連作第二話 鍵男を殺る話し②

 さてさて、ここからどうやって鍵男をブチ殺し、ボデーを透明にするか?


血抜きした亡骸は氷水の入ったバスタブに数日つけます。なんどか入れ替える必要があるでしょうが、この間にさまざまな観察と実験が行えます。匂いがしてきたらもう時間切れなので、肉と内臓は細かく刻み、茹でて燃えるごみに出すものと、出勤時に通る川に撒くものとに分けます。


 そうそう、映画などではバスルームを養生せずに刃を振るっていますが、あれはダメです。壁や床を傷つけてしまうおそれがあり、警察はそういった傷を見逃しません。そこでホームセンターなどでお風呂用のウレタンマットを数枚買い、浴室内に貼ってから作業しましょう。また、最後にたんぱく質を落とすアルカリ性洗剤で浴室内を丁寧に、壁や天井までをも洗い流します。こういった作業には便利屋業で培っている経験が活きてくるのです。


 さて、やっかいな頭部は仕事の合間にどこか森の中へリュックごと埋めます。肉切り包丁とクーラーボックスも買わなきゃね。ホームセンターはシリアルキラーも御用達です。


 当然ながら、もっとも警戒すべきは警察ですが、幸いこの地域にはまだまだ防犯カメラは普及しておらず、彼がこの家にいることは偶然なのですから、足取りは追えないでしょう。いや、それ以前に、事件性があり直ちに捜索対象となる”特異行方不明者”であるとは、失踪の状況からして認定されないはずです。


難しいパズルを脳内で解き終えたような高揚感とじれったさでした。瞼に描かれたその図柄が消えてしまう前に早く実物を組み立てようと、晴れやかにトイレからとび出ると……


 鍵男がいません。キッチンにもバスルームにも。


 玄関に靴もなく、まさかとドアを開けます。


 鍵尾が、外の共用廊下にいました。寒さに身を縮め、耳にスマホをあて電話しています。僕に気づくと、目礼を返しました。


 あぁ大家につながったのか、と得心しかけましたが、彼の口調からして親しい人です。やがて、うん、じゃあね、と電話を切ると、はにかんでみせ、


「嫁に電話してた」


 ――よ、よめ!? 結婚してるの!?


 僕が面食らっていると、「ふぅ、寒いね」と両手をこすりながら、ふたたびうちの中へ戻ります。


 よほど僕が驚きに打たれていたのでしょう。ベッドに浅く尻を乗せた鍵男が、耳を赤らめいいました。


「三日前、子どもが産まれたんだ。女の子。あさって嫁といっしょに退院予定でさ」


 二の句が継げない僕を見やると、彼は手にとったマグカップの温もりを包むように、こう話しはじめました。


 昨年、年上の彼女が妊娠した。自分は大学三年生だったが、彼女に、産んでほしい、結婚しようとプロポーズし、ためらいなく籍を入れた。すでに教育関係の企業から内定はもらっていたのだが、大学を中退しようとすると、彼女から、絶対に卒業したほうがいい、といわれ、企業に結婚を報告したところ、人事の人はとても喜んでくれた。


 一方、彼女の母親(父親は既に死去したそう)は怒り心頭、結婚を認めてはくれなかった。だが、悪いのは自分なのだから仕方がない。これから家族を幸せにしていくことで許してもらう他はない。とにかくお金は貯めねばならず、それからはバイト漬けの日々を送っている。三日前に彼女が出産してからは、家には帰らずバイトをし通し、休憩の合間に産科医院へ、彼女と子どもの顔を見に行っていた。


 そして今日、着替えをとりに久しぶりに帰宅したが、家の鍵が見当たらない。ネットカフェに泊まることも考えたが、節約のためできれば避けたかった。


 そこへ、ハンジョウくんが帰宅してきた……


「これが嫁と子ども」


 鍵男はスマホの写真を見せてくれました。


 時世だからでしょうか。マスクをして赤ん坊を抱く女性。ですがその下の表情は間違いなく愛しみに満ちたものでありました。


 出産という大きな、本当に大きな仕事を終え、母親へと変貌した女性。


 ふと、母が僕を産んだときはどうだったのだろうかと、見えるはずのないその日のおもかげを探し、気がつけば、画面越しに鍵男の奥さんに食い入っていました。


 やがて、白いベッドと入院着の淡い光彩が、ふわりと滲みました。


 僕は目を閉じました。


「ハンジョウくん、今日、俺を入れてくれてありがとう」


 鍵男がいったとき、僕の中のケダモノは動きまわることをやめて伏せりました。

そしてケダモノを、いや、彼に愉悦的な殺意をいだいた自分をこそ憎みました。


 もう冗談はなしです。


 産まれたばかりのあの子を父なし子にしようともくろんだ自分。


 もし鍵男が電話していなかったなら。殺しの好条件がそろったままであったなら。


 俺は殺っていたかもしれない。

 

 名状します。俺は女性を殺し、その遺体を犯したい。


 あるいは男性であれば、殺めた身体と臓物をバラバラにしたい。


 心の病などという優しさでは到底許されぬ、獣にも劣る衝迫が、この身には棲みついているのです。そんな自分を大切に育ててくれた母と祖母に報いなくてはならないのに。


 それなのに、俺は……


「ハンジョウくん、大丈夫?」


 鍵男が僕の肩に手を置きます。どうにか、やっとうなずき返しました。


 万が一にも、新婚の彼を手にかけてしまっていたら、僕は……


 いや、それからしておかしいのです。鍵男に妻子があるとわかった拍子に罪悪感をいだく。では単身者なら死んでいいとでも? 悲しむ人がいないから? 馬鹿な、親きょうだい友人はどうなるのだ。


 わかってる。俺は異常性癖の狂人だ。治療が必要なんだ。


 だけど、怖い。


 病院で病名をつけられ、よもや危険人物として世の中に扱われることが、恐ろしい…… さりとて、そう、そんなのは虫のいい甘えにすぎない。自分の蛮行を防ぐことがなにより重要だ。だけど、たとえ医者にでも、このケダモノをさらすことが怖い。そう、でも、だって、実際に、22年間抑えてきた。檻にぶち込み、意識の底に沈め、決して表には出さなかったんだ。


 やれる。このまま一生、これまで通り、こいつを隠し通していられる……


 鍵男にふたたび名を呼ばれ、僕は逃げるように腰を上げました。


 ――鍵男くんはメシ食ったの?


「まだ食ってない」


 ――なら、僕もまだだし、かんたんなパスタとかでよければ食ってく?


 鍵男が目を見開いて、「マジで? いいの?」


 ――うん、だいじょうぶ、毒なんか入れないから。


「うぉー! マッジうれしい! めっちゃ腹減ってた!」と、驟雨が去ったように、「今日バイト先でやらかしてさ、店長に殺されそうになってヘコんでたんだ。ハンジョウくんマジ仏!」


 とんでもない皮肉でしたが、むしろこちらが嬉しくなるほど喜んでくれました。卑しく下等な自分が人の役にたてた、そんな気がしました。


 幼いころから自炊していたので、料理は得意なほうだと思います。パスタが茹であがったら、冷蔵庫で保存している自作のバジルソースと和えて……


 ふと視線の先に、いま取りだした緑のバジルソースと、”グリーンハーブの香り”洗剤が重なりました。そういえば”台所洗剤200mlを飲むと死ぬ”と、先ほどネットに載っていましたね。


 ほんの好奇心で、大さじにとったバジルソースに洗剤を数滴たらし、舐めてみます。


 激しくえずいて吐き出しました。


「え、そんなにまずいの?」


 不安そうな鍵男に、だいじょうぶだよグワッハッ、と返し、ごく普通のパスタを作りました。トングでふたり分、皿にとっていると――


「あ、もしもし?」


 鍵男が電話しています。どうやら大家につながったようで、どもりながら事情を説明しはじめました。


 緊張しすぎじゃない? と苦笑してしまうほど、彼はペコペコしています。とはいえ、漏れ聞こえてくる相手の声は荒々しいものでした。夜更けに無理もありません。無事に鍵が借りられるといいのですが。


 やがて通話を切った鍵男が、「ようやく話せたよ。でもめっちゃ怒ってる」


 ――まぁ、仕方ないよ。でも良かったね。これ食う時間ある?


「うん。この部屋にいるって伝えたら、合鍵持って二十分後くらいに行くって」


 いつも独りのこの食卓は、ふたり分を乗せると手狭なのだな、と、今さら気がつきました。


 いただきます。


 ぴたり手をあわせた鍵男に、遠慮がちに見られます。僕はうなずき、先にマスクを外しました。次いで彼もそうします。


 食べながら、彼から、立ち会いでの出産の様子を聞かせてもらいます。


 食卓で会話を楽しむ。その二十分は、瞬く間に過ぎてしまいました。


 インターホンが鳴り、またマスクをつけながら玄関を開けると、眉間に皺を寄せた五十代くらいの女性。


「ここの大家です」


 無愛想に入ってきます。布製のマスクをした顔に青筋を走らせ。


「あんた、いい加減にしてよ!」


 鍵男を見つけるなり声を荒げます。鍵男はカーペットに正座し頭を垂れています。口調からして、以前にも鍵を失くしたことがあったのでしょうか。


「ほんとにだらしない! ろくでなしだよ! これだからあんたは信用できない!」


 怒るのも当然。そう思い聞いてはいましたが、しだいに違和感をおぼえます。度を越してはいないかと。


 ――あの。


 自宅内で騒がれることが不快ということもあり、つい声が出ました。大家の吊り目と鍵男の弱りきった眼差しを浴びます。もういうほかありません。


 ――彼は、先日、子どもが産まれたばかりなんです。それでバイ…… 仕事をですね、がんばっていて……


「あなたには関係ないでしょ」


 大家に断ち切られ、おまえを一刀両断してやろうか? いや嘘ですけどね。


 しかしながら、僕は人の話しを遮る人間がはっきり申しまして、嫌いです。話しは最後まで聞くのが最低限の礼儀だ、と祖母は常々口にしていました。


「だいたいね」大家が僕に詰めより、「あなたもあなたで、こんなろくでなしを部屋に入れてやる必要なかったんだ。だからこの人がつけあがるんですよ」


 いよいよいいすぎでありましょう。鍵男にも、初対面の僕に対しても。


「悪いのは俺です。この人は関係ないです」


 鍵男が割って入りました。が、大家は引き下がらないどころか、こめかみを震わせ、燃えあがらんばかりに見上げるのです。


「もうたくさんだよ! あんたはいつも口ばっかだね!」


 女性がこれほどに怒る様を、僕ははじめて目にしました。


「あたしがバカだったよ。今まで我慢してきたけど、もうあんたたちには出て行ってもらうからね!」


 僕もですか? 何をいっているのでしょう? この人は頭がおかしいのでしょうか? 大家とはそんなに偉い人種なのでしょうか?


 疑問、憤慨、気味の悪さ。それらに心がかきまぜられてしまい、鍵男が大家へ伸ばした哀願の手が振り払われる様子を、ただ網膜に映していました。


 とつぜん、風が狭所を抜けたような音がし、大家が倒れました。


 僕はとうに混乱していましたから、大家がふざけているのか、とも思いました。

 それを打ち破ったのは鍵男です。


「大丈夫ですか!? ハンジョウくん! 足持って、ベッドに寝かせて!」


 いわれるがままそうしました。マスクを外してやった彼女の顔を見ると、まぶたをひくつかせ、白目がのぞき、呼吸は行き場のない隙間風が滞留するような異様なものです。


 鍵男は彼女の首を支え、後頭部にかけて見回しました。


「ちょっと血が出てる。倒れたとき壁にぶつけたんだ」


 ――タオルとってくるよ…… どう、したんだ?


「心臓が弱いんだ。薬を飲んでるって聞いた」


 人の顔が石膏色になってゆく様もはじめてでした。呼吸は浅く弱くなってゆくようです。


 おそるおそる手を握ると、潮目の引く速さで指先から温もりが失われ……


「救急車呼ぼう。俺が電話する」


 鍵男の声がします。


 僕の視界は、にわかに、なぜでしょうか、大家を横たえたベッドから、本来の色が消えていくのです。写真が焼け焦げ、灰色になってゆくように。



 ――待て。


 聞こえないのか、鍵男は慌ただしくスマホをタップしています。


 ――待てっていってんだろ!


 振り返った鍵男が表情をなくした。救急車だと? 許さねぇ。


 ――もう少し待ってくれ。な?


 務めて穏やかに、ご丁寧に頭まで下げてよ。


「ど、どうして?」


 ヤツの瞳に浮かんだのは怯え? いや、いまはそんなことに世話を焼いていらんねぇ。


 世界が、砂に覆われてゆく。どんな許容や慈悲をも含んでいない灰褐色の風に吹かれて。


 ――ここは俺の家だ。俺の家で起こったことの対処は俺が決める。


「……決めるっていったって」


 ――なぁ、こいつ死ぬかな?


 鍵男は殴られたみてえに首をのけぞらせやがった。首筋の筋肉が緊張し、それが全身へ伝播したことがわかる。


「な、何いってるんだよ?」


 降って湧いた幸運だった。目の前で、人が死ぬかもしれない。しかもこの手を汚すことなくだ。その時を、見たい…… 見たい…… 見たい…… 待ちに待ったその瞬間が、訪れるかもしれない。


 そのためには――


 ――俺はこいつがムカつく。おまえだってそうだろ? これはこのババアの自業自得なんだ。だろ? ちょっとお仕置きしないか? いや、暴力じゃない。少しだけこのまま放っくんだ。な?


 めんどくせぇが、やはり鍵男の協力は必要だ。それを引き出すため、俺は急ごしらえの理由を並べた。が、奴は俺になびかない。


「病院に連れてかなきゃだめだ」と、拳を握り、くさびを打つように両足を踏ん張りやがる。


 とにかく、時間が惜しかった。時間という早馬はもう俺を引きずって駆けだしているんだからな。


 俺は立ち上がり、真正面から鍵男に対峙した。奴の口がわななく。


「……お、おまえがいいま、いったこと、け、警察に証言すんぞ。そうされたくなかったら、はやく救急……」


 ――やってみろよ。


 邪魔くせえマスクをとる。紐がブチンと千切れた。


 これを乗り越えれば山の頂きだ。長年望み焦がれたその場所からは何が見えるのだろう。到達した俺は、膝をつき、涙を流して眺望するだろうか。


 そのもうあとひと踏ん張りを邪魔する石ころを、谷底へ蹴落として、進め。


 ――どうせたいした罪にはならない。俺がババアを殺すわけじゃないし、この場合、救護義務もない。おまえが証言したところで俺は無罪かもしれないし、もし罪に問われたとしても、釈放されたら、おまえをどこまでも追い詰めて牛刀で切り刻んでやる。おまえに自分の目玉を喰わせてから、指を一本ずつ切り落としたところで、今何本残ってるかを当てるゲームをしてやる。絶対に、絶対にそうする。


 俺のアレは完全に勃起してた。このババアの生きている姿には何の欲望も湧きはしない。だがいまは、たしかに自分を構成する一部でありながら忌むべき嫌悪すべき隠匿すべきと長年拘禁してきた獣欲をちょっと外へ散歩させるくらい許されるんだからそれをコイツになんか邪魔はさせねぇ。


 ケダモノは、ボクサーパンツにいままでの欲求不満をぶちまけそうなほどいきり立ってた。


 鍵男が泣きだした。綱渡りをやらされているように身体を揺らして。不規則な息をひっひっと吐きやがる。


 ――なぁ、ちょっとおとなしくしてるだけでいいんだ。お前に不利益はない。約束する。そうだ、疲れたろう。風呂入ってもいいぞ。タオルあそこにあるから。


 いい考えだった。奴が風呂入ってる間にババアを犯す。なんども、なんども。ババアはきっとこのまま死ぬ。その後で救急車を呼んだら警察や医師は身体の異変に気づくか? バレたら死体損壊罪? いや、生前の婦女暴行罪か?


 まぁいい。


 どちらにせよ、鍵男のことはもう十分あやしてやった。ヤツが身体を震わすばかりで行動には出ない、と確認すると、俺はベッドにひざまずいた。女のセーターの袖をまくり、ズボンのすそも膝まで上げる。


 見たいんだ。今はまだ青黒い末梢血管から血液が干上がって、枯れた組織が硬直していく様を。


 白く肉づきのいい中年女の肉を凝視する。自分の吐く息で、鼻と唇が火傷しそうに熱い。あぁ、もうガマン汁くらい出ちゃてるかも。ったく、やんちゃなコイツめ。


「……義理の母なんだ」


 鍵男などもはや眼中になかった。足元で鳴くネズミより取るに足らねぇ。だから奴がヒクつきながら何をいおうが――


「俺の嫁の…… お母さんなんだ…… その人は……」


 俺の、おそらく脳が、その意味を俺に伝えてきた。いまは1%たりとも思考用のメモリを鍵男になんか割りあてたくねぇ。なのに、つい、振り返ってしまう。


 ――あ?


 鍵男がたじろいだ。蹴り飛ばされた犬のように間合いの外まで退くと、涙と鼻水が口に流れ込むのをぬぐいもせず、つっかえながらいう。


「ひとり娘が、俺みたいな奴と結婚するっていうから、凄く反対してるんだ。だけど娘が…… 俺の嫁が、どうにか説得してくれて、父親が遺したこのアパートに、俺が就職するまでは住まわせてくれてるんだ」


 ひどく面倒なことが起こったような気がした。要するに、目の前で泣いてるこのパリピが、このババアの義理の息子だと?


 ――だったらよ。


 俺は、Win-Winな提案を出してやる。


 ――おまえにとってもこの義母が死んだ方がいいだろうが? 結婚を反対する奴はいなくなるし、ひとり娘がこのアパートを相続だってできるんじゃねぇか? 一石二鳥だろうが。


 鍵男がうつむいた。


「……認めてもらいたいんだ。結婚を……」


 なんて、クソほど気色悪いことをいいやがる。


「……俺は、こんなバカだし、なのに子ども作っちゃって、反対されるのは当然なんだ。悪いのは俺なんだ。だからその人は何も悪くない…… いつか、ちゃんと『お義母さん』っていわせてもらいたいんだ。就職して、ちゃんと稼いで、家族を幸せに……」


 こんな口上を惨めったらしく述べ、ぐだぐだむにゃむにゃいい終えると、


「お願いします! 救急車を呼ばせてください!」と頭を下げる。


 俺の登頂を邪魔する石ころを、谷底へ蹴落として、進め。


 俺はズボンを脱いだ。その両足部分を持ち、左右にバシンと張る。ビンビンにいきり立ったボクサーパンツの頂点を見下ろすと、ふぅよかった、まだ漏らしてねぇ。

 いきなりそんな姿になった俺を、鍵男が呆気にとられ見つめている。


 奴との間合いを詰めた。さすがに何かを察した鍵男が一歩退く。話し合いは決裂だ。首を絞めて殺る。そのあと大家を犯す。そういうこと。


 と、何かを得心したように、鍵男の目に光が差した。


「信じてないんでしょ?」


 意味を測りかねた俺は、鍵男にスマホをとりだす時間を与えちまった。119番はさせねぇ、と飛びかかろうとした俺に、奴は、「これ見てください。証拠写真です!」と、画面を突き出した。


 病室で赤ん坊を抱く大家。


 こいつの嫁が撮ったものだという。


 その画像を見つめたほんの一瞬が、俺には22年に思えた。


 俺はガキに、すり鉢状の砂底へ放り込まれたのだ。躊躇するほど身動きのできない蟻地獄へ。


 子どもは恐怖だ。その存在だけで大人を支配する。


 気づけば、奥歯を割るほど強く噛み締めていた。ズボンの股を引き裂くほど腕に力を込めていた。 


 スマホの画面に、色がつきはじめた。病室のアイボリー。赤ん坊のピンク。はにかむ大家の淡いボーダー。そして、明示のできない色彩。


 ようやくわずかばかり陽を見られるはずだったケダモノを、散歩用のリードをつけた後で暗い檻に連れ戻すなんて、あまりに不憫だ。怒りの咆哮は哀れな甘えでもあると分かっているから、俺だって痛ましい。あるいは、宝くじの当選券を、高層ビルの屋上から風に飛ばしてしまったようなものだ。血眼になって眼下を見下ろしても、もうそこには変わり映えしない日常が広がって「まぁ昨日までの日々に戻っただけじゃないか」とクソみたいな慰みを受けても、そんなの誰が聞き入れられる?


 分かってる。


 俺は排除されるべき異常者だ。


 人並みなど望めない鬼畜だ。


 だけどな、それは求めて授かったものじゃない。そんなもの、欲しくなどなかった。


 俺をこんな恥ずべき獣にしたのは誰だ?


 そいつを、俺は憎む。


 そいつを、俺は殺す。


 そう、俺が本当に殺したいのは、鍵男でもこのババアでもなく……



 ――もう、いい。分かった。


 鍵男はエサ待ちの金魚のように口をパクつかせる。


「――それって……」


 ――せいぜい仲良くやれよ。このババアと、嫁とガキと。


 俺はズボンを投げ捨てた。高々とテントを張っていたボクサーパンツがしぼんでゆく。


 なのに、まだパクパクやってる鈍くせえ鍵男だ。


 ――さっさと救急車よべこのバカが! ババアが死ぬだろうが!


「はっ、ありがとうございます! 救急車、呼ばさせて頂きます!」


 ――それから俺を思いっきり殴れこのゴミカス!


「は?」


 ――殴れっつってんだクソ野郎! やんねぇなら殺す!


 胸の奥から熱いものがこみあがる。すべてを、何もかもを振り払いたくて、それがあふれ出る前に、俺はわざと大げさに拳を引き、唸り声をあげた。


 蠅の止まるような右ストレートが奴に届くより先に、信じられない衝撃を顔面に受け、俺は吹き飛んだ。



 ……ええ、そうです。僕の義理の母です、この人は。


 遠いところから引き戻されてくる血流のひだが、誰かの声を拾っていました。


 ……こっちの人は、ハンジョウさんといって、この部屋の住人です。事情があって、上がらせてもらってるんです。


 知らない男性…… いや、たしか今日会った、鍵男…… 話し相手は救急隊員でしょうか。


 ……義母が倒れて、どう対応したらいいかお互いパニックになって、気がついたら、ハンジョウさんとケンカになってました。それで、僕が殴ってしまって……


 僕と大家さんは救急車に乗せられました。彼女は病院で回復し、僕も精密検査で異常なし。もちろん、僕を殴った鍵男を告訴などしません。


 後日、鍵男、あの大家さん、そして、奥さんに抱かれた赤ちゃんの四人で、迷惑をかけたと、わざわざうちにお越しいただきました。


 とんでもないです…… と、逆に恐縮ながら粗末な部屋にあがっていただくと、ひとつだけお願いをしました。


 ――あの、できればでいいのですが…… 赤ちゃんを、抱かせていただけないでしょうか?


 ことみちゃん、というお名前だそうです。一応、このご時世ですので、その前に手を洗って。


 ――どっ、どうやって抱けば?


 首を支える抱き方を教わり、慎重にそーっと腕におさめます。


 赤ちゃんって、柔らかくてふわりとしているのですね。もぞもぞと不思議そうに見つめられ、背中がくすぐったい心地になりました。背骨あたりの、あの日から温もりをなくしていたところが、ほかほかとほぐれてゆくのです。


 人の親になることは許されない者の、わずかばかりの現実逃避。


 ――ことみちゃん、ありがとう。すこやかに育ってね。


 白い春が、鍵男家族を見送る僕に降りそそぎ、陽だまりのなか、人知れずこうつぶやいていました。


 よかった。今日も殺らなかったぁ。



 第一話 完

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