第三十六話 帰還

 ハルカです。

 僕は夕食の後、なんだか寝付けなくて割り当てられた部屋でぼんやりしていた。

 後から思い返すと何時間もそうしていたみたいだけど、その時は自覚してなかった。

 そしてたぶん明け方になって。

 なんだかものすごく寒くなって来た。

 夜の冷え込みとかそう言うレベルじゃなく、いきなり冬が来たみたいな。

 いくらなんでもおかしい。トーマさん達に何かあったに違いない。

 そう思って部屋を飛び出して、エニスさんのアトリエに向かった。

 別に確信があって行き先を決めたわけじゃなくて、他に心当たりがないからだ。

 とにかくそうしてアトリエに飛び込むと、ふっと空気が暖かくなった。

 同時に少し耳が塞がるような感覚があったけど、暖が取れるのはありがたい。

 少しほっとしながら室内を見回して、最初に目に入ったのはプロヴィンキアさん。

 彼女は火のついた囲炉裏の前に腰を下ろしてなぜか揺り籠のように揺れている。


「ちょっと暖まらせてもらってもいいで――」


 僕が近づくと、プロヴィンキアさんは振り向いて「しーっ」と人差し指を立てた。

 その胸に眠る女の子を抱きかかえながら。

 声を出すのを自粛しつつ僕も囲炉裏に向かうと、更にプロヴィンキアさんはある方向を指差す。

 そこではエニスさんが一心不乱に絵筆を振るっていた。

 髪が解けていて遠目に見ても服が少し傷んでいるのが分かる。

 何があったのかは分からないけど、それなりに大変だったのかも知れない。

 更に見回してみたところ、パイカラさんは来ていないみたいだ。

 そして――。


「あの、トーマさんは?」 

「…………。もう……帰っているわ……」


 僕が小声で尋ねると、プロヴィンキアさんは女の子の方を向いてそう答えた。

 つられて僕もその子の寝顔を見る。

 年の頃は七歳か八歳くらいの、藍色の髪をした綺麗な顔立ちの子だ。

 ……でも、どことなく見覚えがある顔のような、そうでもないような?

 不思議に思いはしたけどすぐに浮かぶ心当たりもない。

 少なくとも会ったことはない筈だ。

 とりあえず置いておくことにして、プロヴィンキアさんの言葉の意味を思う。

 彼女の言う通りトーマさんが帰って来ているのなら、どこそこにいるとか寝ているとか、もう少し適切な言い方がある筈だし、そう言うと思う。

 なぜならプロヴィンキアさんは陰キャではあってもコミュ障ではないからだ。

 とすると、この場にいないのはどうしてだろう。

 実はどこかに隠れているとか?

 そう言う悪ふざけもありえなくはないけど、なんとなくそんな空気じゃない。

 そうだ、空気。

 肌に伝わるほど空気が張り詰めている感覚がある。

 急に寒くなったせいもあるだろうけど、エニスさんも原因の一つに違いない。

 それはトーマさんの姿が見えないことと何か関係があるんじゃないのか。


「プロヴィンキアさん」

「…………」


 僕は名前だけ呼んで、プロヴィンキアさんの顔を見た。

 彼女の目元はヴェールで分からないけど、顔すらこっちに向けようともしない。

 僕の一番上の姉が後ろめたい時に見せる態度と似ている。

 きっと言いにくい、口に出したくないことがあるんだ。

 こう言う場合、相手はいくら問い質しても頑なに答えてくれない。

 だから僕は座敷を離れて、真っ直ぐエニスさんの方へ向かった。


「エニスさん。今いいですか?」


 エニスさんはちょうど筆を置いて疲れたように目を押さえていた。

 見るからに疲れていたけど、それでも声をかけると気さくな笑みを浮かべる。


「……ハルカか。気が付かなくてすまない。何かあった?」

「トーマさんは――……!?」


 僕は問い質そうとして、息を呑んだ。

 エニスさんと向き合う帆布キャンバスに描かれている赤毛の女の人の絵に。

 僕がきっと変な顔をしたせいだろう、エニスさんはくすりと笑って逆に聞いて来た。


「ちょうど完成したところだよ。どうかな?」


 エニスさんは帆布を僕の方に向けてくれた。

 どこからどう見ても、いつもの活き活きとしたトーマさんの姿だ。

 精緻なのに窮屈な感じのしない、むしろ大胆な色使いで、息をしているようで。

 ……だとか、ごちゃごちゃと慣れない言葉が沢山浮かんだりしたけど、こう言うことは自分の素直な言葉で答えるべきだ。


「その……いいと思います、すごく。まるでそこにいるみたいで」

「……そうか。お前がそう言うなら大丈夫かな。ちょっとそのまま見ていてくれ」


 エニスさんはなんだか不思議な言い回しをした。

 そうして僕がよく分からず「はあ」と間の抜けた返事をしている間に彼は帆布の後ろに回って、目を瞑る。

 一瞬、エニスさんの体が緑色に光った。

 かと思えば、光はすぐに絵の方を包んで――次の瞬間。


「おわあッ!?」


 真正面からに飛びつかれて、僕はそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。


「えへへ、ただーいま」


 僕を押し倒したそのは僕の上で四つん這いになったまま、笑顔でそう言った。


「…………」


 ええと、待って欲しい。

 少し脳の処理に時間がかかりそうだ。

 どうやら今僕の上に乗っているはエニスさんの絵からにょきっと生えて来たらしい。

 首を捻って帆布を見ると、描かれていた絵が消えて真っ白になっている。

 ……………………。

 ………………………………………………………………これはあれか。

 女神像の時と同じ理屈か。

 オーケー把握した。


「……あり? ハルカくん? おーい」


 僕が考えている間、ことトーマさんは僕のほっぺをむにむに引っ張って好き放題弄んでいた。


おふぁえりあはいおかえりなさい


 なすがままにされながら、とりあえず返事だけはしておいた。


 張り詰めていた空気が、一気に軽くなった。

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