第二十四話 蜜蝋の櫛

 羽黒蜻蛉はぐろとんぼが一羽、ひらひらと羽ばたいていた。

 生い茂る木々の間を抜け、時には降りて地表の草花を翅で掠めてたゆんと弾ませ、その下に潜むささやかな沢で喉を潤し、遡って開けたところをまたふわりと翔けて、くるりくるりと儚くも胸躍るかのような軌跡を描き、愛しいひとが待つところを目指している。

 やがてつぶらな双眸には苔と蔦、そして白花に覆われた緑の大樹が映し出された。

 城にも見えるそれは大きくなりすぎて後ろの山肌とくっつき、滝とも同化しながら腐ることなく生き続け、緑の屋根のあちらこちらから惜しむように細く水を注いでいた。

 この一筋が、どうやら先ほどが立ち寄った沢の水源であるようだ。

 悠久の時を過ごしたために著しく肥大した幹には蔦に隠れて無数のうろが空いていたが、羽黒蜻蛉はそのうちひとつに飛び込んで迷うことなく突き進む。

 その果てには開け放たれた木の扉。

 中へとくぐればそこはゆったりと広く、見上げれば高さのある、中央に囲炉裏を設けた民家の如き空間。

 そして外の虚から差し込む光を頼りに板張りの帆布キャンバスと向き合う、槐の葉にも似た髪色をした線の細い青年の姿。

 羽黒蜻蛉は一目散に、けれどゆっくり彼の元へと翔けて行き、その耳の上へどこか恥じらうかのように止まった。


「ご苦労様。よく報せてくれた」


 青年は瞑目し、労いの言葉を囁くと共に、それ以上の優しさを以って黒い羽に触れる。

 すると羽黒蜻蛉は喜びに舞い上がるかのように翔び立ち、何方かへと消えてしまった。


「……そろそろ仕上げないとね」


 青年は今一度まぶたを開けて、果実の如く赤い目を帆布に向けた。

 そこに描かれているのは、彼の瞳よりもっとずっと赤い髪色をした乙女の肖像だった。


   ※   ※   ※


 ハルカです。

 色々あったけど、僕達は無事蜜蝋の櫛アピスの里に到着した。

 うん、どこもかしこも見事にツリーハウス。

 それも童話に出てくるようなやたら太い木の中に住むタイプのやつ。

 これを見ることができただけでも来た甲斐がある。

 ……と、まあロケーションは大満足なんだけど。

 実は僕、里に入る時かなり身構えてしまっていた。

 事前に森人エルフが総じて排他的だと聞かされてたことに加えて、ついさっき貴き月ラウルスの人達に襲われたばかりだったから。

 でも蓋を開けてみれば、誰もが親切に接してくれる安心安全な里だった。

 なんでも蜜蝋の櫛アピス森人エルフは養蜂を生業にしてる人が多いんだそうで、たまに良質な蜂蜜を大樹海の近隣に持って行って交易することもあるんだとか。

 そう言う事情もあって、ここの人達は他の種族に対する偏見が少ないらしい。

 それと、この里はラトナのギルド支部長マスターであるラカンさんの故郷でもあるとのことで、その縁からかトーマさんも里の人達とは知らない仲じゃないみたいだ。

 今は二人で蜜蝋の櫛アピスの長老に挨拶しに来てるところ。

 ツリーハウスの中は細い丸太が敷き詰められていて、藺草いぐさで編まれたクッションにあぐらをかくと言う、畳歴の長い僕としては落ち着くスタイルだ。

 僕達の真向かいに座る長老の外見は只人ヒュムで言えば三十歳くらいと若々しいけど、軽く八百年ほどは生きているとのこと。

 会った時からずっと目を瞑っているのが印象的だ。


「恐らくその若者はウパシルレだろう」


 トーマさんがこの里に来る前に襲われたことを話すと、長老はそう言った。


貴き月ラウルスの長の小倅だ。どうしようもない乱暴者で、よく他の氏族――とりわけ鱗人レプティリアン達と揉めていると聞く。そのたびに妹のパイカラが詫びて回るとも」


 目に浮かぶと言うか、本当についさっき起きたことそのままの内容だ。

 と言うことは、あのトーマさんにしがみついてた女の子がパイカラさんなんだろう。

 あんな兄のために頭を下げなくちゃならないなんて、末っ子として同情を禁じえない。

 誰かなんとかしないのかなと思っていたら、やっぱりトーマさんがそこに触れた。


「そこまで頻繁なら氏族会議で取り沙汰されそうなもんだけど」

雨を呼ぶ顎門クロコディルスの長が追放せよと訴えたことはあるが、過半数が取り合わなかった。今のところ当事者間の小競り合いで済んでいるからな」


 長老はそう言った後、僕に気を使って簡単に説明してくれた。

 このクアドラトゥーラ大樹海には大きく分けて十の氏族が暮らし、うち六つが森人エルフで三つが鱗人レプティリアン、一つが鳥人アビエイター

 さっき長老が言った雨を呼ぶ顎門クロコディルス鱗人レプティリアンの一氏族。

 また、十氏族は定期的にそれぞれの長老が集まり、その会合で様々な問題を話し合うことにより大樹海の秩序を保っている――と、内容としては大体こんな感じだ。


「だが、此度のことで樹王アガスティアが動けば、それは東皇マルドゥークに睨まれるのと同義だ。貴き月ラウルスとしても決断せざるを得なくなるだろう」


 なるほど、僕達が襲われたことが体の良い口実になるわけですね。

 トーマさんも樹王を通して抗議するって言ってたし、納得の流れです。


「追い出すにしたってあの性格じゃ相当暴れるでしょ」

「問題ない。幸いなことにお前がいるからな」

「ほえ?」


 と思ったら長老、どうやらトーマさんも巻き込むつもりだったらしい。

 トーマさんは目をぱちくりさせた後、僕に振って来た。


「ハルカくんハルカくん、このお爺ちゃん何言っちゃってるのかな? もしかしてジョーク? 森人エルフジョーク? うちらと笑いのツボが違うだけ? それともマジでボケちゃったとか?」

「往生際が悪いし失礼だよ」

「いやいやいやいやだってまさかそんなあなたやーよあたしタダ働きとか」


 僕がたしなめてもトーマさんはあくまで現実から目を背けようとする。

 その様子に長老はふむと思案し、対価を示した……んだけど。


「そこはひとつ、今宵の宿代と言うことでどうだ」

「見合わないっつーの! エニスにやらしとけばいいじゃん!」

「足りないか」

「足りるか!」

「ならば土産を包むとしようか。蜂蜜と……そうだな、ソースドゥソジャも付けよう」

「むッ!? ウヌ……いやしかし……」


 噛み付いていたトーマさんの態度が急変した。

 僕としても甘い物は嬉しいけど、その次に長老が言っていた物に反応したみたいだ。

 ちょっと訊いてみよう。


「ソースドゥソジャって?」

「ほぼお醤油」


 なんだって!?


「トーマさん引き受けよう」

「うッ」


 僕は迷わず言った。

 前にも言ったけど旅の間の食事は基本塩味。

 どんな素材を使ってどれほど上手に加減しても塩味。

 一週間以上もその調子だと流石に飽きてくる。

 そんな中、蜂蜜だけでなく醤油まで手に入ったら一気に食が豊かになるだろう。

 しかもこのソースドゥソジャ、後で聞いた話だと蜜蝋の櫛アピスの秘伝らしく、外界に持っていけば小さなお城が建つと言われるほど貴重なものらしい。

 僕達の食事情を抜きにしても対価としては充分すぎるだろう。

 まあ、この件で働くのはトーマさんなんだしあまり強いことは言えないけど、首尾よく手に入った暁には僕も食事当番として存分に腕を振るわせてもらうつもりだ。

 トーマさんもそれが分かってるからこうも悩んでるんだと思う。


「うううううううううう畜生この狸爺たぬきじじい旅人の足元見やがってえ」

「そう言えばヴォワは息災かな」

「うぐッ」


 怨めしげに手をわきわきさせていたトーマさんは、長老の言葉にびくっとなった。

 ちなみにヴォワと言うのは、ラカンさんの本名だそうだ。


「いや何。つい先日東皇より、あの子の元気オドが著しく乱れたと報せを受けていてな。あれも里一番の風使いなのだし大事ないとは思うが、やはり幾つになっても娘と言うのは心配なものだ」

「…………いじわる」

「はて」


 長老は少し芝居がかった調子で語る。

 僕も大体の事情は聞いてるけど、トーマさんの性格を踏まえてそれを持ち出して来るあたり、確かにこの長老はあざとい。

 しばらく縮こまっていたトーマさんは、やがて頭を掻きむしりながら溜め息を吐いた。


「〜〜〜〜あーもーやるわよやりゃいいんでしょ!?」

「そう言ってくれると思っていた」

「ふーんだ。どーせ最初からそのつもりだったんでしょ? エニスもハイドライドのじっちゃんもグルなんでしょ? 何よ、みんなして寄ってたかって外堀埋めに来て……」

「ヴォワのことがなければ、それも難しかったが」

「……!」


 そうしてぷんすこしていたかと思えば、今度ははっとして長老に向かい跪く。


蜜蝋の櫛アピスの大樹よ。このたびは大樹海クアドラトゥーラの宝にして貴殿の枝に最も赤く実った果実を私の不徳で危険に晒し――」

「やめなさいッ……!」


 けど、これは長老が身を乗り出して止めた。

 今までは穏やかと言うか抑揚なく淡々と話す感じだったのに、少し声を荒らげて。


「……お前はウパシルレの件を引き受けた。既にけじめをつけたのだ」

「だけどあたしがもっと」

「あの子は」


 まだ食い下がろうとするトーマさんを、長老は言葉で遮る。 


「……元気でやっているか」

「…………うん。相変わらず泣き虫だけど。怒ったり、笑ったり、楽しくやってるわ」

「そうか……良かった」


 そしてトーマさんの話を聞いて少しだけ目を開き、優しく微笑んだ。

 たぶんだけど、長老はトーマさんがラカンさんのことで気に病んでるのを想定して、あえて厄介事を振った。

 ラカンさんも支部長マスターとは言え冒険者なんだし、いくらでも危ない目に遭う可能性があると思う。

 そのことでトーマさんが一方的に責任を感じるのはちょっといきすぎだ。

 でも、謝らなくていいと言ったって、この人はきっと聞かないだろうから。

 だからこそ取引と言う形で、後腐れがないように手を打とうとしたんだ。

 そしてトーマさん自身が言ってたように、内容柄このことは樹王や東皇も一枚噛んでるんだろう。


 トーマさんは分かってるのかな?

 それだけ色々な人から愛されてるんだってこと。

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