第9話 成功報酬
駅員さんに謝って吐瀉物の報告をしたあとに、僕はフラフラと雛乃との待ち合わせ場所に向かった。すれ違う人の大半が、僕の臭いに不快感を覚えたらしく、顔をしかめた。
それでも、改札前に立った僕は未練がましくも、その場に立ち尽くしていた。
――なんて都合のいい男だろう。
自分でそう罵って、自分で落胆した。雛乃から送られてきた、『許せない』の四文字が心に突き刺さる。
どうして、僕はあんなことをしてしまったのだろう。雛乃は僕を、裏切ってなんかなかったのに、どうして彼女を信じきれなかったのだろう。
それは、あの特殊な環境のせいであると言い切るのは難しくないように思えた。
しかし、その安易な逃げ道に駆け込んでしまっても構わないのだろうか? 自分で……自分が許せない気がするのは、なぜだろう。
記憶の隅で、何かが輝いた気がした。「約束して」と雛乃の声を思い出した。あれは、たしか――。
しかし僕は、それを思い出すことができなかった。
出口のない思考をいつまで続けても、白いシフォンワンピースを身にまとった少女は現れない。
仕方なく、とぼとぼと帰路につく。
その通り道に、あの少女と雛乃と、そして僕が死んだ場所を通ったが、床が粉砕された形跡や吐瀉物の跡、血の海などは形もなく、ただいつも通りの広場とオブジェがそこにあった。
「ただいま」
「おかえ……て、直也どうしたの? 吐いたの?」
顔をしかめながら母が言う。僕は曖昧にうなずいて、シャワーを浴びると言ってその場を離れた。二階の自室からシャツと短パンを手に取り階段を下りた。風呂場に入り、服を脱ぐ。汚れた服をバケツにいれて、洗剤を垂らして水につける。下着をとって風呂場に入った。シャワーのノズルを回す。冷水で顔を洗った。冷たい水の感覚が、少しずつ僕の熱を、霧を、晴らしてくれるようだった。
ラフな服装に着替えたあと、僕は再び二階へと上がった。途中で立ち止まる。姉さんの部屋の前だった。『あおいのへや』とポップでカラフルな文字がプレート上で踊っている。それを数秒眺めたあと、自分の部屋へと入り、ベッドに寝転がった。
そのタイミングで――
『りりりりりりりん! りりりりりりりりりん!!!』
「うおっ」
携帯電話が鳴った。例の女の子の声だった。黒い携帯電話を手に取る。画面に、初めの時と同じ手紙のようなデザインの背景の上に、ゴシック体の文字が浮かび上がっていた。
『初ゲームお疲れ様でした! (_´Д`)ノ~~オツカレー
さてここで基本ルールの開示です。この携帯電話にかかったパスワードは、あなたがもっとも大切だと思う人物の誕生日を四桁の数字で表したものです。七月九日が誕生日なら、『0709』といった要領ですよ? この携帯によってゲームの様々なルールが得られますので、これからの戦闘に役立ててね~☆
加えて、加えて、このゲームの最重要ルールを説明!
このゲームをクリアしたものには、あなたが望む世界がまるごと与えられマース! ぱんぱかぱーん!
そしてそして、累計ポイントが0になったプレイヤーはこの世界から存在を消されてしまいます!(例外を除く)
きゃー怖いよぉ(ブルブル) さあ青鴉さん、存在を消されないために頑張ってね?』
ある一文に、釘付けになった。
――あなたが望む世界がまるごと与えられる。
夢物語のような話だ。
たくさんの可愛い女の子に好かれる世界であったり、巨万の富を持ち、際限ない贅沢をできる世界であったり、永遠に生き続けられるような世界であったり。
そんなものまで、望めば手に入るとでも言うのだろうか。
「ばかばかしい」
呟きつつも、その言葉とは正反対に僕の心はうずいていた。
人が動きを止めた、町田駅の構内。念じれば手元に現れる武器。いつの間にか戻っていた、戦闘の痕跡。
それらの行いは、そうまるで、古の神のしわざであるかのようだった。
ならば――ひょっとしたら。この夢物語は、真実なのではないだろうか。なんて……。
「……ばかばかしい」
そこまで思考を進めておきながら、僕はそう吐き捨てた。望む世界をまるごと全部だなんて、与えられるわけがない。
それに、もしそれらを真実とするならば。
――累計ポイントが0になったプレイヤーはこの世界から存在を消されてしまう。
この言葉もまた、同様なのであろうから。
「いっそこんなゲーム、やめたいなぁ」
つぶやくと、黒い携帯電話に反応があった。
『あ、伝え忘れてた忘れてた。このゲームを放棄すると、とんでもないことが起こりますよ? 具体例→死亡(*´∀`)』
ふざけた携帯電話のふざけた言い草に、僕はいっそ脱力した。こんな大規模なゲームを仕掛けてくる人間だ。それくらいのことは平気でやってのけるぐらいの狂気を、当然のように持ち合わせているのだろう。
いったい、僕はこれからこのゲームとどう付き合っていけばいいのだろうか。
そんな物思いにふけっていると、控えめなノックの音が聞こえた。「お兄ちゃん? 入っていい?」と、妹の声が扉越しに聞こえる。
身体を起こし、扉を開いた。茶色がかった黒髪を高い位置で二つに結んだツインテールの少女――紅那(くな)が立っていた。
「どうしたんだ、紅那?」
「うんっ。とくに用事はないんだけどね。たまには顔を見せないとって思って」
「は――? 何言ってんだよ紅那。いつも顔合わせてるじゃないか」
「うん……。そうなんだけど……。なんかお兄ちゃん、ゲロ吐いて帰ってきたんだって?」
「あぁ……」
片手で頭を抑えた。あのおしゃべりな母親は、あっさり妹に話したらしい。別に口止めしたわけではないが、少しは兄の名誉というものも考えて欲しいところである。
「大丈夫?」
紅那は、けれどからかうような姿勢は見せなかった。ただ、心底心配そうに、大きな瞳で小首をかしげながら僕を見上げた。
「……大丈夫だよ。そんなに心配しなくても」
「本当に?」
「念入りだな……」
「いやぁー、お姉ちゃんが閉じこもる前にも、こんなことがあったからさっ」
あえてだろう。やけに明るく紅那が言った。
「こんなこと?」
「え、知らないの? 吐いて帰ってきたこと。すごく顔色が悪かった」
「そんなことがあったんだ」
「うん。女の子のことだからって、お兄ちゃんには伝えなかったんだろうね」
「男女差別の母親め……」
僕はため息をついて、紅那に心配してくれてありがとうと伝えて扉を閉めた。
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