最終話 - 後編 死ぬべきヤツを殺る話し④

 数日の夜、市松さんに電話しました。


「市松さんは、とんでもないことをいっているんですよ」


 電話の向こうに、禁断の果実がありました。あまりにも有害・不道徳・不法な、決して口にしてはならない快楽が。それをそそのかす蛇は、僕の胸底で暴れ狂うケダモノです。


「『そうするのがベスト』と、市松さんはいいましたね。でもそれは違う。市松さんが立ち直って娘さんを迎えに行くことが、その子の人生にとっても一番いいことのはずです。そうでしょ? だから、そんな考えはやめてください……」


 相槌はありません。構わず僕は続けました。


「偉そうにすみません。いや、だれだって、人生に疲れてしまうことはあると思います。ももし、話し相手、みたいなのが必要なら、僕でよければ、というか……」


 我ながら本当によく我慢したものです。僕は、甘美な林檎の誘惑に打ち勝った。それは今後の糧になるでしょう。


「とにかくですね、立ち直るために――」


「立ち直りたいと願って、立ち直れた…… そんなテレビドラマみたいになってほしかった。そう努力したつもりです」


 暗澹たる声。悪寒が、ぞわりと僕の背中を這い上がります。


「わたしの人生は、やって失敗、やって失敗、の繰り返しでした。みんなそうだよ、っていうかもしれません。でも、わたしは、失敗するたびに、確実に状況を悪くしてきたんです。ここで失敗したら後がない、絶対やってやるぞ、と思った場面で失敗してきたんです。親からは邪魔者扱いされ、友達と思ってた人は離れ、身体目当ての男たちを拒否する意気地もなく、この人ならと結婚した彼との関係は修復できずに、娘とも別れた。それが、ここまでの結果です。でもそれも自分のせいだ。もう他人のことは頼らず自立しなきゃいけない。そうしなきゃと思う気持ちが、すごく前向きになれたり、わけもなく落ち込んだりの繰り返しで。寂しくて寂しくて。でも、人生って、長いです。調子が上がったり下がったりしながらも、結局は前向きでないと、日々を乗り越えてはいけないんです。薬でもなんでも使ってそうなろうとすることに、正直、疲れてしまいました」


 理性が、僕を踏みとどまらせます。


「メリー社長にいったことは…… 娘を迎えに行きたいとか、立ち直りたいとか、あれは何だったのですか?」


『あれだって嘘じゃないんです』


 声に懸命さが表れていました。


『わたしだって、バカじゃありません。いえ、バカですけど…… でも、人として何が正しいかくらいは分かります。テレビとか見ていて、嫌なことがあっても頑張ってる人、どん底から立ち直った人、いつかいいことあるさ、って前向きな人、本当にすごい。わたしもそうなれるように…… でも、気がつくとまったくそう考えられない自分もいて、行ったり来たり、というか…… 苦手、なのかもしれません…… 逆にハンジョウさんはどうなんですか? 正しい、こうすべきだ、人生はこうだ、というほうを、口にするだけじゃなく、選択できるのですか?』


 ……できません、僕には。


 自殺とは、ある日命を絶つ、というよりは、闘病の果てに力尽きてゆくことに似ている、と聞いたことがあります。小さながん細胞が徐々に身体を蝕んでゆき、体力のなくなった身体を、最後は軽い風邪さえもが殺してしまう、と。


「……でも、でも」


『自分らしさ。ありのままで。ひとりひとりの個性。世界にひとつだけの存在……


 そういう言葉って、『ただし人を傷つけなければ』の注意書きが入ります。じゃあ、すっかり暴力が染みついてしてしまった”人でなし”の”自分らしさ”って何ですか? それを考えると、自分がなくなっていくような、自分で自分を否定し消していくように、惨めで』


 戦慄しました。


 電話の向こうに、僕がいたからです。


 僕が僕に、吐露しているのです。


 胸を張って生きようにも社会から拒否される生霊が、彼女の口を借り、積年の怨をぶちまけているからです。


 目を逸らしたかった。耳を塞ぎたかった。なのにこの右手、スマホを手放してはくれない。


『セラピーとか、回復プログラムとか、救いの手はあります。でも、さっきも言った通り、なんとなく前向きにはなれず、娘からしても煙たい毒親なんですから、じゃあ、私は何のために回復するのでしょう。行き詰ったこんな自分、一度リセットしちゃいたい』


 一度リセット。


 そのカジュアルな響きはかえって僕の心を重く締め付け、血管を絞り、血を冷たくさせてゆきました。


「……わかりました」


 リセット。そう、あまり深刻に考えることはない。


 彼女は、生まれ変わればいいんだ。


「あなたを殺します」


 僕は、甘い果実をもぎとったのです。



 グダグダと清廉な御託を並べやがって、一時はどうなるかと思ったが、結果オーライだったな。


 死にたい奴は死なせてやればいい。生きる自由に死ぬ自由。あなたの自殺助けます。お互いWin-Win一石二鳥。いや、社会にとっても有益かもしれないから、三鳥か?


 まぁ、お前らが自己保存のために、死を忌み遠ざけたい、蓋をしたい、って気持ちはわかるよ。


 だが真理はな、死とは安らかで静かで美しい。


 たとえばプロスポーツ選手が美しい引き際を自ら決めるように、いつかあらゆる命に等しく訪れる”そのとき”を自己プロデュースする。これは己の在り方のひとつなんだよ。


 あぁ、早くあの女をぶち殺し、腫れあがるまでヤッて、切り刻みてぇ。それでよ、臓物と血の海をのたうち回りながら、もういちど、俺のやんちゃな白濁をぶちまけてぇな。



 午後の河川敷では、川の音と、少年野球の打球音と、トランペットの練習音が、水面を滑ってゆく風に巻かれ、広い空へ舞いあがっていました。


「これ、東京みやげです」


 土手に腰をおろした市松さんから、小さなお菓子を渡されました。


「東京?」

 手をついて座った僕の横では、夏を越えたノアザミが、川へ向かって可憐な手を振っています。


「先週、赤坂へ行ったんです。久しぶりに、知り合いとごはん食べたりしました。もう会えないかもしれないので」


 おみやげと交換のような形で、僕は、A4の紙に手書きしたものを市松さんに渡しました。



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 計画書


 ※重要※

 ①この紙は秘密裏に保管し、最終的に作成者へ返すこと。

 ②今後、互いに電話、メール、LINEなどの連絡は一切禁止。相談事などは直接話すこと


【準備編】特異行方不明者認定を受けないために


・書き置きの作成

『わたしは遠い場所で生きることにしました。新天地で人生をやりなおします。探さないでください』という内容の、手書きの置き手紙を作成する。

 ※内容は要検討。


・荷造り

 小さなスーツケースに、以下の荷物を詰める。

 通帳、印鑑、キャッシュカード、クレジットカード、数日旅行に行くイメージでの生活用品(歯ブラシや洋服など)

 ※部屋はきちんと片づけておくこと


【当日編】


・失踪の宣言

 親しいが、距離的に離れている人へ、書き置きと同様の電話をかける。落ちついて、あまり長時間しゃべらずに切ること。


・駅へ出発

 十八時すぎに、この計画書、荷物を持ち、家を出る。電車に乗り、○○線で○○駅へ向かう。

 ※前述の通り、作成者へ連絡することは厳禁


・駅に到着

 ○○駅前のバスターミナルに、レンタカーに乗った作成者が待機しているので乗りこむ。乗車後、あなたはこの紙を作成者へ返し、作成者が用意するゴム手袋をつけること。

 ※車種などは事前に直接伝えるものとする

 ※乗車前にトイレは済ませておくこと


・家へ出発

 作成者の家へ向かう。

 ※途中休憩などはしない


・家に到着

 ゴム手袋は常にはめたまま、作成者の家でその日をすごす。翌日、作成者はいつも通り仕事に行く。あなたは家で待つ。

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 目を通した市松さんが訊きます。


「冒頭の”今後お互い連絡は禁止”って?」


「僕と市松さんのつながりを断つんです。職場の同僚ではあるけど、プライベートで連絡はとっていないと。警察にあなたの通話記録をなどを調べられたら嫌ですから。今日も、なるべく人に見られたり聞かれたくないから、喫茶店などではなく、こうして河川敷で会うことにしたんです」


「なるほど」


 堤防の芝生を、飼い主と、赤いバンダナを巻いた柴犬が軽やかに散歩してゆきました。


「”特異行方不明者”ってなんですか?」


「命の危険があると警察が判断した失踪者です。日本では毎年数万人の行方不明者が報告されているので、特異行方不明者と認定されないと、警察は基本的に捜索しません」


「……ということは、その認定をされないために、自分の意思で蒸発するんだ、っていうことを、わたしの筆跡で書いたりするのですね?」


 僕はうなずきました。


「あ、わたし、スーツケースって持ってないです」


「大きめのリュックとかは?」


「あ、それならあります」


「じゃあこの赤ペンで直してください」


 そうやって、細部を詰めながら、彼女は彼女自身の殺害計画を、僕と練ってゆきました。


 この数日、この身体は熱を持っていました。


 汗が止まらないのです。それなのに、暑さ寒さはもとより、皮膚感覚も喜怒哀楽もどこか遠くに置かれ、ついには脱水症状にもなりかけ、水をがぶ飲みすることもありました。


 どろどろの殺意が粘っこく燃えています。


 決して露呈しない殺人。


 そんなもの、夢物語だと思っていました。日本の警察は優秀です。考え抜いたつもりのトリックなど、現代の捜査能力と監視カメラなどを駆使すれば、必ず警察が解決します。それが、なにしろこれは、被害者の協力のもと自発的な失踪が演出でき、捜査対象にすらならないのです。完全犯罪を達成する自信がありました。


 そして何よりも、「最近なにかあったのかい?」と僕のわずかな変化に気づき、その果てに悲しむ肉親は、だれもいない。


 市松さんを秘密裏に殺す。そのことに全精力を傾けていました。


 それが楽しかったか、と問われると、実はあまり憶えがありません。好きなことに極限まで集中している人は、その駆け抜けてゆく時間を楽しい云々とは捉えていないそうです。それと似ているのかもしれません。



「”失踪の宣言”ですが、”親しいが、距離的に離れている”という人にあてはありますか」


「……親しくはないですが」


 市松さんが、ふっ、と頬を緩めました。


「わたしの父親がいいと思います。もうまったく関わりはありませんが、連絡先は分かります。こんなにふさわしい人はいません」


 やはり本気なんだ。親にいたずらをするかのような彼女の狂気をかいま見、僕の決意は焚きついたように激しさを増しました。


「市松さん、その計画書の続きです。僕が仕事から帰宅したら」


 ナイスバッティーン!


 グラウンドでは、まだユニフォームもぶかぶかの少年球児が一生懸命一塁へ走っています。


「あなたを絞殺します。血が出ないし、狂気も隠しやすく、あなたも比較的楽に死ねる」


 さすがに彼女が顔をしかめました。


「怖いですか?」


 憐れみなど、もはやありません。


 顔をぎゅっと強張らせ、彼女がかぶりを振りました。


「大丈夫です。やってください」


 諦観のようなものが掠めていました。


 彼女は手術を目前にした患者です。メスを入れられる恐怖と、それを乗り越えれば楽になれる未来とを天秤にかけ、後者にサインしたのです。


「はっきりいいます」


 執刀医と患者との十分な意思疎通のうえでの合意、のために。


「あなたを殺し、その遺体を、俺は犯します。たぶん何度も。そして切り刻んで細かくし、然るべきやり方で捨てます。いいですね?」


 水面をきらめかせた風が、夏を越え成長した河原の草木をうららかに撫でてゆきます。それはもう若草ではないみどりの薫りでした。


 長い瞬きを、彼女がしました。


「……覚悟してます」


 もう何もありません。彼女を流れる総距離十万キロの血管を流れる四リットルの血を、僕は浴びるのです。あの穏やかな川は、僕の目には真っ赤に染まっていました。


「そもそもが」


 市松さんが言います。


「私がこんな無茶なお願いをしてるのですから、反対なんかできません。それより、せめてお礼をしないと…… 少しだけですが貯金もあるので――」


「ダメです」と、断じました。


「まとまった金額を引き出したりしたら警察に犯罪性を疑われかねない。金なんかいらないし、だいいち、俺みたいな異常者にとって何がいちばんのご褒美かは分かってますよね?」


「……でも」


 引き下がろうとしないこの女のゆがんだ道徳心はどこに基準を置いているのでしょう。


「……なら、ハンジョウさんが食べたいものとかないですか? それなら後に残らないから……」


 血と灰色がのしかかった広大な空を、僕は見上げました。


 食べたいもの、ね。


 自分から引っ張りだされてくるものが何かは、おおよそ見当がついています。


 母との想い出の食べもの。


 やがて、バニラアイスの雲が、路線橋の上に浮かびました。


「じゃあ、ハニートースト」


「ハニートースト? 食パンにアイスが乗ってる?」


「小さい頃、どこかの店で食べたんです。けど、それがハニートーストという食べ物だと、最近になって知りました」


 うなずきながら、市松さんがスマホで検索をはじめます。


「東京ならいっぱいあると思うんですけど、この辺だと…… あ、カラオケの○○」


「カラオケボックスか…… まぁ、他の客に見られたり話しを聞かれる心配もないしな」


 空は、いつの間にか、九月の青さをとりもどしていました。


「ではハンジョウさん行きましょう。やっぱりここはちょっと暑いですし。タクシー拾いましょうか?」


 正直、めんどくさい。さりとて、それで死にゆくこの女の気が済むのなら。


「いえ、バスで行きましょう。人目を避けるために。上流の○○駅まで歩いて、ターミナルからバスに乗りましょう」


 迂闊にも気づきませんでしたが、我々のすぐそばを手をつないだ男女が歩いてゆきました。その女のほうが、くすっ、と笑みをこぼしたのです。


 女の目に、我々はどう映ったのでしょう。核心部分は聞かれていないはずですが、草花揺れる河川敷に隣り合って座っていた男と女が「カラオケへハニートーストを食べに行こうよ」と、バスに乗るため腰を上げた。手にはお菓子の箱まで持って。


 そう思われたのでしょうか。



 土手のサイクリングロードを上流へ、僕らは歩きました。やはりコンクリートむき出しの街中よりは過ごしやすいです。歩きだした汗を、少しだけ秋の薫りをはらむ川上の風がさらってくれます。歩くのと大差ない速度のランナーが僕らを追い抜いたり、少年サッカーチームの集団が「失礼しまーす」と自転車で対向してきたり。大小多種多様な犬も散歩されています。


「川原を歩いたのなんて久しぶり」


 おそらく、気持ちいい、という意味でしょう。横の市松さんが軽やかにいいました。まぁ、冥途のみやげになれば……


 駅まで十分ほど。その間、川を眺めている市松さんを見ていると、なるほどしだいに余計な考えにも耽ってしまいます。


 この人と、この散歩道を、ふつうに、平凡に、友達として、あるいは見たままの関係として。


 そういうふたりとして、歩けたなら。


 だれかと心をかよわせる。


 ケダモノにとって、それが禁断の果実でしょうか。


 憧れて、しかし決して欲しがってはならない、下から見上げているだけの甘酸っぱい望み。


 ――もし、女の人と手をつないだら、どういう感触がするのかな。


 無用で無意味な空想は、駅でバスに乗っても消えてはくれません。やや混雑した車内。仕方なく市松さんと隣り合います。僕が窓側で。


「ほ、涼しい」


 生きている彼女の火照った首筋を、ふと見やってしまいます。


 あと何日かで二度と汗をかかなくなる。そう思うと、もういちど見ておきたい気にかられ、でも嫌がられるかもしれない、と。


 目の前の席には、おそらく夫婦と思われる老男女。


「夕方からひと雨くるかもだって。天気予報で」


「あぁ、そう」


 何でもない、平凡さを交わしている。きっと、”ふつう”の夫婦なのでしょう。


 ふつう。そう評されることを嫌がる人もいると思います。僕にとっては、このうえなく安らかで、贅沢な響きですが。


 ゆっくりと動いてゆく景色を見るでもなく見ていると、脈絡なく、昔、母と揺られたバスの赤いシートを思いだしました。


 どこへ行くにもバスでした。僕が飽きないように、また通路にはみ出さないように、ママはいつも僕を窓側に座らせていたっけ。


 また母親の記憶か。苦笑せざるをえません。二十二歳にもなって、ふとすれば、あぁそういえばママとあの時に、と、マザコンです。


 母は二十七歳で死にました。いま隣にいる市松さんはもっと年上のはずです。


 ……?


 いま、母に言及した後、なぜ市松さんを引き合いに出したのでしょうか。無関係なのに。


 バカか。


 でも、彼女が、すぐ隣に。


 僕と、同じ景色を見ている。


 それが、なんだか……


 今日の僕は、いや、このところずっと、やはりおかしいようです。ひとつ目のバス停で、こうも思ってしまったのですから。


 カラオケ店が、もっと遠かったらいいのに。

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