7


ひたすらに、町に戻る道を駆けていくと、やがて、アイリスとアヤメの姿が見えてくる。二人とも無事なようだった。そしてそれを認識した瞬間、アランの中で何かがぶちっと切れたのが分かった。


「あ、アラン!大丈夫だったの!?」

「ああ……」


 なぜ、アイリスが傷一つないようにぴんぴんしているのか、どうしてそこら中にくぼみができているのか、傭兵はどうしたのか、そんなことを突っ込む余裕すら、今のアランにはなかった。ただ呆けたように空を見つめるだけのアランのもとに、アイリスが歩み寄る。


「アラン、どうしたの?」

「っ」


 いま、アイリスに話しかけられるほど、つらく苦しいことはなかった。否が応でも心の傷はえぐられ、過去への罪悪感と、今への葛藤が再びよみがえる。目をつぶっても、耳をふさいでも、逃れぬことのできぬその苦しみは、アランを徐々に侵食する。

 そして、アランはそれにあらがうように、*アイリスに銃口を向けた*。


「あ、アラン!?」


 アヤメの短い悲鳴を聞き流し、ただただ視線の先で無表情を浮かべるアイリスに意識を集中させる。


 ――ここでこいつを殺せれば、この苦しみから解放される……!


 アランは、その一心でこうして、気がふれたかと思うような行動に出ている――いや、アランがこの少女にされた仕打ちを考えれば、当然のことなのだろうが。


「お……俺は、ずっとこの機会を伺ってたんだ、お前が油断しきって、俺に隙を見せる瞬間を!」


 こうやって、強がりを言うのも、時間稼ぎだろう。消えることのない葛藤を、どうにかなくすまでの、終わりのない時間稼ぎ。アランは、そんなことしかできないほど、弱いのだ。


「さあ、撃つ、撃つぞ!」


 引き金に手をかける。当然のように指は動かず、それどころか、全身も凍り付いたかのように動かない。瞼は自然に閉じることなく、アイリスを見つめ続け、乾いた瞳が、それを訴えるかのようにしずくをこぼした。とっくのとうに喉は乾ききり、あふれ出す声は、しわがれている。


「抵抗はすんなよ、撃つからな、今すぐ撃つからな」


 アランのその眼には、確かに怯えが宿っている。この目の前の少女が死んでしまうというのが、アランにとってどれほどの恐怖なのか、それは、自分自身を失う恐怖だ。自分が自分で亡くなり、いままでの人生は意味を失い、崩れていく。そして、今も何を目的に生きているのかすらわからなくなり、そしてそれはもはや生きていないのと同義だ。それほどまでに、アランはやはり、リリアに依存している。あの夏の日から、今日まで変わらず。


「――っ、死ね!」


 その絶叫とともに、わずかながら体の支配権を取り戻したアランは、目をつむり、わずかな金属質感を脳に伝える右手の人差し指を、手前に引いた。火薬の爆発する音とともに、吐き出された鉛の弾は、まっすぐにその軌道を描いていく。アランは自分が行ったはずの行動に、驚きを隠せず、閉じていた目を開いた。


「ち、ちが、リリア、これは」


 しかし、目の前の少女は、胸を貫かれていることもなく、ただそこに立っていた。気づくと、銃口は真上を向いたまま、わずかの煙をたたせていた。アランは、体の自由なんて取り戻せていなかった。銃口を少女に向けることすら、心が拒んだのだ。


「アラン」

「っ!」


 アランは、その場から一目散に駆けだした。無我夢中で、がむしゃらに。今彼女の顔を見てしまえば、次に銃口が火を噴くのは自分だと、確信していたからだ。

 やがて、足回りに限界が訪れ、ふと顔を上げると、そこは何もない草原だった。草花はアランをあざ笑うかのように風にゆっくりと揺られ、陽光はアランを責め立てるように全身を差してくる。


 ――いっそこのまま焼き殺してくれればいいのに。


 その願いは、遥か空のかなたから常にアランを見張り続ける、お天道様には届くことはない。アランは心を虚空へ体を叢へ投げ出した。

 

 ――わかっていた。俺はいつまでも逃げてるだけだってことは。


 アランはあの日、あの少女にすべてを奪われた日、あの少女を殺せなかった日、それまでのことを忘れようとした。夏の日とは対照的に、自分の意志で。いままでに出会った仲間たち、特攻隊のこと、その全てを。だってそうでもしないと壊れてしまう。自分からすべてを奪った少女への憎しみと、自分にすべてを与えてくれた少女への愛しみ、その二つからアランは後者をとった。仲間は彼のために、他者のために死ぬことを選んだというのに、アランは自分のために、仲間を裏切った。そんなこと、折り合いなんてつけられるはずがなかったのだ。だから忘れた。その感情も、記憶もすべてひっくるめて忘れようとした。だから、その失われたはずの仲間に、ユーリに会ったとき、同時に失われたはずの記憶を、強制的に呼び戻され、再び葛藤の沼の中に取り込まれた。そしてその葛藤の中で、アランはアイリスを殺す自分を想像した。自分で自分を殺す、それ以上に痛いものなんてない。こんなことなら、ユーリとずっと戦って、その白熱に身を委ねていたほうがまだ良かった。――それで死んだほうが、まだ許せた。


「――っくぅ、ぅうぁ……ぁあああああああああぁ!」


 もう痛いのは嫌だった。もう苦しいのも嫌だった。――もう、生きているのが嫌だった。アランは傍らに落ちている相棒を手に取る。ずっしりとした重みを感じさせるそれは、アランの処刑台にはぴったりだ。アランは、ずっとその重みから逃げ続けてきたのだから。

 アイリスの時とは違い、驚くほど体が思い通りに動く。首筋、一番太い血管が通っているそこに、剣身の切っ先を当てた。


 ――やっと、解放される。


 そこに恐怖はない、その先に後悔はない。アランはそれを――。


「だめ」


 ――引けない、びくともしない。いや、きっとアランが全力を出せば容易く引けていたであろうそれは、きっと*声*に止められたのだろう。


「アラン、それだけはだめ。自分を捨てないで」


 どうしようもなく、視界が定まらない。ぼやけているのだ。なぜだろう。わからない、分かりたくない。


「……俺は――」

「――アイリス。それが私の名前」

「――ぁ?」


 ――あいりす、あい、りす……だれだろうか。俺はそんな名前をしらない。だってその声は、リリアだろう?


「ほかの誰でもない、あなたの大切なものを壊した、アイリス」


 ――何を言ってるんだよリリア、お前は俺にすべてをくれたじゃないか。


「あなたと一緒に、宿に泊まった」


 ――してない。


「あなたと一緒に、串焼きを食べた」


 ――わからない。


「あなたと一緒に演奏した」


 ――知らない。


「そして――あなたと一緒に旅をしている、アイリス」


 ――しらない、俺はそんなこと知らない。知っちゃいけない。


「……だめなんだ……もう……許されちゃいけないんだ……俺は、俺は……!」

「私が、許す」

「ぇ……」


 言っている意味が分からない。ただ、こいつはリリアではない、ということが分かった。だって、リリアが俺を許すはずがないのだから。


「アランは、私を許してくれた。だから私も、あなたを許す」

「俺を、許す?」


 ――赤の他人のくせに、どんな権利があって、俺を許すというのだろう。別に許してほしくないし、むしろ飽きるまで罵った後に殺してほしいくらいだ。俺はそんな人間だから。


「許されたく、ない……許されるわけにはいかない……俺はここで死ななきゃいけないんだ」

「なら、償って。その気持ち、全部抱えながら、生きて生きて生きて生きて、最後まで生きて、死んだあとに謝るの」

「何いって――」

「死ぬことは償いにはならない、それはただ逃げてるだけ」

「っ!」


 その言葉は、深くアランに突き刺さった。逃げ続けてきた自分を罰しようと、死を選んだのにもかかわらず、それも逃げているというのだ。もうどうすればいいのか、わからない。――逃げ場が、なくなった。


「お前に、お前に俺の何がわかるってんだよ!!」


 だから、逃げ道を、針ほどの隙間でもいい逃げ道を探そうとがむしゃらに暴れる。


「痛いんだ!苦しいんだ!どうしようもないんだ!……もう、生きていたくないんだ!」

「……」

「嫌なんだ!もうこれ以上大切な何かを失うのは!でも生きていたらそれは必ず訪れる!だから死ぬしかないんだよ!」

「……その大切な何かに、アランは入ってないの?」

「――――――――――お、れ?」


 アランは、衝撃に身を固めた。考えてもいなかったのだ。そんなことは。


「――なんでそんなに自分を責めるの?なんでそんなに自分を拒絶するの?もっと好きになって、もっと大切にして――もっと自分を愛して」

「だって……おれは……」

「あせらならくていい、ちょっとずつでいい」

「……」

「大丈夫、夢から覚めて、アラン。まだやるべきことが残ってる」


 ――やめてくれ、もう嫌なんだ。痛いのも怖いのも苦しいのも悩むのも、それでも立ち上がろうとするのも、全部全部。誰も支えてくれないんだ。だからもう俺は、俺になれない――。

 その時だった。


「~♪」

「――っ!!」


 歌、歌だ。曲に合わせて詩を読む《うたう》。たったそれだけのことだ。それ以外のものにはなりえない。たとえ、思い出のものであっても、アランが救われる権利なんてない。


 ――ない、はずなのに……。


 どうして、頬に暖かいものが流れているのだろう。どうして、こんなにも痛みが消え失せていくんだろう。どうして、それが愛しいのだろう。恐怖と葛藤と後悔と欺瞞、アランの心を塗り固めていたそれらは、春の雪解けのようにゆっくりと溶けていく。

 支えは、あった。生きた意味は、生きる意味は、ここにあった。


「アラン、もう大丈夫」


 いつの間にか歌い終わっていたアイリスが、語り掛ける。それは疑問ではなく、確信だ。

 だから、*俺*もそれに答えた。より大きな決意をもって。


「ああ、大丈夫だ」


 ――そうだよな、アラン。


 俺はアイリスに夢を語った。


「――なあ、アイリス」

「なに?」

「この戦争が終わったら、『海』を見に行こう。俺の妹と一緒に」

「――わかった」




 時は、歩み出した。

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