第九話 道理
「ハルカくん!?」
“鼻垂れ”さんの手を掴む僕を、トーマさんはたぶん止めようとしたんだと思う。
「なんの真似だてめェ? 生憎俺ァそっちのケは」
「えいっ」
けど、僕はトーマさんも彼の声と関節も無視して、そのままぐいっと捻ってみた。
ごりごりっとした感触があった。
「あッガッ――!? んな、何しやがる!?」
すると“鼻垂れ”さんはびくんと手を引っ込め、トーマさんは解放された。
痛がるのは当然だ。人差し指が変な方向に捻れたんだから。
その直後、僕は思い切り蹴飛ばされて椅子やらテーブルやらと一緒に派手に転がった。
ちょっとボーリングみたいだなんて他人事のように思ってしまった。
蹴られたところだけじゃなくて体中が痛くて、とても動けそうにない。
けど、幸い意識はあるし視界も開けていたので、この後のことはなんとか伝えられそうだ。
僕は無理やり体を起こして無事な椅子に寄りかかり、事態を見守った。
トーマさんは受付の煙管を取り上げ、その動作の流れのまま火種を“鼻垂れ”さんの鼻穴に押し当てた。もしかすると鼻毛が気になったのかも知れない。
“鼻垂れ”さんが悲鳴を上げて身を引いたところに登場したのは“鳥頭”さん。
彼は両手を広げて飛びかかって来たけど、トーマさんはその頭を煙管でめちゃくちゃ殴り、仕上げに顎を弾いた。ぼこぼこになった“鳥頭”さんは脳震盪でも起きたのか、がくんと崩れ落ちて震えている。
残り二人のうち一人は真っ向から殴りかかり、もう一人は後ろで椅子を振りかぶった。
これに対しトーマさんは軸足を変えて移動しながら後ろの男に回し蹴りを浴びせ、その衝撃で彼の椅子が前方の男に直撃。椅子は粉々になり、二人は卒倒した。
その直後、復活していた“鼻垂れ”さんが剣を抜いて、トーマさんの視覚から突きを繰り出す――けどトーマさんは振り向き様に煙管の吸口で真っ直ぐ相手の切っ先を捉えて動きを止め、その動作の流れで踏み込み掌打を打ち込んだ。香港映画や格闘ゲームみたいに鮮やかな型だ。
そうして鳩尾に当てられ全身が震えるほどの衝撃を受けた“鼻垂れ”さんは、よだれを垂らしながら倒れ伏した。
トーマさんはなお動きを止めず、煙管が落下する前に回収すると即座にカウンターへと放り投げた。
すると受付が悲鳴をあげ、少し遅れて金属音が響いた。
角度と距離の関係でよく見えないけど、受付の人も武器を取り出したんじゃないかと思う。
「返すわ」
トーマさんは受付に言い捨てるなり僕の方に駆け寄って来た。
「ハルカくん!」
「流石だねトーマさん。素手もいけるんだ……痛ッ」
「もうっ……なんであんなことしたの!?」
なるべく心配かけまいと軽口を叩いてみたんだけど、やっぱり通じないか。
トーマさんは僕の体をあちこち触れながらさっきの行動を責めた。
「たかがおっぱい揉まれたくらいで傷つくほどあたしがヤワに見える!?」
「そういうことじゃ、なくてね」
「君は普通の人なの! あたしと違って簡単に死んじゃうの!」
「そういうことでもないんだ」
「ならどういうことよ!?」
トーマさんはすごく怒っていたけど、触れ方はとても優しくて、そこから伝わる癒やしの光は温かい。
お陰ですっかり体も楽になったので、僕は自力で体を起こして質問に答えた。
「……僕が女神の誘いを断ったのってどうしてだと思う?」
「今そんな話は」
「僕はね、トーマさん。道理の通らないことが我慢できないんだ。誰かが僕や僕の周囲の人に対して理不尽を押し付けたら絶対に反抗する。そりゃあ見てみぬふりをすれば痛い目を見ることはないかも知れないよ。でも、それをやっちゃうと自己嫌悪で死にたくなる。だから、
「…………」
トーマさんは眉根を寄せて少しの間黙り込んだ後、まるで自分を落ち着けるような細く長い息を吐いて立ち上がった。
「オーケー、また後で話しましょ。それじゃ病み上がりのとこ悪いんだけど、あの壁にいっぱい貼ってある紙束、全部回収しといてくれない?」
「分かった。落ちてるやつもだよね?」
「うん、よろしく」
「はあ!? あんたら好き放題暴れた挙げ句まだ何かやらかそうってのかい!?
僕が片っ端から紙を集め始めると、受付の人がカウンターを飛び出そうとした。
けど、早々にトーマさんが行く手を阻んで彼女を突き飛ばした。
尻餅をついてきっと睨みつける受付の人に、トーマさんは言った。
「お生憎様。
「なッ!?」
「意味は分かるみたいね。言っとくけどラカンに取り次いでくれれば穏便に済んだのよ」
「い、いないモンはどうしようもないじゃないか!」
「なんで? あれでも一応
「…………ッ」
なんだか規模の大きな話になってきた。
察するに、総長というのは冒険者ギルドの代表だろうか。
いつの間にそんな偉い人の指令を受けたんだろう。
もしかしたら単なるでまかせなのかも知れないけど、とりあえずあの受付には効果てきめんなようだ。
ラカンと言う人の行方を答えられない彼女に、トーマさんはいよいよ畳み掛ける。
「百歩譲って席を外さなきゃならない事情があるんだとしても、それならそれで留守預かってる
「うるさい! このことが領主様の耳に入ったらお前なんか……!」
「なんでそこで辺境伯が出てくるわけ?
「トーマさん、こっちは片付いたよ」
話のキリがいいところで僕の作業も終わった。
一枚一枚に厚みがあるせいでなかなかすごい量になったけど、丁度紐の持ち合わせがあったので縛って纏めることができた。これならなんとか宿まで抱えて持って行けそうだ。
トーマさんは直前までの冷たい声から打って変わって上機嫌に手を振ってくれた。
「ありがと。それじゃ引き上げよっか」
「うん。午後から約束もあるしね」
声を掛け合った僕達は受付に目もくれず、真っ直ぐ出口へ向かった。
なんだか後ろから遠吠えが聞こえるけど。
「ナメやがって……ッ! 生きてラトナを出られると思うなよ!?」
「チクりたきゃお好きにどーぞ。その代わり」
おもむろにトーマさんは抜刀し、真っ直ぐ掲げるように剣を振り上げ、またすぐに納めた。
直後、吹き抜けの天井が崩れ落ちて来て、あっという間に店内はめちゃくちゃになった。
受付は運良く崩落を免れていたけど、のびているゴロツキの皆さんは漏れなく下敷きになった。
ちなみになぜか僕達の周囲だけは何も落ちて来なかった。
「次はこんなもんじゃ済まさないわよ」
トーマさんは腰を抜かしている受付を一瞥して、冷酷に言い放った。
そうして僕達が外に出ると、通行人達が騒いでいた。急に建物が半壊したんだから無理もない。
誰もが僕達に注目していたけど、気にせずその場を後にした。
「……ねえハルカくん。お願いがあるんだけど」
「うん」
「せめてこの旅の間は、もう少しだけ自分のことを大事にして」
乳香亭に着くまでのほんの短い道のりで、トーマさんはそう言った。
考えてみれば、僕の行動の結果に対してこの人がこういう反応をするのは充分予想できたことだ。
日本に居た頃は僕が僕の選択によって怪我をしても悔いはなかったし、母や姉達も小言を言うくらいで基本的には尊重してくれてた。でも、本当はすごく心配をかけていたのかも知れない。
多少傷跡が増えるくらいなんてことないけど、もし一生モノの後遺症が残ったら? 最悪死んじゃったら? そういうことを想像させていたんだとしたら、流石に申し訳ない。
トーマさんがあんなに怒ったのは、この世界が日本みたいに甘くないからだと思う。
脅かしでもなんでもなく、ローダンテス大陸は命が軽い場所なんだ。
僕自身こちらに来てすぐ殺されかけたわけだから、それは身に沁みて分かってる。
ただ、ついさっきまでそれならそれで仕方ないと思ってただけで。
と言うか、今この瞬間だって変わらない。
自分の意思に従って何がどうなろうと自己責任だし、その結果死んだって別に仕方ないと思う。
だから、トーマさんには気にするなと言って済ませてしまいたい。
だけど、僕だって逆の立場だったら気にし過ぎなくらい気にする自信がある。
なのに、ここでトーマさんのお願いを無視したら筋が通らない。
そもそも僕は保護してもらってる立場なんだから、保護者の言うことはある程度聞くべきだ。
僕自身が筋を、道理を通さないのだけは絶対に駄目だ。
「努力してみる。トーマさんが自分のこと大事にしてくれたらね」
僕は考えた末、きっと僕自身が目指すべきものをそのまま答えることにした。
動機は違うだろうけど、この人はこの人で自分のことを二の次に置くタイプに見えたから。
「なにそれ? 生意気」
「今更でしょ」
「……いいわ、努力する。ハルカくんが自分のこと大事にしてくれたらね」
「台詞パクらないでくれる?」
「お互い様でしょ」
「引用とコピペは違うよ」
「ケツの穴が小さいこと言ってんじゃないわよ」
「前から思ってたけどトーマさんって言葉のチョイスがお下品だよね」
「育ちが良いから」
「そう言えば元貴族だっけ。風評被害で訴えられるよ」
「ないない。貴族なんて大半は如何に他人を貶すかで競い合ってんだから」
「やっぱり訴えられるよ」
そうやって僕達は軽口を叩きながら乳香亭に戻った。
少しだけ、その時間が名残惜しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます