第四十二話 ありのまま

 ハルカです。

 あの後、僕達は這い回る御使いセルペンスの長老の家に招かれていた。

 エニスさんとプロヴィンキアさん、スズキちゃん、ハイドライド様も一緒だ。

 今は大人三人の晩酌に付き合っているところ。

 ちなみにスズキちゃんは夕飯をご馳走になった後、早々に床に就いてしまった。

 ああ、僕は飲んでないよ。手元にあるのは普通のお茶です。


「そうか、奴は元気にやっているか」

「ええ。と言っても僕はほとんど会話できてないんですけど」

「かかか! とことん無愛想な奴だからなぁ!」


 僕の答えにハイドライド様は太腿を叩いて笑った。

 今は何の話をしているのかと言うと、あの隠君子ハイドライドさんのこと。

 なんでも彼は一頃ハイドライド様のところで武術の手ほどきを受けていたことがあるんだそうで、ハイドライド様のことを――本人は大したことを教えていないからと嫌がるけど――第二の師と慕っているんだとか。


「カヌチの末の孫の話か」


 エニスさんがハイドライド様に酌をしながら言う。

 カヌチと言うのは樹王アガスティアであるエニスさんと同じ四天王――じゃなかった、五徳デュミナスの一人で、金尊シュクラとも呼ばれている。

 その人のお孫さんとなると神様の血筋と言うことになるわけだ。

 只者ではないと思っていたけど本当にとんでもない人だったみたいだ。


「そう言えばエニスには面通ししていなかったな」

「無理もない。海路でじかにそちらの宮まで行ったんだろう?」

「貧相な小舟でな」

「大した胆力だ。だがそうなると間が合わないことにはね。俺も滅多に出歩かないし」

「姐貴の紹介だからな、外界でえんじゅの木でも生えてればおめぇさんの家を経由させてやることもできたんだろうが」

「今時はかなり珍しいらしいね。なぜか分からないけど」

「あ、やっぱりそう言うこともできるんですね」


 話題の後半部分に思うところがあり、やや遅れて僕も口を挟む。

 エニスさんは猪口に口をつけながら「一応ね」と答えた。


「日本と違って地続きだから、生えてさえいれば挿し木と同じように扱える」

「なんの話だ?」

「あ、すみません。僕の家の庭にも槐があるんです。それでまあ……」


 僕はちょっと恥ずかしいなと思いつつ、ハイドライド様に説明した。

 遡ること数日前、トーマさんがエニスさんにある相談を持ちかけた。

 その内容はずばり、エニスさんの権能で僕を日本に還すことはできないか。

 なぜそんな発想に至ったのかと言えば、うちに槐が生えていることを僕がトーマさんに話したからだろう。

 そしてここからが今回初めて語る内容だ。

 果たしてエニスさんの答えは「恐らくできなくもない」だった。

 ただし、エニスさん自身のコンディションは元より、暦に時間帯、場所やその他様々の条件を満たさなくちゃいけないらしく、ぶっちゃけエクリプスに送還させるのとどちらが早いかと言う次元なんだそう。

 それを聞いたトーマさんは「なら旅も続けなきゃいけないわね」と笑っていた。

 僕は――僕はうっかり泣いてしまった。

 たぶん、せいだと思う。

 あの時は、涙の理由を誰にも言わなかったから、トーマさんとエニスさんには随分心配させてしまった。

 そのことも含めて、この場では丸ごと打ち明けた。

 時間経過で多少は落ち着いたのと、トーマさんがいないことが決め手になった。


「……帰りたくない?」


 僕の真意を知ったからなのか、エニスさんは普段以上に優しく尋ねて来た。

 子供扱いされているような気もしたけど、嫌じゃなかった。

 実際、僕なんてまだ十四歳の子供だ。

 でも、それを傘に着て甘えるのは好きじゃない。

 だから、せめて自分が感じていることをきちんと言葉にするよう心がけた。


「帰りたいです。でも、二度とこちらに来れないのかと思うとうまく折り合いがつかなくて。……こうなる気がしていたから、なるべく考えないようにしてたんですけど」


 これまで目に焼き付けた情景、出会った人達、その全部が名残惜しい。

 どれもこれもトーマさんと一緒だったお陰で触れる機会に恵まれたものばかりだ。

 トーマさんが何かを成し遂げるたび、そこには和気あいあいとした世界が広がった。

 つまるところ。要するに。はっきり言うと。


 僕はトーマさんと会えなくなるのが嫌なんだ。


 だけど、日本にいる母と四人の姉に会えなくなるのも嫌だ。

 だから困っている。

 本当に、困る。


「そのままでいいと思うよ」


 まるで僕の思考が滞るのを見越したようなタイミングで。

 エニスさんは優しい声でそう言った。


「帰りたいのは家族が大切だから。そして名残惜しいのは恐らく、お前なりにいい旅ができているからかな。どちらの気持ちも悪いものじゃないし、誰に迷惑をかけてもいない。なら、無理に割り切ったり押し殺すなんてもったいないと思わないか?」

「もったいない、ですか」

「とてもね。だからこそ悩んでいるんだろうけど、それでいいんだ」


 エニスさんの声がとても柔らかい。

 そのせいか場の空気もきめ細やかで、丁寧に包まれているような感じがした。


「どうせ答えなんてものは時期が来れば自ずと湧いて来る。逆に言うと、どれほど頑なに意志を固めていても、その時になってみないことには意外と分からないものさ。最後の最後までね。だから、まずはありのまま楽しく過ごして。その上で悩むんだ」

「ありの、まま……」


 エニスさんはそう結んで、猪口をくいっと煽った。

 プロヴィンキアさんがすぐにお酌をする。


「……まあ、碌に悩みもせずローダンテスこちらに残ることを選んだ俺が言うのは、少し無責任な気もするけど」


 そうしてまた波々と注がれた酒を眺めながら。

 エニスさんはちょっとだけばつが悪そうに付け加えた。


「最後まで……か。言えてるな。なにせ「死ぬまで所帯を持つつもりはない」と言って憚らなかった頑固者が何をどう心変わりしたのか知らんがこうして桁違いに年上の女とくっついてるわけだからなぁ、んん〜?」

「ハイドライド、その話は……」

「……………恥ずかしい」


 ハイドライド様にからかわれて、エニスさんとプロヴィンキアさんは互いを見る。

 何百年も一緒にいるんだろうに新婚気分なんだなー、なんて思った。

 エニスさんを大樹海クアドラトゥーラに連れて来たのはトーマさんだと言うから、この微笑ましい光景にもやっぱりあの人が関わっていることになる。

 長い時間を生きて沢山の人と関わって、そりゃあイタクパテクさんの時みたく辛いこともあるかも知れないけど、きっとその何倍もの幸福を紡いで来たんだろう。

 トーマさんが成し遂げたことをもっと知りたいし、これからも見ていたい。

 どうやらこれが今の僕の、ありのままの気持ちだ。


「ありがとうございます」


 気がつくと、僕はエニスさんにお礼を言っていた。

 気持ちの置き所が見つかって、トーマさん以外にも心を開ける人に出会えて。

 それが嬉しくて、自然と口が動いてしまったんだと思う。

 エニスさんは「同郷のよしみとでも思ってくれ」と笑顔を見せた。


「それにしても……」


 おもむろに、ハイドライド様が少し身を乗り出してじろじろと僕の顔を見た。

 藪から棒にどうしたんだろう。


「……あの、僕がなにか?」

「いや、なに。聞けばおめぇさん、あのエクリプス性悪の申し出を突っぱねたっつうじゃねぇか」

「ええ、まあ」

「見たところ頭ははっきりしているみてぇだが……体はなんともねぇのか?」

「……?」


 ハイドライド様は珍獣でも見るような目つきでよく分からないことを訊いてきた。

 頭の方を心配するのは理解できる。

 もしも恩寵グラティアを受け取っていたなら、僕もウパシルレさんみたいにアレな人になっていたかも知れないから。

 けど、それに関しては周知の通りだ。

 体……カラダねえ? 駄目だ、全く分からない。


「たぶん、今のところ特には」


 僕はとりあえずそう答えるしかなかった。

 ハイドライド様は「そうか」と居住まいを正して、また猪口に口をつける。


「しかしまぁなんだ、念のため一度姐貴に診てもらえ」

「姐貴……ってエーデルワイス様ですか?」

「あぁ。あいつと旅してりゃどうせ会うことになるだろうしな。なら一番詳しい」

「はあ……分かりました」


 よく分からないけどとりあえず頷いておいた。

 この手のことってどの手だろうなんてお馬鹿なことを思いながら。

 その後は他愛もない話題に花を咲かせて、お酒がなくなるとお開きになった。


 そして次の日、僕はまだ薄暗い頃に目を覚ました。

 少し睡眠不足だったけど、気分は悪くない。

 昨夜色々と話せてすっきりしたのかも知れない。

 せっかく早起きしたのだし散歩でもしようか、なんて清々しい気持ちでなんとなく外に出たところ、長老の家の前で行き倒れを発見した。

 どことなく見覚えのあるそれはくたくたになった赤い髪が上半身を覆い隠していて、パッと見うつ伏せなのか仰向けなのかも分からない。

 もっとよく観察するために忍び足で近づいてみると。


「ハルカくぅん」

「うわっ!?」


 それは突然体を起こして、すぐに僕の方へ倒れ込んで来た。

 脱力していたからか予想外に重くて、僕は支え切れずに尻餅をついてしまった。


「うにょ〜、鍛え方が足りんろぉ」


 それ――トーマさんは自分こそぐにゃぐにゃになっているくせに怪しい呂律で僕の力不足をたしなめたかと思うと、僕の上で寝息を立て始めた。


「…………」


 僕は、意外と冷静だった。

 姉達のうち上二人がこれと似た状態でたびたび玄関に転がっているからね。

 違いがあるとすれば酒臭くないと言う点だけど、代わりに普段のトーマさんとは違う幾つかの花の香りを混ぜたような複雑な匂いがした。

 後で聞いたところトーマさんの症状はいわゆる象気マナ酔いで、濃ゆい象気マナに長時間曝露されているとこうなるんだとか。

 僕はどうにかトーマさんを背負って、這い回る御使いセルペンスの長老の家に引き返した。


「なんだかなあ」


 余談だけど、一緒に出かけていた翔べる群嵐ロクスタ浄き縁ソフォーラの長老は、なんだかつやつやしていたそうだ。

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