忍者娘は花を届ける

氷砂糖

第1話

 現代においても古い日本の町並みが残る、箕田町。この町には忍者がいる。

 小柄な体が瓦屋根をぴょんぴょん飛び移り、町を駆ける。

「うーんと、ここかな」

 足を止めた彼女は、何のためらいもなく屋根を飛び降りる。とんと着地し、携帯でマップを確認した。赤いピンが刺さっている家の表札を確認し、インターホンのボタンを押す。数秒後に女性が応答した。


『はーい』

「風切です。フラワーギフトをお届けに参りました」

『え?ギフトですか?』

 戸惑った様子の女性の後に男性の声が割って入る。注文者はこの男性のようだ。戸が開いて家主が姿を見せる。二人は忍者のコスプレをした少女を見てぱっと笑顔になった。

「わっ可愛い!」

「サプライズに花を頼んでたんだ。話には聞いてたけど、本当に忍者姿で来てくれるんだな」

 少女はにこっと笑って決まり文句を言う。


「はい。ご依頼があればどこへでも参じます」

 抱えていた箱を渡す。女性がリボンをほどいて蓋を開けると、中には美しく詰められた生花があった。

「それでは。またのご注文をお待ちしております」

 ぺこりとお辞儀して、塀を足掛かりに屋根に飛び乗る。男女は少女が風のように立ち去る様をぽかんとして見つめていた。姿が完全に見えなくなるとはっと我に返り、興奮した様子で動画に残さなかったことを残念がるのだった。


 フラワーショップ風切は、少女の母が経営する店だ。元は米問屋だったらしいが、潰れて放置されていたそこを買い取って改装した。和の建築にわずかに混じった西洋の要素が、独特な雰囲気を出していて素敵だと評判だ。

 カウンターで作業をしていた母は、帰ってきた少女に声をかける。

「おかえり、穂乃。いつも助かるわ」

「このぐらい大したことないよ。配達はこれで終わりだよね?」

 仕事の数はちゃんと把握していたが、一応尋ねる。すると母はぱちんと手を合わせた。


「ごめん!実はついさっき、もう一件依頼が入っちゃって。断ったんだけど、どうしても今日中じゃないといけないって。お願いしてもいい......?」

 ばつが悪そうに、勢いのない口調でそう言う母に、穂乃は笑顔で頷いて見せる。

「いいよ。お母さんいつも言ってるでしょ。花屋の仕事は人を笑顔にすることだって」

「穂乃......ほんっとうにいい子!宏大も少し手伝ってくれれば穂乃の負担が減るのに」


 宏大とは兄のことだ。高校の部活や、友達との遊びばかりでちっとも母を手伝ってくれない。きっと今は二階の自室でゲームでもしているのだろう。でも悪い所ばかりじゃない。花の配達サービスを思いついたのは兄だ。まるっきり店のことに無関心というわけではない証拠だろう。きっと反抗期なんだ。自主的に手伝ってくれるのを待とう。


 母から渡された依頼の品を見て、目を丸くする。それは真っ赤な薔薇の花束だった。

「恋人にサプライズするんですって」

 それは......絶対に失敗できないな。穂乃は気を引き締めて店を出た。

 普段なら届け先は町内であることが多いが、今回は町の外だった。学校へ行くときにいつも乗る電車を使う。忍者のコスプレに加え、大きな花束を抱える穂乃は非常に目立った。忘れかけていた羞恥心がぶわりと噴き出し、顔が熱くなる。

 これは仕事これは仕事これは仕事!

 心の中で何度も唱えながら、突き刺さる視線に耐え抜いた。最寄りの駅へ降り立つと、周囲の景色は近代的なものへ変わっていた。駅舎は木造ではないし、自動改札がある。初めて町を出た時は、異世界に来てしまったように感じたものだ。改札を通り、駅の外でタクシーに乗る。


 運転手は珍妙なものを見る目を向けてきたが、目的地を言うと目を前に向けて車を走らせた。

 たどり着いた先は、天を突き破りそうな程高い建物だった。遠目には見たことがあるが、目の前にあると威圧感が凄い。お客様の笑顔の為にと自分を励まして中へ足を踏み入れる。受付の女性は穂乃の可愛らしい姿を見て、思わず頬を緩めた。

「あの......」

「はい。どうなさいましたか」

「私、依頼を受けてここに花を届けに来たんですが、菱千様からお話を聞いていませんか」

「ええ、伝え聞いております。こちらへどうぞ」


 女性について行き、エレベーターに乗る。チン、と音がして扉が開いた。ここはレストランのようだ。穏やかなピアノの音色がホールを満たしている。

「あちらのテーブルにいらっしゃるのが菱千様です」

「ありがとうございます。助かりました」

 花束を手に、スーツ姿の男性の元へ向かう。小さな忍者に目を留めた客たちが、何かのイベントかとささやき合っている。穂乃はまた顔が熱くなるのを感じた。気合で表情を固め、居て当然なのだといった態度で歩く。依頼主には一言くらい文句を言ってやりたい。この空間に忍者はおかしいだろうと。完全に人選ミスだ。


 菱千とその向かいに座る女性も穂乃に気がつく。菱千は微笑んで言う。

「とても可愛い配達人が来てくれたみたいだ」

 目の前まで来て気づいたが、彼は今まで見たことがないほど整った顔立ちをしていた。男の人は皆ごつごつしていると思っていたが、この人はまるで女性のように綺麗だ。別の意味で心臓がどきどきしてきた。声が上ずりそうになりながら穂乃は言う。

「ご依頼の花束を届けに参りました」

「ありがとう」


 女性は幸せそうな表情で花束を受け取る。菱千は真面目な表情で言った。

「誕生日おめでとう、美佳。それから君に話したいことがあるんだ」

「え、え、まさか」

 女性はこの後に言われる言葉を察して、口に両手をあてて興奮した声をあげる。穂乃はこういうシーンをテレビで見たことがあった。プロポーズだ。目を輝かせて幸せが成就する瞬間を待つ。周囲の客たちも固唾を飲んで見守る。

 菱千は上着に手を入れた。シャンデリアに照らされて、その顔に影をつくる。


 くるぞ、くるぞ。こんな美貌の青年にプロポーズされて、拒否する女性がいるだろうか。いやいない。誰もが成功を確信し、拍手で祝福しようとしていた。


 彼が出したのは指輪ではなかった。彼はテーブルに数枚の写真を広げて見せる。

「......え?」

「君の浮気相手たちだ。言い訳を聞くつもりはない。別れよう」


 場の空気が凍り付いた。女性はあ、え、と意味をなさない声を漏らしながら、必死に思考を巡らせているようだ。そして菱千はこの気まずい空間を一刻も早く立ち去ろうと階段の方へ向かっていく。十数秒遅れて、女性は硬直がとける。追いかけて縋りついた。

「ま、待って。なんで!私たちうまくいってたじゃない!」

「君にとって都合がいい関係だろ。俺は複数の恋人の1人になるのはごめんだ」

「寂しかったの!お願い許して!一旦落ち着いて二人で話し合おうよ!」

「話すことなんて無い」


 ばっさりと言葉の刃で切って捨てられ、女性は今にも倒れそうだ。誰がこんな結末を予想しただろう。最悪な空気となったレストランで、客は咳払いをして目を逸らす者、逆に面白がって目を離さない者、様々だった。


 穂乃は女性が可哀想になった。浮気はいけないことだけども、何も誕生日にこんな場所で別れなくてもいいじゃないか。しかもサプライズまで用意して。涼しい顔をしているが、菱千は多分すごく性格が悪い。別れることになって、ある意味よかったんじゃないかな。


 そう思っていた穂乃は女性の大声で意識を戻された。

「待ってってば!!」

 ぐいと引っ張られ、階段を降りようとしていた菱千はバランスを崩す。

「危ない!」

 穂乃は一瞬の判断で風のように走り出す。そして躊躇いなく階段下に飛び込んだ。重力を感じさせない動きで壁に足裏を合わせ、落下する菱千を視認する。穂乃の筋力では大人をキャッチすることは無理だ。怪我を最小限にするしかない。

 壁を蹴り、彼の腕を掴む。そのまま空中で身体を反転させ、手すりに一瞬足をつく。本来なら持ち上げることにできない体重が、重力の力を借りて羽のように軽くなる。あとは少し力を加えて、方向を誘導するだけだ。


 とんと床に降り立つ。スローモーションだった時間が元の速さに戻ってくる。しかし菱千は驚きの表情のままだ。

「お兄さん?大丈夫ですか」

 目の前で手を振ると、やっと目の焦点が合った。離れようとする穂乃の手を両手で掴む。

「え」

「俺と付き合ってほしい」

 空耳かと思った。もしくは落ちる時に頭を打ったか。ひたすら困惑する穂乃に、彼はもう一度言う。

「俺と結婚してくれ」

「悪化した......」



 その場から逃げ帰ってきた穂乃は、翌日学校で友人に話した。彼女の反応は意外なものだった。

「えー!もったいない!名前も言わずに逃げちゃったの!?」

「もったいないって......急に告白されたんだよ?」

「ラッキーじゃん。絶対相手金持ちでしょ。しかもイケメン」

 面食いの七奈とは反対に、そばで聞いていた泰知はドン引きする。

「何それキモ......ロリコンじゃん」

「そこまでは思わないけど心配になるよね、頭が」

 きっと混乱もあったせいであんなことを言ったのだろう。時間をおいて冷静になれば正常に戻っているはずだ。

「気をつけろよ。春は変態が出やすいんだから。それにお前、コスプレして家の仕事手伝ってるんだろ」

 ちょっと顔を赤くしてぎこちない口調だ。だが穂乃の忍者配達のことは、そこまで有名じゃない。もっぱら配達先が町内に限られるからだ。穂乃は笑って手を振る。

「大丈夫大丈夫。町は庭みたいなものだし、あっちこっちに知り合いがいるから」



 放課後になると、泰知にロッカーの前で呼び止められた。

「駅まで送る」

 朝言ったことを気にしていたらしい。

「え?いいよ。いざとなったら走って逃げるから。それに家の方向違うでしょ。心配してくれてありがとね。じゃ、また明日!」

「あっ、おい!」

 穂乃の脚力は校内一だ。あっと今に姿が見えなくなり、泰知の手は空をかいた。



 たったったと駅へ向かって軽く走っていると、後ろから来た外車が穂乃の横で止まった。窓が開いて、運転手の顔を見て驚く。昨日の残念なイケメンだった。

「乗れ。話がある」

「いえ、知らない人の車に乗るなと言われてるので」

 菱千は心外だと言いたげな顔をした。

「俺は知らない人間じゃない。不審者と同列に扱うな」

「昨日ちょっと話しただけの関係じゃないですか。話なら今ここで言ってください」


「......昨日、急に変なことを言って悪かった。自分自身、なぜあんな言葉が出たのか分からないんだ」

 ああ、なんだ。昨日のことを謝りに来たのか。あからさまに警戒して、ちょっと申し訳ない気持ちだ。

「いいですよ。あの時は混乱してたでしょうし。頭の具合はどうですか」

「いたって正常だ。バカにしてるのか」

 むっとした顔で言い返され、穂乃は声に出して笑う。


「なら良かったです。ちょっと気になったんですけど、なんでうちのお店に依頼をしたんですか?明らかに浮いてましたよね私」

「花屋に適当に検索をかけて、ヒットしただけだ。忍者が届けにくるなんて知らなかった」

 なんだそれ。ちゃんと説明を読んでから頼んでほしい。


「今回みたいなサプライズに使うのは勘弁してほしいですけど、ちゃんとした依頼ならお受けしますので。またのご依頼、お待ちしております」

 菱千はふっと表情を柔らかいものに変えた。

「ああ。その時はよろしく」


 決まり文句で依頼を待っているとは言ったものの、彼と会うことはもうないだろう。少し残念なような気もする。美形だったから?その理由は穂乃自身にも分からなかった。


 彼と最後に会った日から数日。外を歩いているとしばしば視線を感じることが多くなった。忍び装束姿を珍しがる目とはまた違う気がする。気味が悪いが、母にそれを言って心配させたくはなかった。多分気のせいだ。そう思い込んで日々を過ごす。そんな折、配達の依頼が入った。


 届ける品は花でできた可愛いクマだ。母は楽しげな様子でトランクを模したプレゼントボックスに入れ、取っ手にリボンをかける。

「行ってきます!」

 元気よく声をかけて店を出る。珍しいことに、今日の依頼も町外からだ。小さな女の子への誕生日サプライズである。

 到着したのはタワーマンション。収入の差が目に見える形でそびえ立っている。部屋番号を押すと、かなり間があって通話がつながった。


「あっ、もしもし。風切です。ご注文の品をお届けに参りました」

『すみません。それはキャンセルでお願いしたいんです』

「え?」

『急に出かける用ができてしまって』

「では品物だけお受け取りを」

 サプライズはキャンセルでも、物を受け取る時間はあるはずだ。それにこのクマは、依頼者の細かなオーダーを受けて作られた物だ。引き取ってくれるだろうと思った。

 しかし通話の向こうの男性は、いえと断る。

『すみませんが、そちらで処分してください。失礼します』


 ブツ、と通話が切れた。穂乃は呆気に取られていたが、やがてふつふつと怒りが湧いてくる。処分だって?母が丁寧に作ったこれを処分?ふざけている。人の思いをなんだと思っているんだ。

 固く閉ざされた扉を睨みつけていると、おいと肩を叩かれた。

「ここで何をやってるんだ。まさか入り方が分からないとか言わないよな」

「菱千さん!」

 なんという奇遇。がしっと手を握ると、驚いた様子で一歩下がる。

「力を貸してください。中に入りたいんです」


 このマンションに住んでいると言う菱千の協力で、扉を抜けてエレベーターに乗り込む。お客様を説教することはできない。だがなんとしてもこの品物は受け取ってもらう。これは穂乃の意地だ。

 忍者と美貌の青年という謎の組み合わせで、依頼主の部屋のベルを鳴らす。出てこない。もう一度押そうとしたときドアが開いた。出てきたのは男性だ。だらけた服装で、今から出かけるようには見えない。彼は穂乃と菱千の姿を見てたじろぐ。


「ご依頼の品です。受け取ってください」

「は?あ、ああ。処分してくれって言っただろ」

「奥様からのご注文を受けてお作りした物です。奥様は今、中にいらっしゃいますか」

「いや、妻は子供を迎えに行ってるんだ」

「では電話で確認をとってください。サプライズはキャンセルで、物も処分していいかって」

「今忙しいんだ!何なんだお前たち。警察を呼ぶぞ!」


 大人の男に怒鳴りつけられて、穂乃はびくりと体を縮こめる。菱千が穂乃の肩に手をおく。

「警察を呼ばれて困るのは貴方なんじゃないですか」

「はっ!?」

「どう見ても少女を恫喝している貴方が悪者ですよ」

「う、うるさい!さっさと帰れ!」

 勢いよくドアが閉められる。


「はぁ。なんて奴だ。来い、ここにいたら目立つ」

 穂乃は菱千に連れられて、とぼとぼと彼の部屋に向かう。部屋は広く、モデルルームのように生活感を感じない。普段だったらあちこちに目を奪われていただろうが、今はそんな気分じゃない。

「なんであんなに頑なに受け取らないんでしょう。外に出かける服装でもなかったし」

「確かに何か妙だ。俺が警察と言ったとき、やけに動揺していた」

 依頼主はサプライズの段取りまで指定していた。出かけることが嘘だとすると......家に入られたくない?

 穂乃は大きな窓を開けて、ベランダに出る。

「おい、何するつもりだ」

「この下って、位置的に依頼主の部屋ですよね」

「ああ、そうだな......まさか」

 穂乃はにこっと笑って尋ねる。

「丈夫な紐とかってあります?」


 ベランダの柵に紐を結び、それを使って降下する。

「冗談だろ......」

 菱千はひやひやしながらそれを上から見下ろしている。下のベランダに降り立った穂乃は、窓ガラスから中の様子を見た。泥棒が入ったような有様だ。そして床に転がされた女性と目が合った。

「奥さんいるじゃん」

 体を振り子のように揺らし、勢いをつけて窓に突っ込む。カシャンと高い音を立ててガラスが割れ、室内への侵入が成功した。何だ何だと別室から男が2人飛び出してきた。1人は配達員の服装をしている。穂乃は紐を両手でピンと張った。

「さあ、お縄につきなさい」



 2人の泥棒は警察に引き渡され、穂乃は夫妻に何度も礼を言われた。だいぶ段取りとは違ってしまったが、女の子にギフトを渡す。この子の笑顔が見られたのだから、危険を冒した甲斐があった。

 不意に頭にチョップを食らって、穂乃はいたっと声を上げる。犯人は菱千だ。

「お前な、腕に自信があるにしたって危険すぎる。反省しろ」

「わ、分かってますよ」

「それと......お前へのプロポーズを撤回しないことにした」

「はあ。......え!?」


 何言ってるんだこの人。あれは無かったことにしたじゃないか。

「あの日からずっと、お前のことが頭から離れないんだ。それで分かった。あれは気の迷いなんかじゃない。結婚を前提に付き合ってくれ」

「いやいやいや!あ、待って......もしかして最近私を見張ってたのって!うわぁ、ガチのストーカーじゃないですか!」

 見られているのは気のせいなんかじゃなかったのだ。ぞっとして顔を引き攣らせる。

「は?俺はそんなことしてない。いや、まさか家の人間が勝手に?」


 何やらぶつぶつ言っているが、穂乃の好感度は地の底まで落ちた。性格が悪い上にストーカーなんて最悪じゃないか。菱千の弁明を右から左へ聞き流した。



 あの後事情聴取を受けたが、ストーカー疑惑については言わないことにした。助けてもらったし、犯罪者にするのは良心が咎めたのだ。しかし今、現在進行形で情けをかけたことを後悔している。

 後ろをつけてきている。こんなに強い視線を向けられたらバレバレだ。はあ、と一つ息をついて足を止める。

「出てきてください。いるのは分かってるんですよ」

 すると、塀の陰から男が姿を現した。菱千ではない。

「え、いや誰......」


 男は荒く息を吐きながら近寄ってくる。

「気づいてくれたんだね......嬉しいよ」

 ジャージのポケットから、ばさばさと何か落ちた。それを目で追って、ヒッと声を漏らす。それらは全て、穂乃を写した写真だった。仕事中のものと、制服姿のものがある。一体いつから。


「ふへへ。僕をご主人様って呼んでごらん」

「うわあああ!」

 気持ち悪さで体が震え上がる。回れ右して逃げようとするが、うまく足が動かず転んでしまう。

「え?え?」

 おかしい。立てない。逃げなければいけないのに、身体がガクガクと震えて言うことを聞いてくれない。男の手が、穂乃の体に触れようとする。


 鈍い音とともに、男の悲鳴が聞こえた。振り返ると、顔をおさえてうずくまる変態と、その側に立つ菱千がいた。


「え......」

 驚いていると、どこからか現れた黒服の人たちが変態を取り押さえて連行していく。

「大丈夫か」

「手震えてません?」

 差し出された手は小刻みに震えていた。それを見たら、恐怖など飛んでいってしまった。笑いながら手を取る。

「笑うな。......初めて、人を殴ったんだ」

 さらなる笑いが込み上げてきて、目尻に涙を浮かべる。

「ふっ、いや随分育ちがよろしいですね。どこの坊ちゃんですか」

「......」


 スッと横から眼鏡をかけた男性が出てくる。ぎょっとして笑いの発作が止まった。

「ご無事で何よりです。私、秘書の斎川と申します」

「初めまして、風切です」

 流れで名乗るが、凪様って菱千のことか。

「凪様は面倒なお方ですが、今後ともぜひ、お付き合いをお願いいたします」

「はあ。あの、菱千さんっていったい何者なんですか?」

 斎川はご存知ない?と目を丸くした。銀縁メガネをすちゃっと押し上げて答える。


「凪様は、かの菱千リゾートの後継者であらせられます」

「リゾート......あっ、ニュータウン建設にも関わってるとかいう」

「その菱千リゾートでございます」

 へぇー、という感想しか出てこない。世事に疎いのだ。友人が前に何か言っていた気がする。記憶の隅の情報を思い出そうとしていると、背中に手を回されて抱き寄せられた。

「どうだ、俺に惚れたか?」

「いえ全然」

 即答すると凪は悔しそうな顔をしたが、ほんの少し嬉しそうだった。Mなのかもしれない。

「まあ、変に萎縮されるよりはいいか。覚悟しろよ、俺の全部使って、惚れさせてみせるから」

「はいはい」


 雑に返事して、じゃあ自分帰るのでと背を向ける。

「送っていくぞ」

「いいですよ。庶民には電車のほうが落ち着くんです」

 振り返らずに手を振る。だって今後ろを向いたら、赤くなった顔が見られちゃうじゃないか。

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