第二章

第二十二話 木霊

 仄暗き幽き深き“森の掟トロンプ・ルイユ”をすり抜けて私は息を吹き返す。

 死んでいたのとは違う。けど魂魄が肉を出入りすることをそう呼ぶ者は多い。

 すぐ傍で私を覗き込んでいた森人エルフ達も随分驚いているようだった。

 たかが仮死状態で騒ぎ過ぎだ。

 

 ただそれだけなのに。

 それにしても魄の癒着が遅い。

 私と言う存在がこの肉の本当の魂魄ではないせいだろうか。

 目は辛うじて見えるものの耳が聞こえず手足も鉛のようだ。

 恐らく私は泉に横たわり浮かんでいるのだが水の柔らかさも温度も伝わって来ない。

 ゆらりゆらりと視界が揺れているのでそのように推測しているに過ぎない。

 森人エルフの男が醜悪な顔で何事か喚いているようなのにまるで分からない。

 もっと落ち着きなさい。そんな様では読唇もろくにできやしない。

 もっとも私の顎も喉も機能していないようだから他人のことは言えない。

 おっと――急激に視界が動いた。

 頭皮が伸びるようなこの感触は……先ほどの男が私の髪を引っ張っているのか。

 どうやら森人エルフに対する認識を改めなくてはならないようだ。

 排他的でこそあってもむやみに暴力を振るうような種ではないと思っていたのだが。

 しかしこうなると五感が鈍った状態を歓迎すべきかどうか。

 苦痛を感じないのは幸いだがそもそも体さえ動けばなすがままにされることもない。

 少し固い感触が背面を打った。

 泉から引きずり出されたのだろう。

 例の森人エルフの男は血走った眼で私を覗き込み歪んだ笑みを浮かべている。

 本当に酷い形相だ。

 よく見ると額に真円の痣があるのだな。

 なるほど合点がいった。太陰の女神の眷属アポストルと言うわけか。

 しかし一方で腑に落ちないところがある。

 樹王アガスティアの“森の掟トロンプ・ルイユ”に守られたクアドラトゥーラ大樹海は異物の侵入を決して許さない。

 外部から出入り可能なのはあらかじめ樹王が掟に組み込んだ者だけの筈。

 またいわく大樹海の中にいる者を女神が連れ去るのもまた不可能だと。

 ならばこの男はいかなる存在なのだろう。

 ……………………。そうか。

 

 捨て置いてはまずいことになる。

 早く樹王に――エニスに伝えなくては。

 ところで先程から酷く視界がぶれて息が詰まる。

 あの森人エルフの男が私を痛めつけているためだ。

 そのうち彼の仲間達も加わり拳や蹴りで打ち据えてきた。

 ある者は怒りに満ちた顔で。

 別の者は何かに怯えた様子で。

 無表情で黙々と打撃を繰り出す者もいる。

 一人泣きそうな顔をした娘だけは離れて見ているつもりのようだ。

 やれやれ困ったものだ。

 この肉はいずれローダンテスの主に渡さなくてはならないと言うのに。

 そう簡単には壊れない筈だがあまり乱暴に扱わないで欲しいものだ。

 おや。やっと飽きたのか。気は済んだかね。

 ならばそろそろ…………む。

 あの森人エルフの男が私の髪を掴んで体全部を持ち上げた。

 この身が幼体とは言え片手で宙吊りにしたのか。

 森人エルフらしからぬ怪力だ。

 彼はそのまま腕を目一杯振り上げ自身と同じ目線を私に強いた。

 双眸か……太陰の気配……す…………。

 こ…………洗……うか。

 …………黒……………………本……い…………伝……………………――――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る