第三十四話 走火入魔

 ローザに首を掴まれたまま、ウパシルレはその双眸を禍々しく光らせた。

 すると彼が騎乗していた熊に似た獣が二人の元へ突進して来たが、エニスの目の前を通った瞬間、彼のブーメランから放たれた見えざる刃でその胴体が両断された。


「クッソォアァァアアあいつらが来れば貴様らなんぞォッ……ゲホッゲホッ!」


 ウパシルレはじたばたしながらがなり立てるも、より強く首を絞められ、最後まで言うことは叶わなかった。


「みんなとっくにおねんねしたわよ。夜も遅いしさ」

「ッ!?」


 一縷の望みさえもはや――否、最初からそんなものありはしなかった。

 失望と憎悪に目を見開くウパシルレに、ローザは冷ややかな視線を以って応える。


「いい加減分かったでしょ。所詮こんなもんなのよ、あんたが――」

「うッ……うがはッ! がッ……………………!」


 そのままローザはぎりぎりと握力を強め、ウパシルレの首を握り潰さんとした。

 ……が、いよいよ危うい顔色となった途端、彼の体はローザの手をすかっとすり抜けて崩れ落ち、そのまま白目をむいて昏倒した。


「――……あたしがやって来たことなんてね」


 ローザは腕を前に延ばしたままぎゅっと拳を握り締め、哀しい声で呟いて。

 ふと半月を見上げ、それを睨むようにしばらく眺めた後、エニスへと振り向いた。


「――!?」


 その瞬間――猛烈に冷たい風がつむじとなってローザをもみくちゃにした。

 見ればそれは木霊エコーの少女を中心に巻き起こっている。

 彼女は宙に浮かび、真っ黒い瞳で天を見上げていた。

 しばしばを起こし、そのたびに強烈な凍気が周囲に放たれている。


「ちょっとエニス!」

「来るな!」


 エニスは既にかなりの距離を取って、油断なく少女を観察している。

 そればかりか編んでいた髪は解け、肌に木目が浮かび、体のあちらこちらから枝葉が生えて急速に成長し続けていた。

 頭部に生えた対の枝角はどこか鹿を思わせる。

 樹王アガスティア本来の姿であった。

 また、そんな彼に呼応するかのように、三人を取り囲む形で何本もの巨木が生え揃いつつあった。

 他方、木霊の少女は一層身を仰け反らせて暗黒の瞳を真上へと向け。

 痙攣のたび放たれる凍気は周囲を薙ぎ払い、あたりの草木を黒く凍てつかせた。

 捨て置けば間もなく新月の夜の如き結晶が視界を埋め尽くすだろう。

 更に、その凍気は遥か高空へも放出を続けている。


「ウパシルレ黙らしたのになんで止まんないの!?」

「負の感情を溜め込み過ぎたんだ。浄化しようとしたが手遅れだった」

「手遅れって……――まさか」


 ローザはエニスの元に歩み寄りながら、彼の不穏な言葉に息を呑む。


「もう討つしかない」

「駄目よ! そんなことしたらあんたにまで責任が」

「言ってる場合じゃない。上を見てみろ」


 エニスに言われるまま空を見上げ、ローザは目を見開いた。

 いつの間にか空は暗灰色に覆われ、月明かりを薄く広げている。

 少女から間欠泉のように吹き上がる凍気を中心に積乱雲が形成されつつあるのだ。

 それは急速に発達しており、今や広大な大樹海クアドラトゥーラ全域をも覆い尽くさんほどである。


「こんなの……」

「じき大規模なダウンバーストが起こるだろう。あれを今止めないと大樹海クアドラトゥーラ全域が薙ぎ払われて、その後凍土と化す。俺は樹王だ。この地を守る義務がある」

「そうだけど……もっと他にやりようってもんが」

「考える時間はない。お前は東皇マルドゥークにこのことを報せるんだ」

「やだ」


 ローザは拒否した。

 エニスの判断を。諦めることを。

 だが、エニスとて引き下がらない。引き下がるわけにはいかない。

 彼は恐らく五百年ぶりに声を荒らげた。


「……わがままを言うな! お前に何かあったらみんなに合わせる顔がない。老師とベアトリスには、特に」

「そんなのあんただって一緒じゃん! プロヴィンキアなんて泣いちゃうじゃん!」

「俺は

「それこそお互い様でしょ! あたしだけ特別扱いしないでよ!」

「そう言うことじゃない」

「そもそもなんなわけ? あの子のこと一瞬で切り捨てようとしたりさ」

「俺だって気は進まない」

「だからないって言ってんの! 背負い込もうとしないでって言ってんの!!」

「けどあれはあくまで木霊だ。ミヲ自身を手にかけるわけじゃない」

「うるさいッ!!!!」


 短い口論の末、周囲の風音をローザの声がつんざいた。


「…………」

「……ごめんエニス。ほんとごめん。分かってる。あんたはいつだって正しいし頼りにしてるわ。だけど、ここであの子のこと諦めたら……そしたらもう、あたしただの馬鹿じゃん」

「お前は――」


 お前は悪くない。悪いのは巡り合わせだ。

 辛そうに笑うローザに、エニスはそれを言うべきか否か判断し切れなかった。

 が、いずれ次の瞬間それを言うタイミングは失われることとなる。


「お願い。あの子はあたしが絶対なんとかするから。あんたの権能キャパは全部なんちゃらバースト抑え込む方に回して」

「よせローザ!」


 言うなり駆け出すローザを、エニスは言葉以外で止めることができなかった。

 恐らく力尽くならば不可能ではなかったが、彼女の胸中を思うとそこまで踏み切れなかったのだ。


「くっ……やむなしか……!」


 エニスは跪いて大地に触れ、一帯に新たな木を何本も生み出した。

 木々の密度を高め、せめて防風林と為してローザを守るように。

 それらは生えるたび、急速に成長していた黒氷の結晶を次々と撃砕した。


「サンキュッ」


 ローザは風除けに木々の陰を伝って木霊の元へと走って行く。

 しかし圧倒的な凍気がたちまち木々を樹氷に変え、加えて少女が放つ衝撃を伴った凍気はそれらを粉砕せしめた。

 エニスもまた負けじと林を森と成し、その身より生えた枝をも一帯に張り巡らせる。

 林は徐々に鬱蒼とし始め、次第に寒波は抑え込まれつつあった。

 更にエニスは周囲の象気マナと自身の元気オドを通わせ、急遽森の掟トロンプ・ルイユの行使に取り掛かる。


 ここで少し整理しよう。

 森の掟トロンプ・ルイユとは、樹王が統べる全ての動植物――引いては木行デンドロン象気マナ自体に対する絶対的支配力と、それ以外からの干渉を条件付きで禁止する権能である。

 そして、後者においては“条件”を絞り込むことで相応の強制力が発揮される。

 たとえば木行デンドロンで満ちたクアドラトゥーラ大樹海が不調法な侵入者を惑わすのは、エニスが許可していない者の“方向感覚が正常に働くのを禁止”していることに起因するが、この場合はローダンテス大陸の中で条件を満たす対象があまりにも多いための強制力しか持たせられない。

 従って、対象者の運が良ければ大樹海クアドラトゥーラの住民に保護されたり、生きて外界へ抜け出すこともないわけではないのだ。

 これに対し一見いちげんの強者が大樹海クアドラトゥーラへ足を踏み入れることすら叶わないのは、前述と同様の枠組みにおける対象の絶対数が非常に少ない、すなわち条件が絞り込まれているためであり、この前提こそエニスが認めていない強者――目安としては何某かの親神エロヒムを持つ眷属アポストルと同程度――の侵入禁止と言う、比較的厳しい措置を可能としている。

 では、仮に条件と禁止事項が見合わない場合は果たしてどうなるのか。

 答えは至って単純だ。


「まさかやる羽目になるとはね」


 エニスは僅かな逡巡を経て、無数の葉を成すが如く緑青色の膨大な象気マナを纏った。

 その色相は大樹海クアドラトゥーラの何より青く瑞々しい、まさに恵爾須えにすのそれ。

 一方、瞳は赫灼としながらも、この状況に際してなお穏やかなままだ。


「樹王エニスの名において、父なるクアドラトゥーラに王相死囚老法ホーライの適用を宣言する――」


 樹王となってから初めて行使する、森の掟トロンプ・ルイユ

 そして今、この場でいさめるべき事柄と対象は――。


「――これより後、イン=ヒュドール甲乙デンドラに一切の死を齎してはならない。相生そうじょうに従い……ただ糧となれ」


 凍気の奔流にかき消されかねない物静かな宣告は、けれど厳かで力強く。

 その声を発した瞬間、エニスを中心に木行デンドロン象気マナが放射された。

 それは瞬く間にローザと木霊の少女を、そして防風林を、この一帯を、大樹海クアドラトゥーラ全域を包み込んだ。


「…………きつい……!」


 エニスは片膝をついた。

 同時に彼の身から生え延びていた枝葉が砕け散り、自身も元の人間に近い姿に戻る。

 神にも等しい量の元気オドを持ち得ながら、その大半を消耗した結果だ。

 適用範囲は限定的ながらひとつの概念を丸ごと禁止すると言う、ある意味で釣り合いを取ろうとするのも馬鹿馬鹿しいことをやってのけた、その代償である。

 当面の間、樹王として大したことはできないだろう。

 象気マナを吸収し、再び元気オドとして溜め込むまでは。


「だが、まだだ」


 状況は終わっていない。

 むしろこれからだった。

 エニスは前方を見遣る。

 単純な意味でその視界は雑木林に覆われているが、彼の目は象気マナや生き物の元気オドのみを視ることができた。

 今、その赤い双眸が捉えているのは木行デンドロン水行ヒュドール象気マナが入り乱れる中、ローザの形をした元気オドが木霊の少女の元気オドを抱き締める様子。

 そして――。


「……まずいッ! 退けローザ!」


 エニスはふらつく足に鞭打ってローザの側へと駆け出す。

 少女の元気オドがこれまでで最も荒れ狂っていた。

 ローザのお陰なのか、それは時折僅かながら穏やかさを取り戻す向きも見られたが、所詮は焼け石に水だ。再度乱れるたびに黒い元気オドは巨大な象気マナの濁流となって激しさを増し続けている。

 対して、間近であまりに強力な水行ヒュドール象気マナにあてられ続けたためだろう、ローザ自身の元気オドは反比例して弱りつつあった。

 エニスは足を止めず、ローザの元気オドを包むように木行デンドロン象気マナを集めた。

 最前の森の掟トロンプ・ルイユが有効なうちはそれだけで凍気を緩和できる筈だ。

 しかしエニスが象気マナを操作し始めてすぐ濁流は一気に成長し、それは凍気と共に龍が如く遙か天へと昇る。

 やがてエニスがやっと物理的に二人を目で捉えることができた――その時。


 少女のかたえに立ち尽くす、この世で最も美しい氷の彫像が、そこにあった。


「ユミッ――!」


 エニスの絶叫が木霊した刹那。

 猛烈な突風が空から大樹海へと襲いかかった。

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