第八話 冒険者ギルド
まだトーマさんの入浴シーンを期待している人がいるかも知れないのではっきり言っておく。
僕が知る限り、そんなものはなかった。
ただ、僕の入浴シーンでちょっとした出来事があったので、一応触れておこうと思う。
この宿のお風呂というのはトルコの公衆浴場、確かハマムとか言ったっけ。
ネットサーフィンで見かけただけの胡乱な記憶で恐縮だけど、それと似た感じだった。
色々な浴槽が並んでたり、くつろげるスペースがあったり、従業員に泡まみれにされて垢を落とされたりするあれだ。
マッパで寝転んで我が身を晒し他人に体を洗われる状況というのは、色々と脳の処理が追いつかなくて大変だったけど、旅の垢をしっかり落としてもらえたのでまあ良しとしよう。
問題はその後、ゆっくり湯船に浸かっている時のことだ。
「――連れの女性に伝えてくれ。明日の午後そちらに伺うと」
「え?」
不意に後ろから声をかけられて振り向くと、視界とは逆方向からざばっと水音が聞こえた。
もちろんすぐにそっちを見たけど、そこにはもう誰もいなかった。
だけどあの声とこの状況、間違いない。僕達にこの宿を勧めて来た黒尽くめの男だ。
せっかくさっぱりしたのになんともさっぱりしない気分で部屋に戻った僕は、さっきの出来事を早速トーマさんに伝えた。
「了解よ。知らせてくれてありがと」
丁度その時、トーマさんは例の円盤をテーブルに置いて眺めていた。
「昼間あの人に渡されたやつ?」
「そ」
「見せてもらってもいい?」
「どぞどぞ」
「どもども……!?」
トーマさんが軽々とつまんで差し出すので気軽に受け取ったところ、予想外の重量で危うく落としそうになった。
「あはは、気をつけてね」
「はい……」
気を取り直して円盤を観察してみた。
全体的に青緑だけどムラがあって、くすんだ金色の部分がところどころに窺える。
たぶん青銅が酸化してるんじゃないかと思う。
厚さは大体一センチ、同世代の中では小さめな僕の手でぎりぎり握れるくらいのサイズ感だ。
表面には刺々しい蔓と花、たぶん薔薇の意匠が彫り込まれている。
なかなか小洒落たデザインで、たとえばトーマさんみたいな人が文鎮にでも使えばそれっぽいかも、なんて思ったりした。
しかしここに来て、またしても薔薇模様とは。
「これってもしかしてエクリプス絡み?」
「うーーーーーーーーん当たらずとも遠からずと言うかある意味そのものと言うか……」
僕の質問にしばらくもごもごしていたトーマさんは、やがて観念したように溜め息をついた。
「あたしの私物よ。もぉーんのすごぉーく遠い昔使ってた文鎮」
「あ、やっぱり文鎮なんだ。でも、あの黒尽くめの人がなんでまたそんな物を?」
「“魔王様”の差し金でしょどーせ。厄介事回して来る時は決まってあたしの私物送りつけて来んのよ」
どうして魔王様がトーマさんの私物をいくつも持ってるのか気にはなるけど、それよりも今は黒尽くめの行動とその周辺に着目するべきだろう。
「昼間襲われたのもそれが原因とか?」
「そうだとも言えるし違うとも言えるわね」
「どういうこと?」
「たぶんあの場では“何を持ってたか”じゃなくて“誰から受け取ったか”が問題だったの」
「つまり、元々は黒尽くめの人が追われてて」
「あたし達は体良くなすりつけられたってわけ」
「はあ……。とりあえず何かに巻き込まれたのは理解したよ。それで、どうするの?」
「どうしよっかなー、めんどくさいなー」
「僕のことは気にしなくていいから、何かあるなら行って来なよ」
「んー……」
トーマさんはほっぺをテーブルにくっつけて物憂げに言った。
うちの猫が暑さにうだって潰れている時にそっくりだ。よっぽど嫌なんだろう。
その後、僕はべちゃっとしたトーマさんを食堂に引っ張って行き、二人で“結構いける”食事を楽しみながらいつもの調子を取り戻させた。おいしいものを食べれば案外なんとかなるもので、部屋に戻る頃にはトーマさんの表情も明るくなっていた。
次の日、僕達は朝から外出した。
行き先は冒険者ギルド。
トーマさんによると、情報収集がてら挨拶をしておきたいんだとか。
宿からそう遠くない場所にあるそこはラトナの街ではあまり見かけない木造の古い建物だった。
問題はその状態。
ところどころ木は朽ちているわ看板の色も落ちているわで、西部開拓時代の寂れた酒場を廃墟寸前まで放置したみたいだ。
ここまで来ると趣深いのを通り越していっそ不安になる。
トーマさんも眉をひそめていたので、やっぱり正常な姿ではないんだろう。
「ハルカくん、絶対あたしから離れないでね」
「うん、分かってる」
トーマさんの油断のない声に、僕は頷く。
本来なら
目の届かないところで何かあっても困るからと言うことらしい。
特に反対する理由もなく、僕自身冒険者ギルドを見てみたかったというのもあって気軽に同行した。
挙げ句がこのザマである。
僕達は外れかけのスイングドアを押しのけて薄暗い店内に入った。
……酒臭い。あとなんか酸っぱいしカビ臭い。
昨夜入浴したから過敏になっているなんてレベルじゃない。
こんな空気の悪い場所がラトナにあるなんて。まだ到着二日目だけど。
入ってすぐの空間は吹き抜けになっていて天窓から陽の光が差し込んでいた。
あの場所だけは殺菌されていて空気が綺麗なのかも知れない、なんてくだらないことを考えながら、少し店内を見回してみる。
向かって左手にはテーブルが並び、ガラの悪い男衆が酒か何かを飲みながら僕達をじろじろと睨んでいる。
右手は上の階に続く階段と扉がいくつか。壁には沢山の紙が乱雑に貼り付けられていて、落ちたものなのか床にも大量に散らばっていた。
そして正面の奥にはカウンターがあり、不健康そうな女性が煙管をふかしながら頬杖を突いて退屈そうにしている。あの人が受付なのかも知れない。
ただ、悪いけど見るからに化粧が濃い上、過剰なくらい胸元を開いたドレスを着たその姿は、どちらかと言えば娼婦みたいだ。
おもむろにトーマさんが歩き始めたので、僕はぴったり後を付いて行った。
静かだからなのか、床の状態が悪いせいなのか、妙に靴音が耳障りだ。
相変わらず男衆はこっちに注目している風だけど、あとなんか口笛とかも聞こえたけど、とりあえずは気にしないでおこう。
やがてカウンターの前に着くなり、トーマさんは冷ややかな声で尋ねた。
「ラカンは元気にしてる?」
「誰だいそいつは? 聞いたこともない名前だね」
受付はトーマさんに煙を吹きかけ、小馬鹿にした笑みを浮かべた。
そして酒を煽っているゴロツキ連中に向かってわざとらしく同じ質問を呼びかけた。
「そこの飲んだくれども! お前らの中にラカンって野郎はいるかい!?」
これを受けたゴロツキ達一同は一瞬固まった後、なんとも下品に爆笑して口々に語り始めた。
「よォ、おめェ名前は?」
「忘れちまった。おめェはどうよ?」
「さァな、親父にゃ“鼻垂れ”としか呼ばれなかったぜ?」
「そのうすらぼけたツラじゃ仕方あるめェ」
「そういやこないだオット―の野郎が舎弟に刺されてくたばったな〜? あの舎弟なんつったっけか〜?」
「そりゃおめェ……アレだ」
「“ケツ顎”」
「そうそう」
「なら俺ァ今日から“鳥頭”にしとくわ」
「“亀頭”の間違いだろ〜?」
「違ェねェ!」
「ゲハハハハハハ!」
いやはやどこに出しても恥ずかしいゴロツキの典型的な悪ノリである。
それだけで済めば良かったんだけど、やっぱりと言うかなんと言うか。
彼らは一頻り盛り上がった後、席を立って僕達に近づいてきた。
かと思えば一番体格が好くて鼻毛が出てる、確か“鼻垂れ”さんがトーマさんの肩に腕を回した。
「姉ちゃんよォ、ラカンだか誰だか知らねェが居もしねェ野郎のことなんざ忘れてよォ、俺達と一晩付き合わねェか?」
「まだ朝だぜ〜?」
「馬鹿、一日中ってこったろィ」
「マジで? こんな美人と一日中遊べんのかよ!」
「夜も期待できそうだな!」
「夜しか期待してねェだろてめェは」
「違ェねェ!」
「ゲハハハハハハ!」
「…………」
ゴロツキ達は相変わらず頭の弱い会話を繰り広げる。
トーマさんは伏し目がちに視線だけ“鼻垂れ”さんに送り、様子を見ている風だった。
その間にも“鼻垂れ”さんのいやらしい手がわきわきと迫り、今にもトーマさんの胸を掴もうと広げた瞬間。
「……あァん?」
「ハルカくん?」
僕はその手、と言うか人差し指を両手で掴んで止めた。
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