連作第二話 銀ちゃんを殺る話し①
この一連の体験を記録する前に、
「こういった読み物を書こうと思うのだが」
ということを、特殊性癖の方々が集うネット掲示板に書き込み、相談したことがあります。
すると、様々な癖に悩んでおられる方々から、本当に親身なご助言をいただきました。
[病院に行き、治療を受けたほうがいい]
特にこのご指摘を、たくさん頂戴いたしました。
その通りだと思います。
痴漢願望、強姦衝動、露出性愛。
そこに集われる方々は、みな、苦しんでおられます。
してはならない、でもやめられない。それをどうにか耐え忍び、”人並みの社会生活”という薄氷を死に物狂いで渡っておられる、いわば戦友たちが、この背中を押してくれました。
[ひとりで悩んではいけない]
実状、前話で記した通りです。僕は鍵男を殺しかけました。以降、あの耽美な続きを、夢に見ることがあります。
とても気持ちよいことをする夢です。
まだ温い彼の腸を引きずりだし、僕の首に二重巻きして、垂れさがった部分は、ぐちょぐちょに濡れる他の臓器たちと、アレに擦りつけるのです。
そのまどろみからうっとりと目覚め、この手が血まみれでないことにまず落胆し、あわててそれで良かったのだと思い直す、深いため息の朝が来るのです。
世界でいちばん恐ろしいものは、自分。
そのケダモノを追い出さなければという使命感、正義感を、自分はたしかに持っているのに、鬼畜とみなされ抑圧と偏見とを被るかもしれないのも、また自分。
その相克。恐ろしさ。
果てに、僕は病院にかかることを決意いたしました。隣町にご高名な精神科医がおられると聞き、予約をとり、休日、電車で二駅のメンタルクリニックへ。
結果、行くことができませんでした。
そのビルにたどり着き、灰色の小さなエレベーターが開きました。
その箱に乗りこんで、三階へ、あとはただ、三階へ上がればいい。
たったそれだけのことが、震えおののいて、できなかったのです。
人を、殺したい。
女性のご遺体を犯したい。
男性の亡骸を解体したい――
たとえお医者様といえど、わたしはそのような危険なケダモノです、と告白する勇気が、最後の一歩が、踏みだせない……
いや、仮にそれができたとして、治療はどのように行われるのでしょうか? 人に危害を加えないよう、然るべき所に入院させられるのでしょうか? 看護師から助手までの全員が僕という患者の異常性を知るのでしょうか? あるいは入院はしなかったとして、強い薬を飲まなくてはいけないのでしょうか? その間、仕事は?
22年間、自分の内に拘禁してきた醜いケダモノを、人の目にさらす。それがもたらすものを思うと、疑念は悪い想像を貪り食って肥え太り、胃に重くのしかかるのです。
自分は、なぜこうなのか?
どうして普通になれないのか?
すべての人間に悩みは付きものだとしても、このような苦しみを問われるのはいったい何の報いからなのか?
あのとき開いた灰色のエレベーターが、踏み入れば最後の、拘束具付きの檻に思えました。閉じゆくドアを見つめた後、もういちどボタンを押そうと、押そうとして、けれども押せずに、僕は逃げ去ったのです。
気がつくと、公園のベンチにいました。
草花は競いあい、虫たちは命を燃やし、それを葉桜がそっと見守る、初夏でした。
澄みあがった空からみずみずしいみどりの風が軽やかに降りてくる、半袖にもなれそうな、夏の騒ぎだしそうな日。
なのに、僕だけは、暗然とベンチにうなだれ、汚物まみれのぶ厚い鎧を脱げずにいたのです。
もう一度あのビルへ、行け、行くんだ。
裏腹に、喉の底がぶるぶると震え、いよいよ背を丸めるばかり。
きちんとマスクをした園児たちが、先生に連れられ公園にきていました。ここのシンボルツリーであろう大きな白樫の下で、幹におでこをくっつけた子が、きっと覚えたての「だるまさんがころんだ」を唱えると、止まりきれない子たちがはしゃぎます。
わかっております。
絶対に治療すべきなのです。
間にあう。まだ誰も殺めていない今ならば。
もう嫌ほど自問しました。どんないい訳から出発したとして、その結論に行きつくことは明白であるのに、なぜ正しさに従って行動を起こせないのか……
質問をよろしいでしょうか。
これを読んでおられるあなたは、たとえば初対面のお医者様に、
「私はオーラルセックスでしかイケないのです。口の中にぶちまけてやらないと気が済まないのです」
と、伝えることができますか?
では、その百倍もおぞましい性癖なら?
伝えられるあなたは、これはお世辞でなく、ご自身の弱さを素直に認められるお強い方です。そしてそれができない僕は、まぎれもない精神薄弱、いや、この期に及んでそれを隠そうとさえする真正の卑劣者なのです。
僕は普通じゃない。それはわかってる。
では、日本中を震撼させた過去の殺人鬼たちと、僕は、同類でしょうか?
俺は、あの彼でしょうか……?
……
……猫って、かわいいですよね?
そういえば、あの歴史的傑作映画『ネクロマンティック』に出演していた猫も、とてもキュートでしたよね?
にゃんにゃんにゃんって、鳴いてましたね。
なぜそんなことを?
いま、目の前を、猫が横切ったからです。
濃い灰色の毛並み。痩せこけ、なのに目だけが琥珀色に濡れています。首輪はありません。僕を鋭く一瞥すると、ゆっくりと草むらへ入っていきます。その後ろ姿から、メスであることがわかりました。
かわいぃぃ♪
早速コンビニへキャットフードを買いに行きましたっ。ドライフードを買って戻り、生け垣の陰にひとつかみ置くと、少し離れたベンチから見守ります。
じーっと、じーっと、待っていると……
来ました来ました。あの猫です。両わき腹がくっつきそうに痩せています。やはり野良でしょうか。ですが、決してがっついたりはせず、どこか気品すら漂わせる悠々たる所作で、僕がチョイスした、”お肉とお魚ミックス味”を食べてくれてますぅ〜。うれしいぃな〜。
その、カリカリと餌を食む音を耳に留めながら、
[猫を殺したら懲役何年]
と、ネットで調べていました。
んふ……
以来、夜、仕事を終えた僕は、あのメス猫の餌付けのため公園を訪れるようになりました。彼女が現れるのはいつも決まって、鮮やかな朱色に燃えるレッドロビンの生垣近く。食べ残しのないようひとつかみ分のエサを置くと、少し離れたベンチに腰掛けます。
染みのような灯の霞む公園にひと気はありません。身じろぎのないこの身体が、毛穴から闇に溶けだしてゆくようです。
――僕は、殺人鬼ですか。
猫がなかなか姿を見せないときには、夜の草花にそう尋ねました。日中とは違う表情の、余計な愛想を振りまかないバラやナスタチウムたちに。
なかで、大きな腕を広げたあの白樫の大木は、まるで生前の祖母のように耳を傾けてくれます。風の葉擦れやゆれる月影の相槌をうちながら。
――ばあばが生きていたら、僕を受け止めてくれるだろうか。それとも、こんな孫を恥じいるだろうか。
在りし日の正信念仏偈が、いまでも耳にあります。
僕の母の仏壇に毎朝手を合わせるその背中から、言葉から、命の有難み尊みを訓えられ、僕は育ちました。蛙や蜥蜴や昆虫などを刺したり潰したり引き裂いたりが何よりも好きな少年でしたが、祖母に諭され、僕は自らに殺生を禁じました。もちろん、いまの未だに。
それが、だれにも自慢のできない、さりとて、まぎれもなく誇りなのです。
――だけど、野良猫くらいいいだろ? それくらい見逃してはくれないか?
人を殺したい衝動を抑えるため、小動物、それも、だれの所有でもない猫を身代わりにし発散させる。
それは巡りゆきて、人助けなのです。
例を挙げるなら、現実の盗撮行為を自戒するため、そう見せかけたアダルトビデオで醜悪な欲望を充たしてやること。
もちろん、好きでそれに及んでいるのではありません。褒められた行為ではありませんが、必要悪が真に必要な人間も、いるのです。
それはちがう? 猫を殺せば、野良といえど、二年以下の懲役、もしくは二百万円以下の罰金が科せられると?
では、屍体を隠せばいい。秘密裏に捨てればいい。ならば事件は発覚せず「最近あの野良猫を見なくなったな」程度にしか思われない。
だれも気づかず悲しまない、容易なる完全犯罪。人は動物を殺めねば生きてはいけない。それが食べるためか、精神衛生のためか、その違いはあるけれど。
――僕は殺人鬼じゃない! 人を殺したくない!
そう叫ぶ自分と、夢の中で恍惚のうちに鍵男の臓物を引きずり出した自分。
僕は、どちらの僕なのか。
だから、均衡を保つため、僕は猫を殺す。それで俺が充たされるのなら。
結果論でいえば、この数か月後に捕まる僕の、それが下り階段の一歩目だったのかもしれません。
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