそうするのかも分からないまま、ハーメルンの笛に導かれるように、ゆらめく銀の尾を追随するのです。ドブネズミのような雲が寝そべる夜の下でした。


 ゆるい坂が、行く手に伸びています。


 銀ちゃんは、登ってゆきます。


 道は、整備されたばかりという趣のきれいなアスファルトで、その両側にも、目新しい建売の家々が並び、かと思えば、歯抜けのように一軒分の重苦しい闇が現れます。僕はこのあたりに詳しくないのですが、どうやら山ひとつを丸ごと開発中の新興住宅地と思われます。


 登るにつれ、街灯は減ってゆきました。建設中のコンクリート基礎から冷たい鉄筋が生え、立ち枯れたようなショベルカーが真っ黒な腕を下ろしています。家々には灯がありますが、まるで沖をゆく漁火の間遠さ。風の夜鳴きはますますヒステリックになり、枯草をずるずると引きずってゆきます。


 背中は震え、息も小刻みに揺れだしたので、思わずマスクをとっていました。


 恐ろしかったです。青黒い夜がとめどなく湧き出、その上に月がニヤける丘の道。が、まるきり形容しがたいことですが、銀ちゃんの行く先にきっとなにかがある、と、なかば妄信し、僕は規則的にゆれる尻尾にもやもや導かれてゆきました。


 頂上、というか、傾斜がなだらかになると、そこは明らかに開発が遅れていました。


 油を流したような闇に竹林が残され、踏み入る者のない畑の残骸にロープが巡らされています。よそ者を警戒する竹葉はざわめき、やがて切り倒されるであろう老木で何かが鳴きました。


 その向こう隣に、黒々と大きな何かがありました。


 目を凝らせば、それは古い平屋でした。トタンと木造で、所々窓も割れた、この廃れ方は、空き家でしょう。ひとの住まわなくなった家というものは、ただそれだけでその内部で邪な何かを生みだしているようないかがわしさがあります。


 さすがに恐ろしさも限界で、目をつぶって通り過ぎたかったのですが、動く銀ちゃんの黒いシルエットが、その敷地に入ってゆくではありませんか。


 ここ? と、震えおののく僕の声は風にさらわれたのに、彼女はまた振り返って喉を鳴らすのです。


 どうやら、ここのようです。いったい何があるのでしょう。


 荒れた小さな庭は気味の悪い雑草に食われ放題、締め切った家の雨戸から、この暗中ではやけに白々しいボロきれがはみだし、風に弄られています。


 庭の奥に目を凝らすと、そこでは湿っぽい星が瞬いて……


 星が見える?


 びっしりと覆われた草に足もとをとられぬよう、狭い庭を慎重に進みます。何かの羽虫が顔に当たるのが不快でなりません。真横にあるトタンの外壁が風に打たれてミシミシと軋みめくれます。そのたびに、見えるはずのない何かをその隙間に見てしまいそう。背後も無性に気になり、足は進みません。


 ようやく、庭の端にたどり着きました。木の柵が所々崩れて、その向こうに夜空が広がり、眼下では山肌が、頼りない街路灯に薄ぼんやりと地肌を見せています。


 それでわかりました。この家は、崖というか、頂上の急傾斜のキワに建っており、その下には整地中で山肌むき出しの斜面が鋭角に麓まで伸びているのです。崩れた木柵の間には申し訳程度のロープが張ってありますが、もしもそこから落ちれば十数メートル下まで転がってゆくでしょう。


 まるでバンジージャンプの足場です。この家は解体待ちなのでしょうか。


 とつぜん、夜風に混じって奇妙な音が吹きました。


 すすり泣く子ども…… しかも数人分……


 いよいよ全身から汗が噴きでました。


 声は、闇よりもさらに濃い、縁側の下から這い出てきます。人の入り込めない場所です。風の空耳ではありません。もうはっきりと聞こえるのです。そんなところに子どもがいるわけがない。


 限界でした。震える踵を返しかけたとき、脳内がある可能性に当たりました。


 仔ネコか?


 銀ちゃんはメスです。彼女の子どもなのかもしれない……


 息を吸いあげて冷静になれば、ようやくスマホのライトを思いだし、縁側の下をおそるおそる照らし覗きこみます。


 縁石や折れ曲がった板材が白骨のように散らばっています。茶色や緑色の虫たちが逃げ回りました。


 怖くて、それでも順番に光を当ててゆくと……


 いました。柱の陰です。


 全容はつかめませんが、銀ちゃんが寝そべり、その腹部で、小さないくつかの何かが小刻みに動いています。


 授乳してるんだ。


 ライトに照らされてもそれらは逃げません。


 銀ちゃんは僕に、これまでエサをくれたお礼がしたかったのか。そのために隠れ家へ案内し、こうして仔どもたちを見せているのか。


 先ほど殺そうとしたことなど忘れ、自分に都合のいい解釈を立てていました。

 ふいに物音がしました。敷地の入り口からです。


 反射的にライトを消し、家屋の凹みに身を隠しました。


 物音は石が踏まれる音になり、しだいに近づいてきます。


 だれかが庭に入ってきたのです。


 そっと顔を出し見ると、小柄で、男女や年齢など識別不明な何者かが、少し離れたところで立ち止まりました。


 警官や工事関係者ならばライトをつけるはずです。


 その人物は首を動かし、どうやらあたりを警戒しています。と、手にした、ペットボトル? を、建物がわに傾けました。


 液体がこぼれる音。次いで異臭も。


 油だ…… ガソリン…… いや、ライターオイルか?


 いずれにせよ、可燃性の液体がまかれた、ということです。空になった容器が転がりました。


 あいつが放火魔か。


 思いだしたのです。数日前、僕に職務質問をした警官が、「最近このあたりで放火があった」といっていたことを。


 ライターを擦る音がし、ついにその顔が闇に炙りだされました。漆黒のなかでは灯台のようにまばゆい炎が、三十歳くらいの男を照らしだします。表情の抜け落ちた、特徴のない、しかし目だけが爛々と輝くその顔を。


 右手に火のついたライター、左手には細く丸めたチラシ。


 チラシの先に点火させると、蛇が這うような青い炎が立ち昇りました。


 出て行って止めるべきか? もちろん、そうすべきだよな。


 先ほどリュックに入れた金槌を、音を立てぬよう取りだします。


 そして、声をだそうとした、まさにそのとき……


 甲高いひしゃげた叫びをあげ、黒い何かが、闇から突如現れ出でたかのように男へ襲いかかったのです。


 それはさながら、炎の灯に一瞬だけ可視化された亡霊のようで、異様な音を発しながら男の顔や背中を這いまわるのです。


 男は火を持ったまま叫び、身もだえました。僕でさえ完全にパニックになり、呼吸を忘れます。


 男の顔に、ミミズばれのような傷が作られてゆきます。なおも悲鳴をあげながら滅茶苦茶に腕をふりまわします。と、石につまづいたのか、自身がまいたオイル溜まりへ男は転倒したのです。刹那、その身体が、目もくらむほど明るくなりました。


 燃えた! 燃え移った!


 立ち上がった男の左腰から細い火柱が立ちました。先ほどの黒い何かの姿はもう無く、それと入れ替わるように、火炎が、男を舐めあげはじめたのです。下から炙られた苦悶の形相は凄まじく、その様子が、暗転の舞台上で下からスポットを浴びるようにくっきりと闇に照らされているのです。


 あがゃあぅわぁひゃうはぁ!


 悲鳴が僕の心臓を鷲づかみし、その場でへたってしまいそうでした。


 男は上着のボタンを外そうと手間取り、ならばと引きちぎろうとして、それも上手くいきません。そうするうちに、風にも煽られた炎は恍惚の体で男を嬲り、弄り、おもちゃにし、あっという間に上半身を包みました。


 肉の燃える、筆舌にしがたい嫌な臭いがします。


 男の滅茶苦茶な悲鳴は止みません。前後不覚になったように、庭の奥へと踊り狂って移動してゆきます。それは狂気の演劇であり、僕はその最前の観客となってしまったのです。大道芸人が全力で笑わせるような可笑しさすらあり、そう、何かのコメディであってほしい、と、僕の身体は震えを通り越しウケたように痙攣しはじめます。


 喜劇の第二幕が、開きました。


 男が転倒した場所から、地面に引火した炎がオイルを舐めまわし、標的である家屋に襲いかかったのです。


 家が燃えはじめます。大変な事態です。


 なんとかしなきゃ!


 金槌を握りしめていることに気づいたのはこのときです。僕は家屋に駆け寄り、燃えている箇所を懸命に叩きはじめました。すさまじい高熱で息ができず、目も開けていられません。ですが、水や消火剤もない今、延焼を防ぐには家を打ち壊す他考えつきません。


 幸い、朽ちかけた木造は、渾身の力で振るう金槌で砕けてゆきます。また、トタン部分には引火しておらず、火の回りは思ったより早くありません。それでも素手の熱さは尋常ではなく、左手に持ち替え、なおも必死に叩き続けます。怒り狂った炎が僕を標的にするのでは、と、カラカラになった瞳から涙が溢れでていました。


 一心不乱に木材を砕き、草むらに散った火種は足で踏みつぶします。


 しだいに炎は勢いを失って、どうにか、消し止めることができました。


 あいつはどうなった?


 家の裏手が、まだぼんやりと明るいのです。あわててまわってみると――


 僕が叫んだときにはもう遅かったのです。


 炎の人形は崖のほうに寄ってゆき、崩れた木柵の間から、ちょうど足を踏み外すところでした。


 ここで奇妙なことがおこりました。


 転落したはずなのに、柵の下部に炎の先端がまだ見えているのです。もちろん、ここの崖がそんなに低いはずありません。そこへ近づくと――


 男が、燃えたまま、柵の間に張ったロープに首を引っかけていました。


 すなわち、罪人が、火あぶりにされたうえ、崖上から吊るされ、絞首刑にされているのです。


 信じられない光景でした。ロープが首に食いこんだらしく、もがく男の足が曲芸師のように揺れ、斜面を蹴っています。その滑稽芝居にスポットライトを当てているのが、他ならぬ男自身の炎だということに戦慄し、僕はもう絶叫か爆笑かわからない叫びをあげ、腹がよじれ立っていられません。


 ようやくロープが外れ、男の身体が斜面を転がってゆきました。その勢いで火が消えたらしく、麓まで落ちきると、火も男も見えなくなりました。と、草むらから、またしても心臓を刺し貫くような悲鳴があがり、這い出てきた黒い人影が、よろめきながら逃げ去ってゆきました。僕は四つん這いで、その一部始終を観収めました。


 地獄の狂演に、突如幕が下ろされたのです。


 道化師が退場すると、何事も、本当に何事もなかったかのように、小高い丘はしんと静まりました。


 冷笑の月は朧に翳り、街の灯を吸った汚ならしい雲が空に垂れさがっていました。風向きの変わり目で、それまで騒いでいた雑草も直立しています。

 

 そのとき、鳴き声がしました。


 振り返らずとも、誰のものかは分かっています。


 ――銀ちゃん。


 いや、たった今あの放火魔を処刑した執行人、でしょうか。


 数メートル後ろで猫が鳴いただけ。


 それで僕の血は凍りました。叫びにすらなりません。


 ゆっくりと、声のほうへ、震える顔を向けます。


 シルエットが、そこに座っていました。前足を伸ばし、お尻を地面につけたあの姿勢で。


「たかが猫、殴り殺してやるよ」と、僕がつい先刻対峙した小動物は、いいようのない暗黒の存在として三たび現れたのです。


 ふいに雲が切れ、月明かりに、銀色の毛並みが、彼女の姿が、くっきりと照らされました。


 真っ黒な瞳孔を浮かべた月色の目が、そう、あの三日月のようにすっと細まって、ぴたりと僕に張りついていました。


 僕は、信じられないものを、そのとき見たのです。


 小さな何かが、銀ちゃんの足もとに、横たわっているのです。


 仔猫。


 しかし、先ほど縁側の下で見た仔猫より、ふた回りは小さいでしょうか。体毛は生え揃っておらず、尻尾は薄い地肌がむきだしの、まるでネズミ。あまりに弱々しい仔でした。


 銀ちゃんが、もういちど、唸りました。


 いつか見せた、僕の言葉を理解したような、尻尾をくるりと丸めて。


 彼女の目から視線をそらすことができません。


 その黒い珠が、まるでこう物語り、いや、そうとしか思えなかった。


 この仔を持っていきなさい。


 猫の子殺し、という言葉が浮かびました。野良猫は自らの遺伝子を確実に残すため、強い個体のみを育て、弱いものは――


 銀ちゃんが、仔猫の首をくわえあげました。


 ぶら下げられたその仔の、ネズミのような尻尾がぴくりと揺れ――


 次の瞬間、小さな頭部付近をくわえこんだ銀ちゃんの、冷たく濡れた、目が、眼が……


 嗤った。


 そう見えた。見えてしまった。


 悲鳴をあげ、僕は坂を駆けおりていました。


 銀ちゃん。


 出会ったころの、おそらくは授乳もままならぬほど痩せこけていた彼女。


 結果的に彼女を救うことになった僕の餌付け。


「殺してあげるからね」を理解したような彼女。


 その彼女からの、お礼……


 泡を飛ばし走りつづけ、その間ずっと、口にこの言葉を含んでいました。

 

 よかった。ほんとうによかった。今日も殺らなかった。



 第二話 完

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