2-8話 撤退戦
茂みから出てきた、1匹のウサギ。
大きな体と角を持つ、この森最強のモンスター、一角ウサギ。
大ガラスや大耳ネズミのように、その名前に『大』の文字はついていない。
しかし、実際にはこの森で一番大きい。
ぴょんぴょん飛び跳ねる強靭な足腰は、森の他のどんな生き物よりも素早く移動できる。
そして、その名前の由来となった、額に生えている1本の長いツノ。
強靭な足腰と長く固いその角から繰り出される攻撃は、大ガラスのくちばしとは比べ物にならないくらい深く、敵の体に突き刺すことが出来る。
レベル1の冒険者でも入れる強さのモンスター達が多いこの森で、レベル1では1撃食らうだけで死んでしまう危険性がある魔物。
それが、一角ウサギだった。
対して私は、大ガラス達との戦闘を終えたばかり。
HPが減っている。それを回復するチャンスはたくさんあったはずなのに……。
相手は明らかに、その隙を狙って私の前に現れた。
私の油断だった。しかも、致命的な。
加えて私は、さっき気が付いた事がある。
体の不調だ。
体が少し、動かしにくい。
大ガラス戦の時は気が張っていたせいか気が付かなかったが、さっきひと息付けたときに感じた。
思えば、修行中も似たようなことがあった。
雨の日の外での修行の後、体が動かしにくいと感じたことがあった。
あの時の感覚にそっくりだ。
多分、泥だ。
私の体は不純物を浄化する能力があるが、おそらくその時にMPを使う。
MPが減れば減るほど、人間で言う筋肉痛のように、体が少し動きにくくなってしまう。
普段であれば気にはならい程度の動き辛さも、こんな状況では、非常に大きいハンデに感じる。
HPが減っている。体の体積も減っている。戦闘の後で精神的な疲労が残る。加えて、体の不調。
私よりも『格上』の敵に、絶不調の状態で挑まなければいけない。
一角ウサギと私は、お互い、正面から対峙する。
一角ウサギが普段、野生のスライムを襲うのかどうか。それは分からない。
しかし、大ガラスとの戦闘で感じ取ったのだろう。私が、モンスター達の命を脅かす危険な存在だという事に。
だから、弱っている今のうちに倒しておかなければいけない。
多分、そう思っている。
さあ、どうする私。
私にとって唯一の幸いは、まだナイフを仕舞っていなかったという事だ。
大耳ネズミや大ガラスのように、ちゃんと当たり所さえ間違えなければ、大ダメージは与えられるはず。
でも、一角ウサギはその2種よりもHPが多いはず。一撃で倒せるかどうかは分からない。
加えて、今までの私の攻撃は、急所と思われる場所……つまり、目と目の間、眉間を狙った攻撃だった。
しかし一角ウサギは、その場所に固いツノが生えている。そこに投げても、角に弾かれてしまう気がする。
じゃあ他の急所は……あれ、どこ?一角ウサギの急所ってどこ?
たぶん喉とかだとは思うけど、どうやって下から狙えばいいの??
大ウサギが、攻撃の構えを取り始める。
考え事をしながら始めていた私の硬化は、下半身だけなら、それなりに間に合っている。
来る……!!
一角ウサギの突撃。
一角ウサギもまた、攻撃手段は突撃一辺倒。
しかし、他のモンスターと違い、それだけでも危険なほど恐ろしい威力。
ものすごい速度で迫ってくる!!
最初の攻撃は、かろうじて回避。
すぐ切り返して再び突撃してきた2度目の攻撃は、体の粘液をツノにわずか持っていかれたが、私の下半身側面を掠めた程度で済んだ。
3度目の攻撃。
私だってこのままやられるわけにはいかない。粘着ボールの準備が整っている。
突撃に合わせて、粘着ボールを射出!
結果、お互いヒットし、ちょっとだけ痛み分け。
粘着ボールは一角ウサギの左側にヒットした。たぶん、左目に入った。泥混じりの液体で視力をわずかに削れたはず。
私は左手が消えていた。ひじの先に有ったものが無い。
まあ人間の体だったら大事だが、私なら大丈夫だ。
やっぱり大ガラスよりも一撃がはるかに重く、体躯の分だけ攻撃範囲が広い。
私の胴体に直撃すれば、体の粘液をたくさん持っていかれてしまうだろう。
一応体がまだ泥水のままなので、コアの位置はバレてはいない。
でも、そんな小細工は相手には通用しないだろう。
コアがどこかなんて関係ない。巨躯の攻撃があと1回か2回直撃すれば、私は全身ごと粘液を持っていかれてしまう。
……駄目だ。
勝てるビジョンが全く見えない。
よし、逃げよう!
無理しちゃダメだ。
今は生き残るんだ。
戦わなきゃいけないにしてもそれは今日じゃなくていい。態勢をちゃんと整えて、リベンジすればいい。
逃げる事は恥じゃない。今は逃げる。生き残る!!
一角ウサギがまた突撃してきたので、そのまま回避。
今回はうまくいったが、今度は向きを相手に向けることなく、そのままぽよんぽよん体を弾ませて、距離を開けていく。
そのまま、逃げる。
広場を離れ、カラス達に導かれるようにして進んできた小道を逆に進むように。
私の逃走に気が付いた一角ウサギ。
このまま見逃して……くれないようだ。
私を追いかけてくる!!
私は考えていた。
私、逃げ足の速さってどのくらいなんだろうって。
ゼリー状じゃない通常形態で這いずって進むのは、基本的にはあんまり早くはない。
修行中、移動の遅い私に合わせて、クルスさんもオパールさんもゆっくり歩いてくれた。
申し訳ないので早く這いずってみようと思った事はあったが、それでも、人間の普通の歩く速度よりも全然スピードは出ない。
早く進めるのは、今みたいに、体をゼリー状にしてぽよんぽよん弾ませて飛び跳ねながらだ。
ボールがバウンドしながら転がるように、私は体を弾ませて進む。
ボールと同じように、勢いを付ければそのぶん早く弾む。
でも、結局ボールくらいと言えばボールくらいでしかない。
後ろを振り返る。
やっぱり、強靭な足腰の一角ウサギのほうが速い。
どんどん私に迫ってくる。
どんどん距離が詰められる。
もう、私との距離もまもなくだ。
そしてどうやら、その速度のまま、ツノ付きの巨躯をぶちかましてくるようだ。
私は後ろを振り返りながら、そのタイミングをうかがう。
……来る!!
逃げながら、弾みながら、避ける。
それがどんなに難しい事か。
視覚と聴覚が途切れる。
今失ったのは……そっか、頭か。
多分、口から上を一気に持っていかれた。
胴体への直撃は避けられたようだ。相手にとっても当てるのが難しいんだろう。
頭だけで済んだのは幸いだったかもしれない。
私は即座に頭を復元する。
視覚と聴覚が復活する。
一角ウサギは私を追い越して、いまは前方にいる。
再び切り返し、再度ぶちかまし。
今度は下半身を掠める。危ない、もう少しでコアだった。
再び私の後方に移動した。
私はこのまま勢いを殺さず、バウンドを続けてさらに逃げようとする。
私は今、どのくらいの体積になっている?
あとどのくらい持つ?
どこまで逃げればいい?
そもそも逃げられる?
後ろを振り返る。
あれ……?
ちょっとだけ距離が空いてる。
どうして……あ、そっか、下り坂なんだここ。
坂道のせいで、私が転がる速度が上がったんだ。
一応は、幸運かもしれない。
しかし下り坂で速度が上がるのは、相手も同じだろう。
後ろを向いていたら、突然、違う方向に体がバウンドした。
「わっ!?」
前を見ていなかったせいで気付かなかったが、大きな岩に当たったらしい。
斜め前方に私の体は弾み、そのまま獣道を逸れてしまう。
後ろから迫る敵は、やや戸惑った様子。
しかし、追ってくるのを止めない。
岩に弾かれて不規則な動きが加わったのは、私にとってはむしろチャンスだった。
うん、そうだ。このままこれを利用して、弾みにバリエーションを加えて逃げよう。
利用できそうな他の岩や倒木なんかがあれば、それにわざとぶつかり、弾む方向を変えながら、坂道を落ちていく。
ウサギは、付いていくのがやっとのようだ。突撃はしてこない。
しかし、追っては来る。
岩を利用した逃走は、いいアイデアだとは思う。そうは思うものの、うーん、難しい。
後ろを振り返り、ウサギの様子を確認しながら、さらに岩などを探す。
振り返るたび、若干体のバランスが崩れるのだ。それを立て直すぶん、ちょっとだけ速度が落ちてしまう。
岩を利用したバウンドも、上手くいけばいいのだが、失敗すると反対側に弾かれる。つまり、一角ウサギの方向に。
振り返る度に距離を詰められ、バウンドに失敗する度に大きく差を縮められ、それでも上手く行けば距離を離し……そんな事を繰り返し、私は逃げる。
せめて、視界だけでもどうにかならないか。後ろを何度も振り向かず、ちゃんと岩を確認しながら、逃げられないか……。
「……あっ」
そうだ。思い出した。
私は人間じゃない。スライム娘だ。
一番最初、水がめの中で意識を戻したときの事を思い出した。
あの時、複数の視界が一気に流れ込むようで、くらくらして見辛かった。
私は人間のように、視界が1方向限定じゃないんだ。
何も『目』からの視界にこだわらなくてもいいんだ。
「……やってみよう」
意識してそうしたことは無かったが、試してみる。
現在の『目』のあたりの視覚に加え、『後方』の〈視覚を増やして〉みる。
「……すごい、見える……」
前は見えるのに、後ろから来る一角ウサギの様子も見える。
たぶん、背中かな。そこに新しく目が付いたような感じだ。
これなら、後ろを振り向かなくてもいいかもしれない。
でも……
「気持ち悪い……」
ただでさえぽよんぽよんして不安定な視覚だ。
それが、前と後ろ、2つの視覚が『重なって』見える。
なんだか頭がぐわんぐわんする。
「視覚……2つの視覚……どうにか見やすく……」
私は考える。
そうだ、思い出した。
「ドローンの鳥さんだ……」
私の卒業試験の時、オパールさんが、鳥型の機械を使って私の事を遠くから見ていた。
その時使っていたのが、正面がガラスの機械の小箱。オパールさんは『モニター』と呼んでいた。
ドローンの鳥さんの視覚……つまり、別の視覚が、その四角形のガラスに映し出される。
そっか、そうやって視覚を分ければいいんだ。……出来るかどうかはともかく。
逃げながら試行錯誤。
結果、一応の形にはなった。
今の私の視覚は、正面からの視覚が見える。
しかし、ちょっと上の方がぼんやりして、その範囲の視覚が途切れる。
その上に、後方から迫るウサギの姿が見える。
真ん中に大きく正面の視覚、上の方に後方の視覚。2つの視覚が分かれて同時に見えている。
これで、私の逃げるスピードがかなり速くなった。
後ろを振り返らずに済むので、速度が落ちる事が無い。
正面をちゃんと見られるので、岩や倒木で狙い通りバウンドできる。
まだこの視覚にそんなに慣れきっていないが、さっきよりはマシだ。
一角ウサギは、どんどん離れていく。
複雑化した地形を上手くぴょんぴょん飛び跳ねて追っては来るが、さすがに速度はそこまで出ていない。
しかし相手もさるもので、完全に逃げ切れるほどではない。
距離を離されながらも、それでも、私を逃がしてくれるような気配は今だ無い。
となると……うん、このままどんどん逃げる。
逃げて逃げて、この森から出てしまおう。
さすがに森から出て草原まで行ってしまえば、モンスターは追って来ないだろうとは思う。
獣道からだいぶ外れてしまっているが、方角的に、こっちに進めはどこからかは出られるだろう。
よし、森の出口を、このまま目指す!!
そして進んで、あと2~3分で、おそらく森の出口。
そこまで差し掛かったところで……
「あっ……」
気が付いた。
そうだ。私は森から出られない。
森から出れば安全、というのは、それは視界が遮られない草原に出られるからだ。
鬱蒼とした森の中と違い、草原では、身を隠せる場所が無い。
だから、モンスターはそれを嫌がる。
草原で自分の姿が丸見えになれば、身を隠せる場所が無くなる。
他の敵……つまり、街道を歩く人間なんかに見つかってしまう。
この森はさらにアム・マインツの街の近くだ。
森の外は、街の監視塔から遠眼鏡で見える範囲の場所だ。
森からモンスターが出てくれば一発で分かる。
そうなると、憲兵隊が出動し、森から迷い出たモンスターは退治される。
この森が、レベル1の新人冒険者にも推奨される理由。
それは街を護る憲兵のおかげなのだ。
どんなにピンチになってしまっても、森から逃げさえすれば、助かるから。
でも、でも……その方法は、私には使えない。
私はスライム娘だ。モンスターだ。
助けてもらえる側じゃない。退治されてしまう側だ。
人間に変装すれば、助けてはもらえるだろう。
しかし、変装にはそれなりの時間がかかる。というか、緊急時の短時間での変装なんて、今まで想定していない。
シリコンの形状に顔を変え、手を変え、足を変え。そしてマジックパックを開け、ウィッグを付けて、ローブを着て……。
この一連の作業、何分かかる?
少なくとも、全ての工程を終える前に、一角ウサギは追いついてしまうだろう。
駄目だ。完全に、逃げる事しか、逃げられる事しか考えていなかった。
私のこの『森の外まで逃げる』作戦。根本的に駄目じゃないの。
森の外に出たら憲兵に殺される。
逃げなきゃ逃げないで一角ウサギに殺される。
手詰まりだった。
泣きそうだった。
誰かに助けてほしかった。
でも、助けなんて呼べない。
私を助けてくれる人なんて、この森の付近にはいない。いるはずもない。
見えた。
見えてきてしまった。
明るい光。
森の出口、草原から差し込む太陽の光が。
ここを目指して、今まで必死に逃げてきたはずなのに。
まさか、ここから出られないなんて。
明るい光が、絶望の光のように感じた。
どうする、どうする、どうする……?
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