第三章 LIKE
第18話 109
来なければいいのにな、と思った程度で明日が来なければ苦労はない。
当たり前のようにカレンダーは全国で数多くめくられ、七月一日の朝がやって来た。外の天気は、文句なしの晴天。初夏の心地良い日差しが、窓の外から注ぎ込んで僕の目を覚ました。
「……今日、か」
眠気眼で手を伸ばし、テーブルから黒いスマートフォンをとる。何か連絡でも来ていないかとパスワードを打ち込み開いたが、とくにこれといった様子はない。もしかしたら、あとで電話が鳴るのかもしれない。今日は一日中電話を持ち歩こうと、僕は決めた。
「お兄ちゃんっ。おっはろーん!」
紅那がひょこっと、部屋の扉から顔をだした。
「うわ! おまっ、ノックぐらいしてくれよ」
「えー? でもノックって、ほら、めんどくさくない?」
「めんどくさいけどやるの。めんどくさいめんどくさいってそんなんじゃ生きてくのが辛いぞ」
「確かにそうだけど注意の規模が大きいよ、お兄ちゃん?」
楽しそうににこにこと笑う紅那。その視線に注意しながら、僕はそっとスマートフォンを身体の影に隠した。見知らぬ携帯電話を持っていたら、親に報告されてしまうかもしれない。それはめんどくさい……もとい、面倒な展開だった。
「で、何しに来たんだ、紅那」
「え? 今日は報告日じゃん。どしたのお兄ちゃん?」
うっかり――していた。
今まで僕が一度たりともそれを忘れたことなどないからだろう。紅那は心底不思議そうな顔をしていた。「疲れているの?」と小首をかしげながら訊ねてきたほどだ。
確かに、疲れているのかもしれない。
僕は重い体を起こして、のろのろと紅那の後についていった。
姉は、僕ら家族にとってヒーローのような存在だった。
他人の問題に首を突っ込む妹の性格は、姉に由来している。彼女はそれにプラスして、したたかさを豊富に持ち合わせており、問題を上手にまとめるのが得意だった。だから誰からも敬愛され、尊敬される姉だった。
そんな姉は、ある日を境に自分の部屋から出てこなくなった。最初は具合が悪いのだろうと思っていたが、引きこもる前の様子がおかしかったこともあり、家族はみな彼女の心配をした。僕が最後に姉と交わした会話は、引きこもるその寸前のものだった。
明朝。不意に早く目が覚めた僕は、リビングに出ていた。すると、ちょうど姉が外から帰ってきたところだった。こんな朝早くへ一体どこへと尋ねる前に、答えは明らかになる。姉は両手に二つずつ、コンビニのビニール袋を持っていたのだ。しかも、中に入っている商品の量が半端ではない。突き破ってしまうのではと思うほど、パンパンに詰め込まれている。
『……どうしたんだよ、それ』
『……買ったの』
『買ったって、どうして?』
『わたしね……信じてたんだよ。心の底から、大好きで――。でも結局、裏切られちゃった――』
『何の話をしてるんだ……?』
『わたしが受けた、裏切りの話』
そう言って、姉は階段を駆け上がった。彼女が最後に見せた表情は、苦しげで、儚げで、もう何一つ信じられないと訴えるような絶望の瞳を携えていた。
その顔は――今でも僕の脳裏に張り付き、離れようとはしない。
「おはよう、お姉ちゃんっ」
妹が『あおいのへや』と書かれた扉をノックする。
そして、今日の報告会が始まった。毎週、月曜日と木曜日が、報告会の日。その日までにあった楽しかったり、悲しかったり、悔しかったり、なんてこともない出来事を、姉の扉の前で話す日。
彼女に聞こえるようにと、僕と妹は毎回、少し大きな声で話すのが通例だった。
「でね、学校の友達がね、お揃いのペンをくれてね」
紅那の報告が続いていく。僕は耳で聞きながら、さて、今日は何を報告しようかと考えた。思いついたのは、雛乃の顔。いまどき珍しい長い黒髪の女の子。
雛乃は、僕と紅那と――そして姉である葵とも、仲が良かった。一人っ子である雛乃は、葵のことを実の姉のように慕っていた節がある。葵のほうも、彼女を第二の妹として可愛がっていたのであろう、雛乃の話は引きこもる前、姉の口から良く上がった。
彼女の話をしなければ。
そんな考えが頭に浮かんだが、実行できる勇気などない。そう思っていたのに、
「そうそう、あのね、お姉ちゃん。雛姉が町田に帰って来たんだよっ!」
紅那があっさり報告を済ませる。扉の向こうから、ガっと物音が聞こえた気がした。
それは、この扉に彼女の背中が当たった音。
葵はいつも僕らの話を聞こうと、扉のすぐ向こうに背中を合わせている。
この事は、四度目ぐらいの報告会で疑惑になり、六度目の報告会で確定となった事柄だ。たとえ視界が阻まれていても、色々なことが分かる。
葵は――僕達の話を楽しみにしていてくれる。
本当はこの報告会を、僕は毎日でもやりたい。けれど、早くそこから出て来いと訴えかけているようで、彼女の負担に、迷惑になるのが怖い。
「でもね……。雛姉は、そのぉ……あー、やっぱやめるっ」
紅那の話の続きがよほど気になったのだろう。うながすようにトントンと扉の向こうから指を叩く音がした。それを受けて、
「そ、そうだよね。こんな中途半端なところで区切られちゃ気になって眠れないようねぇ」
紅那は小さく何度も頷いた。伺うように僕の顔を覗き込む。小さく頷き返すと、紅那はやがて話し始めた。
「あのね、お兄ちゃんと雛姉、なんか喧嘩してるみたいなんだ。うちは、早く仲直りして欲しいなって思うんだけどね」
喧嘩。
紅那の柔らかな表現に、僕は思わず苦笑する。あれを果たして喧嘩と呼べるのだろうかと、ふと疑問に思う。
「ね、お兄ちゃん。早く仲直り、してよねっ?」
紅那が話を振ってくる。一瞬言葉に詰まったが、すぐに「あたりまえだ。すぐに仲良くなれるさ」と返事をした。それは――姉に心配をかけたくないという気持ちから来た、嘘だった。
『りりりりりりりりりりん! りりりりりりりりりりりりりん!』
呼び出し音が唐突になりだしたのは、その時だった。
――扉の向こうから、大きくガタリと音が聞こえたのも。
「お兄ちゃん、呼び出し音変えたの?」
妹の不可思議そうな顔。
「……直くん」
その顔が一瞬で、喜びに変わっていった。
「お、お姉ちゃん!?」
りりりりりんと、小さな女の子の声が響く中、妹が扉に手を触れる。僕も、扉を見つめていた。嬉しくて、心が温かくなる声。
「な、なんだ、姉さん」
「……直、くん」
久しぶりに聞く姉の声は、弱弱しかった。それでも、彼女の優しさが伝わってくるような、こちらをいたわる声だった。その声にある種の厳しさを交えて、彼女は――
「そのゲームを、今すぐやめて」
「え――?」
「やめて。お願いだから。やめて。頼むから。やめて。やめて。やめて。やめて!」
「……ね、姉ちゃん?」
「ゲーム? ゲームって、何のゲーム?」
紅那が小首をかしげる。僕にはもちろん心当たりがある。りりりりんとなり続けていた携帯を、ポケットから取り出す。姉の誕生日を入力して開く。
『本日のゲーム案内\(^o^)/
二時間後に町田109に集合してくださいっ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます